ということで、堅苦しい日本楽理のお作法へのおつきあいは年に一度、準備期間を含めて一週間くらいで十分でしょう。
近代的な音楽研究には西洋でも日本でも既に100年の蓄積があって、基本部分や古典については今から画期的に新しいことが見つかることはなさそうだし、地球規模で諸文化諸民族の音楽のカタログを作る作業も、グローバル化で孤立独立したものがどんどん消滅しているのだから、あらかた調べたと考えてよさそうだし、20世紀の(しばしば再生産技術を利用する)サウンドがアートから大衆娯楽まで広がったことに着目する「聴覚文化論」(言葉はニュートラルだが音盤などの再生産サウンドへと関心が偏っているのが問題だと思うけれど)などに範囲を広げるのでなければ、あとは、既にわかっていることを語りついだり、世間に向けて紹介したり、という、いわば「再話」の技法を磨くくらいしか、やることはないのかもしれませんね。
2000年代に入って、日本の近代化のなかで生まれた音楽の数々を再評価する動きで多少の盛り上がりがあったけれど(大栗裕もそこにいちおう入るかと思いますが)、これらはなんといっても20世紀の現象で、もはや、「芸術」成分だけを取り出して扱うのは難しいから、結局、日本楽理があまり得意ではなく、どうやらお好きでもないらしいサウンドや大衆娯楽の問題を視野に収める方向に舵を切らないとしょうがない。
今はまだ昔からのやり方を踏襲して守り抜こうとする反動的な人たちが意地を張っているけれど、落城は時間の問題ではないか、という気がします。古典とその周囲の事柄を「再話」風に繰り返す、というのは、どこまで洗練したとしても、それだけではジリ貧で、いずれは誰も見向きしなくなるでしょうし。
(洋楽の実践=演奏が存続する限りにおいては、その補助学として、古典作品に関する事柄を上手に語る技術に存在価値は残るでしょうが。)