価値の霊的・宗教的な擁護

経済万能に対抗して宗教的、霊的な態度に立てこもるのが前の世紀からの転換期に幅をきかせたけれど、やっぱりそれは筋が悪い。

(大久保賢のブログを久しぶりにまとめて読んで、改めてそう思った。音楽史は聖人列伝ではないし、クラシック音楽を礼拝崇拝の対象とする姿勢は、むしろ、連日連夜SNSで興行元から乱発されている広告の美辞麗句(あらゆる演奏家が類い稀なキャリアと音楽性で輝いているかのような)とむしろ同じ方向を向いているように思う。)

Timpani という複数形

ティンパニーという打楽器は、楽器学的には半休の銅の開口部に膜を張るケトル(なべ)の形状がそのアイデンティティである、ということになりそうで、たしかに、筒の両側に膜を張る大小の太鼓や、中東によく見られるらしい片面だけに膜を張った太鼓とは、音質や音量が違ってくる。

でも、叩く楽器のなかでこの楽器だけがオーケストラに定着したのは、常に複数で使用されていたからであるようだ。

定説ではトルコの軍楽の馬上のケトルドラムが起源だとされるらしい。

トルコの軍楽がなぜケトルドラムを複数で使っていたのか私は知らないが、ヨーロッパの音楽家がここに注目した理由は、説明がつきそうな気がする。複数であれば、叩く楽器であっても、吹く楽器やこする楽器と同様に「音程」を作ることができて、合奏に使えそうだ。そしてティンパニーが4度で調律されるのは、この楽器が入ってきた頃、一緒に使われたトランペットなどの金管楽器が出していた自然倍音に合わせたのだろう。


こうして、

「4度音程のペア」

というのがティンパニーの「音楽的」なアイデンティティになる。

ベートーヴェンは、中期のオーケストラ音楽で、しばしば4度音程のリズム動機を主題に採用しているけれど、あれは tonal な音楽のエッセンスを最小限に切り詰める抽象化だったのか、それとも、主題・動機をティンパニーやトランペットでも演奏できる形態に設定することで、すべての楽器が「主題=話題」に参加できるいわば「民主化」を目指したのか。たぶんその両方だと思うけれど、こんな感じに論を立てると、「カントのロビンソン・クルーソー」という話と同じかそれ以上に、大衆性を担保した人文学という感じになって、楽器をめぐる議論で西洋音楽論のかなり深いところへ食い込めるかもしれませんね。

(たぶん、科学と民主主義を信奉した往年の近代的知識人は、こういう種類の話題提供が上手だったんだと思うのだが、今ではもう、そういう話法は時代遅れなのでしょうか?)

罪悪感につけいる人生

商売人が「金儲けして何が悪いか」とネオリベ的なメンタリティで生きるようになったことでメセナは滅びた。高度成長期には、企業人に営利追求への罪悪感があったから、文芸・批評誌に金を出したのだろう。

というような荒っぽい文言が東浩紀の「ゲンロン」に書いてあった。

事態はそれほど単純ではなかろうとは思うが、とりあえず、東条的なものは、今なお、誰かの罪悪感につけいることで生き延びようとしていると言えるかも知れない。「岸田繁には、ロックミュージシャンがクラシック音楽の縄張りを踏み荒らすことへの罪悪感があるに違いないから、そこを突けば退治できる」と東条は思ったのだろうが、今はもうそんな時代ではない。

バッハの混合趣味の下部構造

音楽大学の管楽器や打楽器の院生が学位を取ろうとすると、たいてい実演と論文の両方を求められて、管楽器や弦楽器について論を立てることになるのだけれど、テーマ選びにみんな苦労するようだ。

楽器への知的アプローチというと全体を整然と分類する楽器学があるけれど、これは、それぞれの奏者が伝承する知識とどうつながっているのかわかりにくい。神話的であったり文化史的であったりするエッセイ、「角笛」をめぐるあれこれを面白く綴る、とか、そういうのもあるけれど、これは、音楽研究というより、音楽(楽器)の表象とたわむれる文学と言うべきだろう。

「音楽論におけるドイツの表象」の歴史を綴った日本語の本が出て、そこに記された「混合趣味」という言葉に、日本の読者が「後進国コンプレックス」で共振する、というのも、音楽の話というより、音楽の表象の話だと思う。

一方、色々な楽器のことを見ていくと、バロック・フルートではフリードリヒ大王に仕えたクヴァンツより先にオトテールの貢献が重要であるらしい、とか、オーボエをオーケストラにフィーチャーする上ではリュリが重要であったらしい、とか、金属製の角笛(ナチュラル・ホルン)をオーケストラに導入したのはルイ14世の宮廷であったらしい(だから「フレンチ・ホルン」なのでしょう、ヴァルトホルンと言ってもドイツやボヘミアが発祥ではないのです)とか、近代オーケストラの管楽器の基本は、どうやらフランスで準備された形跡がある。そういえば、イタリアン・バロックはコレッリ、トレッリ、ヴィヴァルディとか、ヴァイオリン中心、弦楽合奏主体の印象がありますね。

ということは、バッハがケーテンの宮廷やライプチヒのコレギウム・ムジクムで管楽器を多用して、オーバーチュア(組曲)だけでなく様々な編成のコンチェルト(その集大成がブランデンブルクの6曲)を書いたのは、すでにそのアイデア自体が、イタリア様式の楽曲をフランス風オーケストラで上演する混合趣味だったんだと思う。

「民謡の発見」がドイツ語の詩をどういう韻律で書くか、ということであったように、「混合趣味」は、どういう楽器でどういう曲を書くか、という現場での日々の選択だったのではないか。

(ちなみに、自然倍音を出す金属製のホルンを「ナチュラル・ホルン」と呼ぶのは、19世紀にヴァルヴ・ホルンが登場したことによる「レトロニム」ですね。閑話休題。)

美学者はそういうベクトルではものを考えないことになっているのかもしれないが、音楽家の経験とのつながり、文化のマスタープラン、グランドデザインだけではない実装の概略を示唆しておくと、美学者の論考であっても、音楽学会の「地を這う人々」から、「こんなのは音楽の話じゃない」と不毛な罵声を浴びないで済んだかもしれませんね。

民主主義国家における「象徴」は、国民から愛されて君臨するのでなく、国民を愛し、国民と共にある。

科学と民主主義

定職を得てしまうと、「ゲーム」とか「オレらしさ」とか、そういう半径1mの事柄だけが残ればいいというところに撤退してしまうらしいのだが、科学(知)と、あともうひとつ、民主主義は21世紀にも残るようにしておいたほうがいいんじゃないか、と、昨夜、知の基礎付け論を読みながら考えた。

あとは、今あるものが諸事情でなくなってもどうにかなるだろう。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

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そして梅田で片山杜秀の本を買ったら、天皇のお言葉とともに民主主義を守ろうじゃないか、という話だった。

近代天皇論 ──「神聖」か、「象徴」か (集英社新書)

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前衛音楽史を大衆音楽史で包囲する

シュトックハウゼン「グルッペン」の批評(日経大阪版夕刊)では、放送や映画のステレオシステムが始まりつつあった時期にこの曲が作られたことを軽く指摘した。エリートによる実験が大衆文化をリードしたわけではなく、むしろ、大衆文化におけるイノヴェーションからエリートが着想を得た例ではないかと思うのです。

今年の授業では十分に煮詰めることができなかったけれど、20世紀の音楽史はそういう現象に焦点を当てて講述したほうがまとまりやすいのではないか?

第一次大戦直前のパリの音楽における印象派は、ガムランとかスペイン趣味とか、異文化の音楽・諸民族の音楽に中世趣味(モードによる作曲)を接続することで近代の調性の外に出た。

一方、ウィーンを中心とする中央ヨーロッパのモダニストは、ロマやクレズマーや農民の音楽、フォークロアをあたかも都市音楽の下意識であるかのように解析・摂取する回路を構築して、調性音楽の土台を掘り崩した。

そして1920年代の軽量軽快な新即物主義や新古典主義は、たぶんラジオやレコードから聞こえて来るジャズとシンクロしている。

このあたりまでは、比較的具体的に言えると思うし、その先もなんとかなるのではないか。

たとえば1950年代の密室で秘かな実験を執り行うような作品群は、セッションの記録として「作品」が生成されるビバップに似ているかもしれないし、1960年代の前衛のフェス化・公共事業としての展開は、スタジオでの録音編集による電子音楽と相まって、ロックがライヴツアーとアルバム制作の二本立てなのと似ているかもしれない。

今の学生さんたちは「短い20世紀」を知らないのだから、特定の党派へのオルグとして20世紀を語る意義は失われつつある気がする。そしてそうなると、「結局色々頑張ったけど、前衛・実験の人たちは最後まで少数派だったよね」という勢力分布それ自体を歴史的事実として解釈・解説することになる。エリート/前衛が、どのように大衆/ポップスに包囲されるに至ったか、その概略を語ることができたら、基礎教養としてはそれで十分かもしれない。

準備と実践

趣味判断は、なるほど道徳を準備するかも知れないけれど、「観察者」(ジョナサン・クレーリー)による万全すぎる準備は、実践をむしろ頓挫させるのではないか(=批判哲学批判)。

趣味判断と道徳

カントの判断力批判は、文明化の過程(奢侈や社交)それ自体を肯定しているわけではないし、ルソーの古代人がそれに対する批判として機能することを認めてはいるけれど、でも、文明化の過程は道徳を準備すると考えていた。小田部先生がカントをそういう風に読む論文が『美学』に出ていた。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」

のマリー・アントワネット自身を擁護することはできないけれど、そういう豪奢な都市文化の爛熟は、いわば「人間の自然」であって、そこから撤退したところに清貧な文化を築くのは不自然だ、というような話だと思う。

結構過激に、倫理の基礎を転倒させた議論を示唆している。この流儀で行くと、ハーフリアルなゲームのルールに興じることは法と正義を準備する、それが人間の自然である、と立論できてしまいそうだ。カントは実は凶悪だ、ということですね。

「すべての問題は既にカントのテクストに書いてある」という哲学信者ではない者には、18世紀的な宮廷哲学の限界に見えるけれど。

そういうマリー・アントワネットの斬首もまた、「人間の自然」なのだから。

法とルール

これは批判ではなく概念の整理だが、ゲームがルールなしには成り立たないことがゲームの倫理的な要点であるとして、ルールと法(jus と rex)の関係はどういうことになるのだろう。

ビデオゲームを例に取れば、コンピュータのアプリケーションとして動くゲームソフトという上位層ではルールまでしか問うことができず、法との接点はその下位層のインフラ(オペレーティングシステムとハードウェア)で実装される、という整理になるのだろうか。

10年前に「インターネットの倫理と設計」ということが言われたころには、そのあたりに議論が着地していた気がするのだが。

そしてこの整理が今も妥当だとしたら、文明社会に生きる人間が慣習的なルールだけでやりくりする(=ユーザ・コンシューマの位置に留め置かれて白痴化する)わけにはいかないので、ゲームで学び得るルールの基礎になる「法」(とりわけ正義 jus の問題)にデジタルワールドで触れるためには、そもそも情報処理とはどういうことか、という下位層が知と教養に組み込まれる必要があるのではなかろうか。

ビデオゲームに表示される記号・表象の水準で運用される「ルール」の外部に、そのような表示面を持つ「板」をどのように運用するかという「法」がある、という風に整理できるとしたら、タッチパネルの「面」への没入と「板」としての把握の間に、舞台上のドラマへの没入と劇場という装置の運用に似たモードの違いを想定したい私にとっては、まことに好都合なのですが。

東大美学の科学哲学的な位置づけ

科学の文パラダイムから意味論的なモデル構築への移行、という話はとても示唆的だと思う。

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

たとえば、知の伝授(教育)が命題の束を伝えることであるならば、講演 Vorlesung (文の束を講師が読み上げて学生がこれを書き取る)という形式が有効だろうが、意味論的なモデルを伝えようとするときには、別の方法が模索されることになるだろう(ファカルティ・デヴェロップメントだ)。そして、パワーポイントで文の束(箇条書き)を映し出すだけ、というのは、たとえ、どのように見栄えやエフェクトを工夫しても、文パラダイムに固執するダメなFDということになりそうだ。

美学がバウムガルテンを開祖とする哲学の一部門であるとすると、哲学は「文・命題の束」である状態を脱することができるのか、脱してなお、それは哲学(論理=ロゴス)なのか、という異論が出るかもしれない。哲学は、ひょっとすると、ロゴス(文・論)という言語の特殊な運用スキルを伝承する知、という形で存続するかもしれない。

しかし一方に、美学を感性学と芸術学の二本立てにすっきり改組しようという動きがある。センスの科学とアートの科学である。言語運用の分析(分析哲学)は、センスやアートを記述する「文・命題の束」を意味論モデル構築のための材料に変換するプロジェクトと位置づけることができるかもしれない。

事実既に、東大から出てくる最近の人たちをみていると、既にそういうプロジェクトがはじまっている、と見た方がよさそうな気がする。「文パラダイムから意味論的モデル構築へ」という標語は、未來を指し示すというよりも、今実際に学問の現場で起きていることを説明しているのだと思う。

しかしおそらく、ここで「歴史」が問題になる。

渡辺裕とその弟子たちが90年代からお手軽に冗舌な論を立てることができたのは、蓄積された「文の束」の歴史的文脈を無視して、もしくは、過小に見積もって、現在の私たちが面白いと思える意味論モデルを取り出せばそれでよし、とする傾向があった。18世紀や19世紀の文献を「進歩史観」なる戦後日本の経済学に由来する意味論モデルの構築・強化に利用する、というのがその典型だ。

ほぼ同じ世代の津上先生はギリシャからルネサンスの古典文献、小田部先生はドイツ観念論に踏みとどまって、地味に見えたけれど、それは、「歴史」の文脈を読み込んだ意味論モデルの構築には時間がかかる、ということだろう。

前者より後者のほうが手順は面倒でも長続きする有望な道であろうと、普通は思うよな。