ウォークマンとバレーボール

ウォークマンと音楽専用ホールに代表される「ニッポンの洋楽1980s」は、重化学工業による世界的高度成長が達成された第二次世界大戦後の国際市場に繊維産業(軽工業)で船出した戦後日本の音楽文化領域における反復と解釈できるのではないか、という想念に数日来とりつかれている。

80年代に広告とメセナで文化の庇護者を演じたサントリーは、せいぜい、大原総一郎のクラボウのような存在であり(=サントリー芸術財団は大原美術館の反復ではないか説)、ウルトラセブンとホールオペラの実相寺は紡績工場の女工さんたちで組織された「東洋の魔女」、小澤征爾は大松監督(←いちおう国際試合を制して歴史に名前が登録された)、世界のタケミツは「回転レシーブ」(←欧米の戦後前衛音楽史における扱いは既に過去のものになった小技に過ぎぬ)だったのではなかろうか。ミツコ・ウチダのモーツァルトがロンドン楽壇の一挿話なのは言うまでもなく。

バブル華やかなりし80年代は60年代(オリンピック)のファルスとしての反復だ、ということでツジツマが合いそうなのだが。

戦前の生糸綿花にかわって戦後の紡績が化学繊維を売ったように、世界のSONYのウォークマン/CD・MDは音響の「再生産技術」だし。

それじゃあ、ニッポンの自動車産業に相当する洋楽界の重化学工業とは何だったのか、と考えたときに浮上するのが「音楽演劇学」ですよ。トヨタも実は学問芸術を振興していたし、「二国/新国」を頂点として90年代に本格展開することになる一連の「オペラができる芸術劇場」の先駆けは、猿之助にオペラ演出を委嘱してオープンした名古屋の愛知県芸術劇場なのだろうし。

(東京がサントリーホール30周年を祝っている2016年に、関西では、もはや音楽専用ではない二代目フェスティバルホールや、もはや四面舞台ではない京都ロームシアターが21世紀の洋楽の拠点になりつつあるのだから、関西の世間の風をつかむ勘は、まだ死んではいないかもしれない。大阪の中之島も京都の岡崎も、交通の便がよくて坂道はないから、初老の山田治生に文句を言われることはなさそうだしwww(←twitter風に草を生やしてみた)。)

旧日本楽理兵

いま鳴り響いている音を自分の耳で聴いて判断できない者の言葉が硬直していくのは哀しいことではある。

かつて〇〇さんが△△を絶賛したのを記憶にとどめて、その言葉の記憶を既に〇〇さんが一線を退いた今も反芻して更新しないのは、南洋の島に潜んで太平洋戦争を継続する旧日本兵に似ているかもしれない。

知の拍車

先端研究の語は advanced research の訳だと思うが、先端という日本語は、eperons の題を掲げてニーチェを読む批評を連想させる。 尖ったもので板を引っ掻くstyle の話だ。

先端研究の語の再英訳としては、stylistic research がいいのかもしれない(=脱構築)。そして stylistic が同時に stylish であれば集客と資金獲得に好都合、というのが、90年代にトレンディだったかもしれない「知の技法」である(=表象文化論とキラキラ学部の起源)。

学校と恋愛

トレンディドラマは学校が舞台であっても教育がテーマにはならなかったし、どうやら、学校における恋愛、というのも80年代(以前)には描かれなかった気配がある。中学生が愛し合うのは、清く正しく美しい青い山脈はもちろん、金八先生でも学校を揺るがす大問題という扱いだった。

というような昭和の恋愛史に踏み込むと小谷野敦になってしまうが、そうではなく、学校ではこっそり愛し合うものである、というような通念は、昭和のクラブ活動としての音楽の題材やモラルにも影響を及ぼしていたのではないかと思ったのです。服部正や大栗裕が昭和30年代に大学生のクラブ活動の音楽物語で童話・民話を取り上げて、それが当時は通用していた(子供っぽいとは思われなかった)のは、学校が大人の恋愛から隔離された場所とされていたからではないか。そして80年代から90年代の転換期の若者向けのドラマが恋愛の場所を学校とのつながりを保ちながらそこから一歩踏み出した場所(学校と空港の間)に設定したり、大学生のクリスマスがサカリの付いたケダモノのような騒ぎになったのは、女性の位置/地位が少し変わって、ようやく少し事態が動いたということだったのかもしれない。

(戦前の旧制高校生のドイツリートはいいけれど、音楽学校の卒業生がオペラに出るのは淫乱だ、とか、音楽学校でシューベルトはよくてショパンはダメだった、というモラルも、何か怪しい。カルスタ・ポスコロ的なイデオロギー批判だけでは処理しきれない案件なのではなかろうか。)

その後あっという間に、あらゆる欲望を「動物化」していいことになってしまって、物事の成り行きはあまり文明的ではない感じがするけれど。

符丁その2

「ロンバケ」とか「ラブジェネ」とかの略語は、ヒットしたドラマをテレビ雑誌で書くときによく使われていたようだ。おそらく制作側のスタッフ、広報の使う業界/ギョーカイの語法がジャーナリズムに伝播したのだろう。

だとすると、この種の略語をクラシック音楽(とりわけオペラの外題)でやることへのクラシック音楽愛好者のアレルギーは、興行という同じ世界のお隣同士、自分たちに最も似て、最も近い者に対して、そうであるが故に反発を覚えて、自分たちはそれとは違う、と言いたがる心理かもしれない。近親憎悪だ。

学校と空港の間のお伽噺に囚われた時代

月9 101のラブストーリー (幻冬舎新書)

月9 101のラブストーリー (幻冬舎新書)

織田と有森と江口の役柄を愛媛の「同郷」という風に言うのでは不十分で、3人はただ同郷なのではなく、同じ学校の同窓生(同級生?)なところが「月9」的なのではないかと思う。郷里といっても学校であって家族ではない。就職したあともツルんでいる同窓生(同級生?)の絆のほうが、ロスから来た女の子との関係よりも強かった、という話、もしくは、東京という街を学校的な人間関係で分節している人々が帰国子女とうまくつきあえなかった話に思える。

成田空港の国際線のエスカレーターがこの種のドラマの定番のラストシーンだったわけだから、当時の「トレンディ」は、学校と空港の間に花開いていたのかもしれない。

(DCブランドは空港から輸入されるのだし、空港から飛びたつ飛行機は、学園ものと並ぶオタク好みの題材なのだから、学校と空港の間という場所は、ネアカな遊び人からネクラなオタクまでを包摂する「ニッポンの想像力」のインフラ的舞台装置だったのかもしれない。「月9」の前史や周囲には、学園ものや国際線のパイロット/スチュワーデスがよく出てくるし。)

91年の2月(「東ラブ」放映中)に修士論文を提出して、直後に留学が決まって、8月からドイツに行って、「ぼくは死にましぇん」のことは翌年帰ってくるまでよく知らなかったのだが、今頃になってようやく事情が飲み込めた。

留学や海外勤務や帰国子女を、学校と空港の間に架かる虹のようなメルヘンのフィルタ越しに眺める感性が実在したと考えていいのでしょうか?

留学や海外勤務や帰国子女が、当人たちの預かり知らないところであたかもメルヘンの住人であるかのように見られていたのだとしたら、そのようなメルヘンを高校生くらいで背伸びして視聴していたのであろう90年代の大学院生たち(長じてゼロ年代の論客たち)が頑なに内向きで、ヴァーチャルとかイデオロギーとかということに過剰反応するのは、理由のないことではないかもしれず、でも、今となっては、「君たちはいったいいつになったメルヘンへのコンプレックスを解消できるのか」と呆れられても仕方がない気がします。

(たぶんこれは、J-POPをモデルにしてブランディングされた今日のJ-CLASSICとその末裔の問題でもある。)

メディアミックスの文法

月9 101のラブストーリー (幻冬舎新書)

月9 101のラブストーリー (幻冬舎新書)

ドラマ本編で主題歌が鳴る、というのは「月9」の文法なんですね。番組が佳境に入ったところでオフコースやチャゲアスのシングルCDが発売されてヒットチャートを席巻するタイアップの手法がどのように生まれたか、「月9」の歴史はメガヒットを連発した90年代J-POPの歴史でもある。

90年代半ばの三谷幸喜は、そういうメディアミックスの文法から外れた場所をフジテレビの中に作った人、という立ち位置で、出演する役者が違うし、平井堅のエンディングの歌がドラマ本編で響くことはなかったが、最初の連続ドラマ(急な代役でホテルにカンヅメになって書いたそうだが、上の本を読むと当時のフジのドラマはそれまでもそうやって新人脚本家をデビューさせていたようだ)ではチャゲアスがガンガンに鳴っていた。織田裕二、石黒賢、千堂あきほ、という「月9」風の座組で、Yah! Yah! Yah!は、たぶんSay Yes以上に売れたはず。

真田丸のテーマ音楽の使い方は、NHKのスタッフが代替わりして、放送局の看板史劇が90年代民放&J-POPの文法で制作されるに至ったということになるのでしょうか。(大河ドラマのテーマ音楽は、J-CLASSIC的に奏者を売るとしても、そこまで爆発的なヒットにはなりそうにないが。)

言論の貴賎

仕事で話すことに疲れた者はネットで他人の話を聞くことを喜び、聞くことに疲れた者はネットで話すことを喜ぶ。

だが話すことと聞くことの間に貴賎はない。貴賎という価値を導入したがる者は、高貴ではなく、高貴に憧れる成り上がりである。

ユジャ・ワン

ショスタコーヴィチの1番は、まあ、ありかもしれないけれど、ショパンをどう評価するか、だと思う。

(内田光子も90年代に小澤&サイトウ・キネンと共演したベートーヴェンはキツい。色々なことが露呈している。あの頃は、小澤も「老い」の兆候が見える辛い過渡期だったのではないか。)

21世紀の高等遊民

人文学にとって、教養市民の後継である彼らは自らの基盤だが、音楽家からすれば、おそらく彼らは有力な顧客候補のひとつに過ぎない。絶対音楽論は、劇場が日常的に反復可視化するこのような反転を抑止隠蔽してしまう。