対話と問答と黙読と自問自答

ソネットに特徴的な問答形式が、キリスト教のカテキズム教理問答における問いと答えの関係を踏まえながらそこからズレていく、という阿部公彦の解説は興味深いのだけれど、「問答形式はキリスト教会以外でも様々な場にみられ、その古いよく知られた例がギリシャ哲学だ」という説明は粗雑ではないかと思う。

古代の文脈で、ソクラレスが色々な相手に対話を仕掛けるのと、預言者たちが神の声を聞くのは、どちらも問答であると一括して取り扱うことができるのか、むしろ対話と預言は別種の言語行為と見た方が生産的ではないかという気がするし、こうした古代の対話・預言と、プロテスタントの新手法をカトリックが反宗教改革のなかで取り込んだとされているらしいルネサンス以後の教理問答がストレートにつながっているとは思えない。

そして中世後期の修道院に次第に広まったとされる「黙読」は自問自答を含んでいたのではないか? つまり、懺悔・告白として「私」が神に直接語るのではなく、自ら問いを立てて自ら答えるような心の働きを方法として確立する上で、「黙読」という文字・書き言葉との新しいつきあい方が何らかの役割を演じたのではないか?

(以上、たぶんこういうのが自問自答形式の文体ですね。)

問答形式(アンケート)が権威の押しつけのように感じられる、という阿部公彦の感慨(何ごとかに対して「問い」を公言することが対話ではなく「上から目線」だと反発される面妖なネットワーク・コミュニケーションにもそういうところがあるかもしれない)は、「自ら問いを立てる自由を奪われて、他人から問われ答えを強要されるところに権威が発生する」という風に言い換えると、これは「黙読」的な自問自答(解かれるべき問いを自らが立てる習慣)が成立したあとの感じ方ではないかと思えてくる。聖書をドイツ語に訳すルターや極東の異教徒の前に佇むザビエルは自問自答したかもしれないけれど、ソクラテスやイエス(あるいはブッダ)は自問自答したのかどうか?

(そういえば、真田丸で、父昌幸は自問自答などすることなく、碁を打つように「策」を練り続けたが、信繁は九度山脱出に当たって、まるでエヴァンゲリオンみたいに自問自答した。自意識を有しない古代人と自意識に囚われた近代人、という新旧論争の基本形ですね。)

行為としての言語、行為としての詩作、という視点を推し進めると、やっかいな疑問が出てくるようです。

英詩のわかり方

英詩のわかり方

問いを発する自由は普遍的というより歴史的だし、他人の問いをはぐらかす自由とのTPO・組み合わ方のお作法は、常に同じように安定しているわけではない気がします。問答形式が信念やイデオロギーの強化・普及の武器になり得る、というのは、そうだろうなあと思うけれど。

「古都」以前の大和国

著者は、第一次世界大戦100年の2014年に応仁の乱を書こうと考えたそうだ。「大戦争」が現代=20世紀への大転換だったという神話的な議論の再検討は、モダンvsポストモダン/近代論と脱近代論の争いという20世紀的なゲームの底を抜いてしまう可能性があるのだから、人文学が哲学的批評的な空中戦に逆襲する恰好のポイントだと思われ、同じ戦略を日本史に導入するとしたら、応仁の乱以後は現在まで地続きの近世(近代?)だ、という内藤湖南を標的にするのがよさそうだと目星を付けたと思われる。

しかも、近江から中世を語った今谷明の向こうを張って奈良の興福寺別当の視点で応仁の乱を記述するというのだから、平安時代以来の京都政権(日本の中世)と、戦国時代が徳川の江戸幕府で決着して明治には天皇が東京へ移るというような東国の台頭(日本の近代)の京vs江戸=「東と西の日本史」をさらに古い奈良・大和から眺めるわけで、第一次世界大戦の背景でもあるウィーン中心の大ドイツ論とプロイセン主導の小ドイツ論の争いをバイエルンから見て相対化するのに似た雰囲気もある。

興福寺が摂関家とつながっていた南都・大和国は、明治以後の東国の知識人(フェノロサや和辻哲郎)が「発見」したようなアルカイックな古都ではなく、京の都を支える現役の武力・政治力を持っていたようですね。

秀吉が弟を大和に派遣したり、要人が何かというと吉野あたりに逃げていくのも、大和を「古都」だと思っているとうまく説明できそうになく、ちょっと飛躍しますが、近鉄が、世間的には関西の私鉄として有名な阪急・阪神より強力かもしれない鉄道網を作りあげているのは、大和・奈良を「古い」と思い込んではいけない、ということかもしれない。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

生放送

会場は、例によってこの指揮者が鋭利なアクセントと息苦しい煽りを地雷のようにあちこちに仕込んで爆発させるのを結構喜んでいるように見える。しめやかな新春番組っぽくないこの連続爆弾パフォーマンスがどういう文脈で受けているのか、テレビだとよくわからない。ウィーンでは、それなりに本気で彼が期待されているのか?

キュッヒルがいなくなって、やっと好きなことができるぞ、みたいな。

(ドゥダメルとウィーンの相性にはよくわからないところがあるけれど、広瀬大介がNHKの画面に収まりがいいのはよくわかった。放送における柴田南雄の後継者ということでいいのではないか。)

「コンテンポラリー」の正体

戦後日本のアートでさかんに言われた「コンテンポラリー/同時代」の概念は、海外での成功によって国内のアカデミズムを出し抜く在野の芸術家という類型に支えられていると思うのだが、彼らの国内での立場がどのようなもので、国外での立場がどのようなものだったのか、名声や評判の正体を正確に監査する段階に来ている気がする。

武満徹の評伝には、そういう帳簿作りのための基礎資料を期待したのだけれど、どうやら、そういう用途を想定した書き方にはなっていないようだ。生前の武満徹とその周囲の人々の証言を丹念に組み合わせて、「語られなかったこと」に踏み出さない本なのかもしれない。長大で、まだ最初のほうしか読んでいないけれど。

ロマン派音楽における替え管とヴァルヴの中間段階

トランペットは長管の高次倍音を駆使することでバロック期に黄金時代を築いたが、ホルンは一時代遅れて、リッピング、ハンドストップ、替え管を駆使して18世紀の後半から19世紀が自然倍音ベースの「ナチュラル」な楽器の全盛期になる。バロックのオーケストラで天上から降り注ぐような輝かしいトランペットが活躍する一方、古典派やロマン派のオーケストラで2本もしくは4本のホルンが管楽器の要になるのは、こうした楽器と奏法の事情があるようだ。

(前にも書いたけれど、オーケストラを大きく発展させたモーツァルトやベートーヴェンの周りには優れたホルン奏者がいて、彼らは、そうしたホルンの最新事情を踏まえて作曲していたようですね。)

「ナチュラル」な金管楽器は音楽を「移動ド」で捉えているように思う。ド ミ ソ ド レ ミ ソ は「ナチュラル」に出せるけれど、その間の音はリッピングもしくはハンドストップで調整しなければならず、音階とは階名ごとに奏法と対応した「個性」がある音の集合だったんだと思う。

転調によって音度の意味と機能が変化することも、「替え管」という演奏上の特別な行為と対応して身体的に把握される。

(リヒャルト・シュトラウスの父フランツがモーツァルトを理想と考えていたのは、たぶん、こういう「ナチュラル」な音楽把握の上に築かれた音楽だからでしょう。大栗裕もホルン出身でモーツァルトを最も尊敬する作曲家だと言っているし、彼が愛用したトンボのシングルハーモニカも、吹く音と吸う音の独自の配置で階名の「個性」を絶えず意識させる楽器ですね。)

ところがベートーヴェンとロマン派のあたりで、「替え管」の別の用法が出てくる。1、2番と3、4番が別の調の楽器を使うことで、彼らは同時に使える音を増やそうとする。人海戦術で替え管の時間を短縮しようとしているわけで、発想としては、織田信長が長篠合戦で火縄銃を複数のグループに分けて、球込めによる空白をなくそうとしたのに似ているかもしれません。

そしてどうやら初期のヴァルヴも、ワンタッチの替え管、として使用された形跡があるらしい。Es管を普通の箇所では「ナチュラル」に吹いて、ある特定の箇所だけヴァルヴを押して半音下げたD管相当の管長にして、in Dでナチュラルに吹く、というような楽器の使い方をしたと思われるホルン・パートが19世紀前半には書かれているのだとか。

(そういえばトンボのシングルハーモニカは、半音階を出すためには、まるでホルンの「替え管」みたいに、別の調の楽器と2つ重ねて吹く「わざ」が開発された。そういうところも「ホルン的」かもしれません。)

ワーグナーはそういう「ナチュラル」から「ヴァルヴ」への過渡期を生きた作曲家であるらしく、おそらくこれは、ワーグナーの歌唱パートが、複雑に転調を繰り返すけれども「移動ド」で音を綱渡りできるように記譜されているのに対応すると思う。ワーグナーは、「移動ド」のtonalな音楽と、来たるべきクロマチックなサウンドのヴィジョンの両方を知っている。

フランツ・シュトラウスが、ワーグナーを「嫌い」だったけれども誰よりも巧みに演奏できたのは、tonalな音楽の達人だったからであり、ワーグナーの音楽は、聴衆に未來を幻視させるけれども、オーケストラ・ピットに伝統を極めた音楽家を必要としていたのだろうと思います。

(これは、ロッシーニ伝来のベル・カント歌手を想定して作曲したヴェルディの作品が、その力強い効果によってヴェリズモ歌手のレパートリーに変わっていったのを連想させる。ポストモダンな人たちが19世紀(場合によっては18世紀や17世紀までも)をひとまとめにそのレッテルとともに超克したいと目論んでいる「近代」は、個別に調べていくと、19世紀の最後か20世紀のはじめにならないと到来しないんですよね。)

武満徹の「コピーA」

武満徹のデビュー作「二つのレント」は自筆譜が破棄された幻の作品だったのを、藤井一興(とレコード会社)が発掘して1982年にレコーディングしたのだが、武満自身は1989年に改作を「リタニ」として発表して、1990年の「リタニ」の楽譜に、

この作品は、1950年に作曲された《二つのレント》---その原譜は紛失された---を、作曲者の記憶をたよりに再作曲されたものである。

というコメントを添えた。

高橋アキも「二つのレント」を「リタニ」とは別にレコーディングしているようだが、作曲者本人は「二つのレント」をもはやこの世に存在していないことにしたかったようだ。

小野光子の評伝には、「二つのレント」のどこかの段階での自筆譜のモノクロ複写として、「コピーA」というものが登場する。

小野は、「二つのレント」の遅い楽章における日本旋法とメシアン流モードの対比が、速いアレグロと遅いアダージォを対比する西洋流ソナタへの対案であった可能性を指摘しており、それは「武満がソナタを書けずにレントを2つ並べたのだろう」という通説に冷静に反駁する周到で傾聴に値する説だと思う。

しかし、それはそれとして、「コピーA」とは何なのか? 小野は、その伝承を明らかにせず、発掘されたとされる藤井一興の使用楽譜が今どうなっているのか、ということについても語らない。

行方不明でこれ以上の詮索が不可能なのか、もう少し何かがわかっているけれども何らかの事情で語ることができないのか、ということすら定かではない。周到に文章を操る能力のある人がこういう風に言葉を濁すと、一般的には、「何か言えない事情があるんだろうなあ」と第三者から思われても仕方がないでしょうね。

ちなみに、大栗裕の楽譜は、大栗裕記念会にリクエストがあれば、お出しできるものはお出ししますし、お出しできない場合は、何故お出しすることができないのか、どういう権利関係をクリアすればその楽譜を使うことができるのか、個別にご説明させていただいております。

武満徹の場合、作曲者自身による生前のミスティフィケーションに加えて、ご遺族や日本ショット社その他、権利関係や意向の調整が難しそうな関係者が様々に絡み合っていそうですが、いつか近代的な「明朗会計」の実現する日が来ることをお祈りしております。

武満徹 ある作曲家の肖像

武満徹 ある作曲家の肖像

(例えば、東京芸大を受験したけれど、受験生の雰囲気に疑問を感じて2日目の試験を自主的にパスした(受けて不合格だったわけではない)というのも、武満徹自身による自己防衛のミスティフィケーションではないかという気がします。事実がどうであったのか、ということを詮索できないように道を塞いでしまうしぐさが、彼の周囲には多すぎる。生前には、そのような防衛に一定の意味があったのでしょうけれど、既に当人がこの世にいないのに、関係者がミスティフィケーションの「しぐさ」だけを踏襲するのは弊害が大きい。こういう「霧」をひとつずつ晴らしていくためには、客観的に検証できる資料を可能なかぎり揃える作業が欠かせない。)

観劇体験

それにしても、東ベルリンの国立歌劇場のばらの騎士(私も大阪で観た)が最初のオペラ体験だ、というのは、やっぱり一回り若いんだなあと思う。

外来引っ越し公演といっても、しょぼいのと凄いのがあって、なおかつ、国内にも本当にナショナル・オペラハウスが出来てしまう、という風景から出発した世代は、どんなオペラハウスであっても来てくれるだけで有り難く、すべてが光り輝いて見えるなかで、実現できるかどうかわからない「夢」や「希望」として「第二国立劇場」が語られて、そこへのステップとして日生劇場や東京文化会館が建てられた時代とは、何かがちがう。わたしたちは、その違いを、まだ正確に言語化できていない気がする。アバドとクライバーのスカラ座とかサバリッシュのバイエルン州立とかレヴァインのメトとかがやってきた80年代がその分水嶺なのだろうとは思うけれど、バブル景気を直視することは、帝国の崩壊(「戦中」)を直視するのと同じくらい大変ではある。

追記:

さしあたりの凡庸な仮説としては、教養を財力で補填しながら最新技術をキャッチアップするのが劇場の標準型なのだとして、財力がある水準に達したところで、今度は教養がボトルネックになり、技術への投資と教養への投資のトレードオフに悩まされる、という感じだろうか。

百年前の帝国の崩壊が、そんな2016年に何かの教訓を残してくれているかは不明だが。

音楽家の宮廷政治と哲学者のイデオロギー批判、強いのはどっち?

ワーグナーのくだりは、宮廷に深く食い込んで劇場を建ててしまった音楽家(思えば上田城を徳川に作らせた真田のようだ)と、彼に粘着するニーチェ(ポストモダンの源流のひとりかもしれないイデオロギー批判の人ですね)では、政治力が雲泥の差である、という話が面白い。

一方、ビスマルクを再評価して、「もしウィルヘルム2世が拡大政策に転じなければ……」と歴史にifを導入するのは、どこかしら、関東軍の暴走を食い止められたら大日本帝国は滅びなかったかもしれない、と想像するのに似ている。そのような「敗戦国のif」でドイツの保守的なインテリと意気投合する脈絡というのは、たしかに今もあるかもしれないけれど、そういう日独交流はどうなのだろうと思わないでもない。

吉田秀和とシュトゥッケンシュミットの連帯のほうを好ましく思ってしまうのは、戦後近代主義者に過ぎるだろうか。

帝国のオペラ: 《ニーベルングの指環》から《ばらの騎士》へ (河出ブックス)

帝国のオペラ: 《ニーベルングの指環》から《ばらの騎士》へ (河出ブックス)

追記:

後半でトゥーランドットやヴォツェックのようなドイツ帝国崩壊後のオペラを語ってしまうのだけれど、そうではなく、ヴォツェックを書くことになるアルバン・ベルクなどの次世代の人たちが帝国末期=第一次世界大戦をどのように過ごしたか、という記述を厚くしてその後を暗示するシナリオにしたほうが、「帝国のオペラ」というタイトルの本の結末としては座りがよかったかもしれない。

近年、岡田暁生が京大人文研の第一次大戦についての共同研究(=大戦争100年企画)の枠内で披露した「戦中期の音楽」論に広瀬大介がどう絡むのか。期待しながら読み進めたが、広瀬には正面対決の準備がまだ整っていなかったようだ。

ひょっとすると、世紀転換期のオペラを時代背景込みで順に解説する原稿が先にあって、「帝国のオペラ」というタイトルは編集者・出版社と相談しながらあとで付けられたのかもしれないけれど、このタイトルはあまりにも魅力的で、名曲解説集であることを許さないくらい内容と論の運びを拘束する言葉、大坂城落城にも似た帝国崩壊の渦中で何が起きたのか、それを直視するように書き手を強いる言葉のような気がします。実務肌のオペラ通にこういう仰々しいお題を期待してしまうのが2016年の時代状況ということか。

教養を財産で補うこと

書き出しの文体が仰々しく、このテンションで最後まで保つのか心配になるが、序章の最後で話者は正気に戻って本書の構成などを平熱で説明する。続けて政治史を丁寧におさらいするあたりから、カルスタ/ポスコロ的なイデオロギー論ではないドイツ音楽・ドイツ文化論であることが次第に明らかになり、本の半ば、リヒャルト・シュトラウスが登場したところに、「教養を財産で補うことに居直る世代」というものすごい文言が書き付けられている。

私自身は私学とも塾とも予備校とも無縁で、教育に財産を投入せずに育っていますが、「財産による教養の補填によって、今の私はここにいる」は、この島の音楽の周囲でも普通のことになっていますよね。

「帝国のオペラ」をスキャンダルの連鎖(岡田暁生風の)でもなければ、熱に浮かれたイデオロギー論(「音楽の国」というような)でもないスタンスで書くことができているのは、対象の特性描写が書き手と読み手に反射するような二重の意味で、「財産による教養の補填」を明文化したからこそだと思います。

帝国のオペラ: 《ニーベルングの指環》から《ばらの騎士》へ (河出ブックス)

帝国のオペラ: 《ニーベルングの指環》から《ばらの騎士》へ (河出ブックス)

この本を読む前に、↓こういう文章を書いておいてよかった。

芸術自己目的説への疑問:「もてない芸術」のために - 仕事の日記