命日

書き忘れていました、11月19日シューベルトの命日に、京都で「美しき水車小屋の娘」の演奏会のプレトークを務めさせていただきました。堀朋平さんの本が出たおかげで、シューベルトについての知識を劇的にアップデートできたことをかみしめる機会となりました。

音楽演劇学の興亡

今は改組されてその名称がなくなったけれど、阪大文学部に美学科が設置されたとき、音楽学専攻は、公式には、山崎正和の演劇学専攻とあわせて「音楽演劇学講座」を構成していた。私は、履歴書的には「大阪大学美学科音楽演劇学専攻卒業」ということになる。(大学院は、美学科の上に美学専攻と芸術学専攻を置く構成で、音楽学は芸術学専攻に属したので「大阪大学大学院文学研究科芸術学専攻博士後期課程単位取得退学」。)

「音楽演劇学」という学問があって、オペラやミュージカルや歌舞伎を研究するところだと思われることがたまにあって、そうじゃないんですよ、と説明していたが、思えば、中川真らがガムラン(影絵芝居ワヤンと結びついている)をやって、岡田暁生がリヒャルト・シュトラウスのオペラを研究したのは、「音楽演劇学」という学問があると誤解する世間に対して角を立てない賢い選択だったかもしれない。

1980年代に出た Neue Handbuch では各章がオペラの記述から始まっていて、1970年代後半にはドイツでも音楽学が「自律音楽/絶対音楽」を中心に据える態勢を脱しつつあったと思う。(『絶対音楽の理念』で自律音楽を批判的に吟味したダールハウスが Neue Handbuch の18、19世紀の巻を監修、執筆している。)長木誠司のブゾーニ、岡田暁生や広瀬大介のリヒャルト・シュトラウスはその流れだろう。宗教改革風の北米ニュー・ミュージコロジーに対して、欧州には反宗教改革風に音楽研究を内側から改編する動きが(新音楽や古楽や対抗文化とある程度リンクする形で)既にあったということだ。(オペラは、ドイツではミュンヘン、ドレスデンに伝統が根付いているように、おおむねカトリック圏の芸能です。)

東大美学から1990年代に渡辺裕の聴衆論が出て、その弟子の吉田寛が2000年代に「音楽の国ドイツ」批判を展開した。今思えば、やはり東大美学出身の庄野進らが1980年代にジョン・ケージを論じて、礒山雅が音楽評論家として古楽の商業化を擁護してワーグナー協会機関誌を長年編集したのは、玉川上水の国立音大が本郷の東大美学の出城として機能した、ということだったのかもしれない。

東大美学勢は、バブルとその残り香のような財界のパトロンたち(サントリー財団やいずみホール)を味方につけて、商業出版で日本国内の「ポスト教養主義亜インテリ」な読者層(典型的には高校教師あたりか?)に歓迎されて今日に至っているが、音楽研究者の反応が薄かったのは、上記のような音楽研究の動向(それこそグローバルな)から見て、何を今さら、と思わざるを得なかったからだろう。(少なくとも院生時代の私は「何を今さら」と思っていた。)

「音楽演劇」という発想は、教養主義的な絶対音楽論とその批判というこの島国の「コップの中の嵐」の外部に音楽研究を開く可能性がありそうなのだが、国内をお江戸の東大が押さえてしまった結果、長木誠司は本郷ではなく駒場の教授になって、岡田暁生は京大人文研という学生から切り離された場所に隔離されて、オペラ論は民間のほうがさかんで、研究者は海外へ流出して今日に至っている。

礒山雅、渡辺裕と二代続けて東大美学出身者が日本音楽学会の会長に選ばれて、その下では、殿様がだれになろうと何も変わらない楽理幕府直轄の御家人衆のような人材による「権威付け」のシステムが黙々と稼働している現状は、このような構図を踏まえて、その功罪を考えるべきだろう。

「グローバル化」という世間で通りのいいスローガンを掲げても、これを東大美学が横取りして、ローカルな権威付けのエネルギーに変換するシステムが、既に出来上がっている。だから、東大美学は「劇場」がわかっていない、とか、「声」を尊重して何が悪いか、とか、そういう方向から攻めることになるのです。

(吉田寛は、「音楽の国」シリーズへの私の批判に対して、twitter で「劇場が議論に十分に組み込まれていない」ことを認めた。東大美学では、演劇の人であった佐々木健一をその弟子筋が二代にわたって理論の上で潰してしまう「父殺し」が無意識的に進行しているかのようだ。そのような「父殺し」風の劇場軽視がどこにどのような帰結をもたらすか、それを見極める作業は今後の課題として残されている。「声」の問題については、まだこちらも攻めあぐねており、彼はポストモダン風の音声中心主義批判を言い続けて大丈夫だと高をくくっているようなので、おそらく、ここが次の戦場になるだろう。)

P. S.

とここまで考えて、そういえば学振PDに採用された私の研究課題は、カール・マリア・フォン・ウェーバーの著作と実践から劇場の音楽論を組み立てることだったのを思い出した。資料にアクセスする態勢を整えることができず、そのうちウェーバーとベルリオーズの効果の美学についてドイツで博士論文が出てしまってウェーバー研究は頓挫したけれど、再起動した私の脳味噌は「劇音楽作曲家としての大栗裕」などという観念を出力しているのだから、人間の考えることは10年やそこらで変わらないようだ。

査読の添削

今度、査読論文を投稿する機会があれば、先方から届くことになるであろう査読結果の文章を添削して返送する、という作戦を敢行したいものだと思っている。

「貴編集委員会から送付された査読結果の文章は、以下の点に不備があります。学術研究の場に粗悪な事務書類が介在することは、知的生産の精度と効率を低下させて、研究の質を確保する障害となります。当方の指摘を検討して、査読結果を再送してください。なお、改善が見られない場合は、査読結果を受理しない場合があることを、あらかじめお伝えしておきます。」

みたいな。

論文の査読が終わって、数カ所の修正で受理が確定、次号発行までのスケジュールがFIXした段階で、自分たちの作った文書の不備で予定が狂うとなったら、困るのは投稿者ではなく編集者のほうです。ストライキみたいなものですよ。

学問が competiton であり、共に協力して最善を探す営みなのであれば、投稿者と査読者に、両者を橋渡しする編集部を巻き込み切磋琢磨するのが望ましい。

みんなもやってみたら、どうかな。論文の投稿が、きっと一挙に楽しいゲームに変貌すると思うよ。

交渉が決裂したら、もっとまともな学会に投稿しなおせばいいだけのこと。そうやって、学術論文を「売り手市場」に変えてしまおうではないですか。学問のデフレ脱却策ですよ。

理不尽な要求を拒否するのは、健全な市民社会の基本だし。

震災と探究:文章読本Xの献身

柄谷行人「探究」が当時どう人を惹きつけたのか、小谷野敦がうまく書いている。

文章読本X

文章読本X

院生仲間と飲みにいって、酔った勢いで「柄谷行人のように白い表紙にタイトルと著者名だけの本をだすのが夢だ」と言ったら、「そんな装丁はありふれている」と素っ気なくいわれて、なんだそうなのか、と落胆したが、その同僚が博士論文に『近代日本文学の起源』を引用したので、再び驚かされた。文脈にそぐわない唐突な引用で解釈が変だったから、即座にメールで酷評してしまった。大学院には嫌な思い出が多い。

1990年代なかば、小谷野敦は、その頃まだ阪大の英語教師だったのではないか。阪神淡路大震災の直後に柄谷が群像の連載でカントと地震の話を書き継いだのはシビれた。いまでもカントは最高にかっこいいと思ってしまう。ミーハーである。

演奏会プログラムの曲目解説は、音楽のあらすじをまとめる練習になり、musical writing に最適だと私は思う。字数制限が厳しい売りものの文章で楽曲分析レポートのような書き方をして、譜例を掲載することまで要求するのは、世間知らずで文章がへたくそな音楽学者の悪弊である。片山杜秀、岡田暁生、伊東信宏は、もうめったに書かないけれど、三人とも解説が上手だった。ずば抜けていた。なかでも岡田暁生は、読者と音楽のあいだに割ってはいって、音楽の聴き方を畳みかける言葉で支配してしまう感覚が新鮮だった。そういう話し方をする人だった。一発勝負のコンサート会場では、ああいう言葉が効くのです。

小谷野敦は、吉川英次のような音読向きのテクストの点が辛い。文芸は黙読文化の牙城であり、文章読本は、それ自体が自室で黙読される読み物なのだから、しかたがないとは思うけれど。

追記

新聞の700字800字の批評を書き始めた頃は、毎回、簡潔な表現を探して、言葉を削る七転八倒の日々だったのを思い出す。のちに『音楽の友』に何度か寄稿したが、音楽雑誌の編集部は文を整える書き手の苦心に鈍感で、納期に間に合わせて次号を出すことしか考えられない職場であるらしいとわかって愛想が尽きた。新聞は、スケジュールが月刊誌より厳しいが、音楽雑誌の編集者とは比べものにならないほど言葉に敏感だと思う。新聞記者は、概して雑誌の編集者より高学歴だ。デフレの長期化で、格差は拡大したかもしれない。この先がどうなるか、わからないが。

昭和の私立大学と平成の国立大学

私の考える平成日本音楽学会史が阪大・東大・東京芸大という3つの国立大学を軸に展開する構図だとしたら、私にそういうことを考えさせるきっかけになった大栗裕の音楽物語は、関学・慶応・同志社・京女といった昭和後期の私立大学サークルの音楽文化に光を当てる試みなのかもしれません。

そのように整理すると、昭和の私大音楽サークルが、大正教養主義時代に一世を風靡したマンドリンを伝承しているのが偶然ではないと思えてきます。

「大栗裕の音楽物語の研究」は、「ポスト教養主義時代における私大音楽サークルの可能性と限界」というような副題を付けることができるのかもしれませんね。

今はまだ看板だけで中身はないが、なにやら私にも、現代音楽文化への「社会科学的アプローチ」が、見よう見まねで、やれそうな気がしてきたぞ。

反米と親米:日本楽理と民族音楽学の1980年代を回顧しつつ、東大生阪大生の積年の横暴を叱る

日本楽理の横顔をざっとスケッチしたところで、その周囲との位置関係を考えてみる。

(余談だが、先の学会での留学生による涼宮ハルキ論は、コンテクスト/パラテクストというフランスの議論を輸入した北米ポストモダンの枠組を使おうとしていたが、テクストの読解をおろそかにして、いきなりその周囲をキョロキョロ眺める挙動不審気味の態度、いわば「中心が空洞になった表徴の帝国」の空気を読むことばかりに夢中な臣民をそのままなぞる態度が、根本的にダメだと思いました。まずは、相手の顔を正面に見据えて話をしましょう。以上、国際的な広がりをみせるクール・ジャパン・オタクのみなさんへのアドヴァイスです。閑話休題。)

1980年代の日本音楽学会では、日本楽理と新興民族音楽学が熾烈に闘っていました。

阪大音楽学は民族音楽学の新たな拠点と見られていた。千里に民博が出来たりして、関西の人文学はエスノ一色であるかのような雰囲気でした。小泉文夫も徳丸吉彦も山口修も1950年代60年代からこの分野に取り組んでいたわけですが、小泉が事実上のブレインだった芸能山城組がインドネシアの民主化を受けてケチャをブレイクさせたり、ジャパンマネーの東南アジア進出に乗っかる形で環太平洋各地へのフィールドワークがやりやすくなったり、テレビでは「なるほどザ・ワールド」「世界まるごとHOWマッチ」(←今こうして書き写すと、漢字・ひらがな・ローマ字・カタカナを混ぜるものすごい番組名だ)、大学生は「地球の歩き方」を片手にバックパッカーの時代ですから、まあ、時代の追い風に乗る形だったですね。

(今思えば、「地球の歩き方」というシリーズは実際に行った人たちの「声」を次の版に取り入れてアップデートしていたのだから、紙の書物の形で「集合知」をやっていたと言えるかもしれない。)

阪大のなかでは、東大京大がやっていないことを阪大がやっている、というオルタナティヴな気分があって、民族音楽学は、アカデミズムにおける rest of us の運動だ、と思われていた気がします。谷村晃は、関西近隣の大学の音楽学教員を巻き込んで、新興派閥の代表として学会の会長になった。

また、学生院生の間では、民族音楽学や文化人類学の論文の前口上・ツカミとして、「障害者には、我々が生きるこの世界が我々とはまったく別様に見えている。異文化への理解というのも、これと同じことである」という論法が流行っていた。私は、当時からこの論法は間違いだと思っていたし、おそらく今SNSあたりでこういう議論をすると、「当事者ではない癖に、上から目線で共感するな」と問題になるだろうけれど、ともあれ、民族音楽学・文化人類学は、1970年代以後の福祉国家路線とも相性がいいと思われていた。(関西では万博がエスノへの関心の火付け役だったのだから、70年代の空気を引きずるのは当然だったかもしれない。)

民族音楽学が日本楽理を論難するときには、「福祉の時代」風に、自分たちとは違う価値観の文化があることを認めましょうよ、楽理のみなさん、心を開いて、ヨーロッパ以外の人たちと仲良く手をつなぎましょう、と呼びかけるソフト路線が採用された。民族音楽学は、言葉のうえでは、批判・吟味・議論というより、平和の使者であるかのように振る舞っていた。

でも、たぶん80年代の民族音楽学ブームは、「福祉の時代」というような脱産業社会論(欧州であれば「緑の党」に相当するような)と連帯できそうなメンタリティがあったのは確かだけれど、大枠としてはレーガン・中曽根の不沈空母・日米同盟の親米路線の文化ヴァージョンだと思う。

そして1990年代に、阪大の谷村晃が退官して会長の任期を終えると、入れ替わるように渡辺裕の時代になって(渡辺裕は阪大で谷村晃の後任だったし、サントリー学芸賞音楽部門の審査員を谷村から引き継いだ)、1990年代から、今度は渡辺とその配下の阪大生東大生によって、北米のニュー・ミュージコロジー(カルスタ、ポスコロ)を輸入する形で、日本楽理は、あたかも「キャノン」を信奉する本質主義者であるかのように揶揄されることになった。

でも、そうではなくて、日本楽理というのは、日米同盟に乗っかって善人の顔をする関西の商売人(谷村や渡辺、そして岡田暁生や伊東信宏を担いたサントリーは大阪発祥の会社です)や、北米リベラルを嬉しげに輸入する東大生、このような軽佻浮薄を快く思わない「反米」ではないかと思う。片山杜秀が「信時潔楽派」と形容する系譜です。

日本楽理のフェティッシュな儀式性は、「反米」なんだ、と考えると腑に落ちる。音楽学の免状を発行する家元であるかのような振る舞いは、その端的な現れでしょう。

関西の民族音楽学や東大のカルスタ・ポスコロは、日本の洋楽における「反米」(それは日本楽理がそうであるように、しばしば、親ヨーロッパ=親仏、親独、親英として現象する)の系譜を可視化して、適切に対処するのを怠ってきた。「反米」としての日本楽理が、今日のように頑迷な姿に育ったのは、そのツケが回っているんだと思う。

生前の畑中良輔は、信時潔をここぞの場で腹から声を出す「声の人」として回想した。

吉田寛によると、競争 competition とは「共に探すこと」であるそうだが、阪大や東大が「攻め方」を間違えて、相手を正面に見据えることなく厄介者扱いすることが、結果的に competiton を阻害して、それで日本楽理が立ち往生しているのではないでしょうか。

阪大生や東大生のやり口は、日本楽理をイジメの末に放置して、なぶり殺しにする不良大学生を思わせる。これは、80年代から現在まで、ずっとそうだ。エリート高等遊民のこういう場合の態度は、ホモソーシャルで実にエグい。

私は、現状の日本楽理を不快で耐えがたいと思っていますが、でも、瀕死の行き倒れみたいになればいいとは思わない。「声」を取り戻して欲しいのです。不良大学生に喝を入れることができるところまで、回復していただきたいと思っております。21世紀にふさわしく適切にアップデートしたうえで。

私は、「日本音楽学会史・平成版」として、こういう構図を想定しています。吉田寛や増田聡や広瀬大介や岡田暁生や長木誠司や角倉一朗が登場する「私たちの歴史」です。

(アルテス・パブリッシングが出版してくれないだろうか。木村元が務めていた時代の音楽之友社も重要な舞台装置なのだから。)

再話の技巧を競いたい人々

ということで、堅苦しい日本楽理のお作法へのおつきあいは年に一度、準備期間を含めて一週間くらいで十分でしょう。

近代的な音楽研究には西洋でも日本でも既に100年の蓄積があって、基本部分や古典については今から画期的に新しいことが見つかることはなさそうだし、地球規模で諸文化諸民族の音楽のカタログを作る作業も、グローバル化で孤立独立したものがどんどん消滅しているのだから、あらかた調べたと考えてよさそうだし、20世紀の(しばしば再生産技術を利用する)サウンドがアートから大衆娯楽まで広がったことに着目する「聴覚文化論」(言葉はニュートラルだが音盤などの再生産サウンドへと関心が偏っているのが問題だと思うけれど)などに範囲を広げるのでなければ、あとは、既にわかっていることを語りついだり、世間に向けて紹介したり、という、いわば「再話」の技法を磨くくらいしか、やることはないのかもしれませんね。

2000年代に入って、日本の近代化のなかで生まれた音楽の数々を再評価する動きで多少の盛り上がりがあったけれど(大栗裕もそこにいちおう入るかと思いますが)、これらはなんといっても20世紀の現象で、もはや、「芸術」成分だけを取り出して扱うのは難しいから、結局、日本楽理があまり得意ではなく、どうやらお好きでもないらしいサウンドや大衆娯楽の問題を視野に収める方向に舵を切らないとしょうがない。

今はまだ昔からのやり方を踏襲して守り抜こうとする反動的な人たちが意地を張っているけれど、落城は時間の問題ではないか、という気がします。古典とその周囲の事柄を「再話」風に繰り返す、というのは、どこまで洗練したとしても、それだけではジリ貧で、いずれは誰も見向きしなくなるでしょうし。

(洋楽の実践=演奏が存続する限りにおいては、その補助学として、古典作品に関する事柄を上手に語る技術に存在価値は残るでしょうが。)

エスノサイエンスを認めない日本楽理の不自由

一次資料の発掘と分析、というのは、日本楽理の得意技である。フローベルガーの第一人者、とか、バッハ研究所勤務、とか、ということは、日本楽理の社中では周囲を跪かせるオーラになる。(その当人は現場で揉まれていらっしゃるに違いなく、必ずしもご自身を「権威」とは思っておられないケースのほうが多いと思いますが。)

その論法でいくと、大栗裕の大阪フィルが保管している楽譜資料は、現在、わたくしが管理の実務担当ですので、わたくしは「大栗裕研究の権威」なのかもしれませんが、そういうアホな風習はやめましょうよ、と提言するのが、研究者としての白石知雄の仕事だと思っておりますので、今回の学会発表では、資料を管理している大栗裕記念会サイトへのリンクを参考文献に記すに留めて、資料の詳細(管理の実務担当として知り得た事実)をあらいざらい話す、というスタイルは採用しませんでした。

(様々な資料を用意してご報告しようと準備しても、ぞんざいにしか扱われずに腹が立つだけで終わる、というのは、既に、昨年の増田聡が司会をした西日本支部例会で経験済みですので、今回は別の方法を採用しました。)

資料の一覧は既に順次公開しておりますので、それをネットで探して、これが見たいというのをオーダーしていただければ、お出しします。それは、アマゾンで本を買ったり、公共図書館を利用するのと同じ手順ですし、一次資料の活用が「情報」として特別なものではない、という情報社会の基本に沿って行動していただければいいだけのことで、「○○学の権威」みたいな儀礼は、別のモードに書き換えられてしかるべきだと、私は思います。

(そしてこれは、一次資料の情報管理という点に関して、情報社会は、もはや「学会」の統治を必要としていないかもしれない、ということでもあろうかと思いますので、「学会」様には、ちゃんとした現状認識と危機意識をもっていただきたいものです。)

ただし、このように日本楽理の「内部の人間」が一次資料にアクセスするのは「お手柄」と高く評価されますが、他方で、資料を実際に管理している「外部の人間」に対する日本楽理の態度は冷たい。

実務担当の立場で言わせてもらえば、日本楽理の人たちがアーカイヴ担当者に接するときの態度は、しばしば、とても横柄ですね。これが見たい、というリクエストをするときに、その資料を実際に取り扱っている人物がその資料について何かの知識を有している、という風には想定しないらしい。資料の分析は我々学者の仕事であって、お前達は「もの」を我々の指令に従って動かせばよい、みたいな前提で動いているように見えます。

その典型が、日本音楽学会名義で行われた「日本の音楽資料」というプロジェクトであった、と、私は認識しています。実際には、学会をあげてのプロジェクトではなく、久保田先生とその配下の人たちの仕事であったということを、「研究者としての白石知雄」はもちろん承知しておりますが(笑)、実務担当としては、立場上知らないふりをして、横柄であったり、世間知らずの院生の無茶ぶりであったりする申し出を事務的に処理して、ストレスフルなことでありました。

で、結果を見ると、報告書では、大栗文庫にこれだけの数の自筆譜があると回答しているのに、統計に載せてなかったんですよね。想像するに、久保田氏以下の人たちが大栗裕という人物を知らなくて、大栗文庫が色々回答しているけれど、統計のバランスが崩れてしまうから載せないでおこう、ということになったのかもしれない。

つまり、そもそも大栗裕という名前についての先行理解がなければ、数字が告げる事実がねじ曲げられてしまう、ということです。

私が、大栗裕という名前を他でもなく日本音楽学会の、他でもなく全国大会に登録しておこう、と考えて、自腹を切って名古屋まで出向いて話をしたほうがいいと判断したことの、これがひとつの背景ではあります。アホには実力行使しかない、ということです。

そしてこれはどういうことかと言うと、日本の民族音楽学がエスノ・サイエンスを標榜して、現地のインフォーマントの知性への信頼なしにはフィールドワークは不可能である、と随分まえから主張して、なおかつ、この点に関しては白人中心主義を容易に脱却できずにいる欧米のフィールドワーカーに対するアジアの学者の優位であるとすら示唆していたのを、日本楽理がいまだに理解していない、ということだと思います。

かつて日本音楽学会では、西欧芸術音楽派と民族音楽派が、例会でも大会でも、何かというと対立して熾烈な闘争を展開していましたが、あれは、学問の方法論の対立というよりも、日本楽理の石頭にフィールドワーカーが愛想を尽かしていたのかもしれない。

そして今では、民族音楽学の後継としてのポピュラー音楽研究が、最初から別の学会を作って日本楽理と無縁に活動を続けているわけですが、そのような事態に至っても、石頭は懲りないみたいなんですよね。

今回、むしろ「石頭」ぶりが硬直して強化されているかのように感じられたのは、発表の本筋とは別のところで、大変残念で、嘆息せざるを得ないことでした。

日本楽理のエクリチュール

承前。

東京芸大楽理科と音楽之友社が接合することで生成されるに至った「日本楽理のエクリチュール」とでも呼ぶしかない言語実践が、歴史的事象として存在すると思うんですよね。ちょうど、芸大和声に似た機能を果たして、戦後日本には、音楽(主に洋楽)について書き考える、もしくは、音楽(主に洋楽)で書き考える、という行為においては、「日本楽理のエクリチュール」が標準である、そうであらねばならぬ、あってほしい、そうに決まっている、みたいな信念でまとまる集団が、制度に支えられて存続した。

約物の使い方(《》とか)が見分ける指標にはなるけれど、日本楽理固有の発明があるわけではなく、既存の部品を組み合わせて整流するやり方でしかないので、だから、エクリチュールという言い方をするしかない何かなのだけれど、しっかり身についてその外に出ることができない人というのがいたりする。言葉の安定して均質な肌理を達成するために、一言一句に至るまで、使用を認める言葉と認めない言葉を慣習によって選別して、その選別基準と、何をもって安定・均質とみなすか、という判断を習練によって伝承するのが楽理である、という風に見える。そしてそのような安定的な肌理を維持するために、結社・社中としての学会があり、出版社がこれを支える、みたいな構成になっているのだと思う。

外から見ると何かの儀式にしか見えないのだけれど、ごく曖昧に、「学問とはこういうものなのだろう」という俗情で受け流されていて、内実は結構危なっかしいのだけれど、なんとなく存続している。

(日本楽理の習練は、外国文献の輸入翻訳や公共放送の教養教育番組の制作の実務とは相性が良さそうなので、人材育成の場として機能していた側面もありそうだ。)

日本音楽学会史は、そのような「日本楽理のエクリチュール」の盛衰を知る視座になり得ると思う。だって、学会史を記述するために参照されることになるであろう歴史資料群は、まさしく、「日本楽理のエクリチュール」が生成する現場そのものなのだから。

(その意味で、機関誌編集委員会は、査読に関する資料を全部しっかり保管して、ノーベル賞みたいに、50年を過ぎたものから歴史資料として公開する、という風にしたほうがいいかもしれない。そうしないと、今はもう辛うじて儀式としてしか存続していないものへの皆様それぞれの人生を賭けた情熱の核心を後世に伝える手立てがなくなってしまうかもしれませんよ。)

20世紀後半の音楽史における音楽学

私は、日本音楽学会という団体の歩みを、20世紀後半日本の洋楽史の一部だと捉えています。当然そうなりますよね。大学のサークル活動が歴史記述の一部であるのと同じ資格で、大学教員たちの課外活動としての学会運営も歴史を形成している。それは、コンヴィクトの同窓会サークルがシューベルト研究の一部なのと同じことだ。

そしてこの視点がないと、たぶん、学会の儀式性と知性を十全に分離・解析することもままならない。

ニュー・ミュージコロジーって、本来、そういうことですよね? 19世紀音楽文化のイデオロギー批判とか、舶来の流行の後追いとか、そこで止まって他人事にしてしまっていいはずがない。