子音に気をつけろ

オペラやリートのピアノは「歌手の母音に合わせて弾け」と教えられるそうだ。オーケストラも同じだろう。

Goie, goie! とか Sempre libera... とソプラノが歌うときに(まさかどのオペラのどの場面かわからない、なんてことはないですよね?)、弦楽合奏が「G(oie)」の強い響きをマスクしたり、「libera」の i が響くのを待たずに伴奏を弾き始めたら、歌手は死んでしまう。

(マルチ録音をデジタル編集すれば、トラックを細かく調整してどうにかごまかすことができるかもしれないけれど、それは舞台のライブとは似ても似つかないものになる。)

ヴィオレッタは、結核で死ぬ前に、一幕で無能な指揮者に殺されることがありうる、ということだ。

(オペラの稽古では、誰かが歌詞を落としそうになると、コレペティさんや周りの歌手が瞬時に次の言葉を叫んで教えることがあって、どうしてこの人たちは事故を予知できるのか驚いてしまうが、この水準で次の音を先取り・準備して歌っているから、実際に声を出す前にわかるんですね。)

ドイツ語はもっと大変で、Die tiefste の t をどれくら響かせて ie の母音にどういう風に移行するか。音節を収める f と次の st をしっかり響かせるには一定の時間が必要なはずで、最後の e は語尾の弱い母音だから、作曲家がここに短い音符を指定しているとしたら、-fst- の子音の重なりが森のざわめきのように響くのを狙っていると考えるのが自然だろう、とか、そういう風に作っていくことになるのだと思う。

「分母分子論」の 大瀧詠一で言葉をうたう面白さに目覚めて若い知識人がこぞってポピュラー音楽に帰依した時代があったようですが、言葉をうたう「わざ」は、それぞれの言語、それぞれのジャンルにそれぞれのやり方で存在するし、アートは別にそれを抑圧しているわけじゃない。

器楽合奏で、音の出だしに「ブ・バ・ド」と濁音のタグをつける弾き方をされると困ってしまうのとは違う意味で、楽器と声を合わせるのにも、様々な工夫が要る。日本にオーケストラを作ろう、ということで大正の終わり頃から100年間の取り組みが今日に至っているわけだが、こういうヨーロッパの音楽の機微について、それなりに色々な蓄積が日本の楽団にもあるはずだと思う。人事の事情で、ダメな指揮者を雇わないといけなくなる局面があるのはわかるが、だったら、指揮者が今からでも遅くないから、ちゃんと勉強して欲しいよね。

誰よりも君を愛す

誰が誰を愛していようと、それは個人の自由だ。

しかしねえ……、いい歳をした大学教師が、「私は最愛の娘が幸福な将来を得るためであれば、英語中心主義の奴隷となることもいとわない」とか、「私は人生の師と見定めたこの人が言うことであれば、どのような理不尽であろうとも受け入れます」とか、そういう風な愛の強さを競い合うのに、コンピュータ・ネットワークを介した文字のやりとりは、適切なメディア・フィールドであるとは思えない。

愛を告白したいのであれば、平安貴族のように歌を贈ったり、60年代のラヴ・アンド・ピースのようにギター片手にシンガー・ソング・ライティングすればいいんじゃないの。

そういうことは、相手と一対一で、どこかで勝手にやってくれ、と私は思う。

地位も名声も常識もある大人が「愛こそすべて」みたいな精神状態で高揚するのは、それこそ、パワハラの温床なんじゃないのかねえ。

式辞の舞台裏

東大卒業式の式辞が深いと話題に「善意のコピペや無自覚なリツイートは......」(全文)

東大卒業式の式辞が「深い」ことになっているらしいのだけれど、ここで語られている「第三の間違い」を石井洋二郎はどうやって突き止めたのだろう?

じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。これが第三の間違いです。

大河内がこの話を「裏話」としてどこかに書いていて、それを石坂が発見した、というのであれば、文献調査をとことんやれば真相は突き止められます、という教訓になるが、もし大河内がこの話をどこにも書いていなくて、「ここだけの話だけれど、実はこうだったんだよ」という暴露話が東大上層部あたりで代々語り継がれているのを石坂が聞かされた、というのであれば、「やっぱりしかるべき地位を得たり、しかるべき場所に出入りできる身分にならないと、真実はわからないものなのだなあ」ということで、東大教養部の卒業生はそういう地位や身分の候補生なのだからいいけれど、これを部外者として聞かされる「ネット民」にとっては、共感できる話にならないのではなかろうか。

大河内の美談に「裏」があるのとは違った意味で、石坂の式辞にも「裏」がありそうな気がします。

東大人にそう簡単にだまされてはいかんよ。

(しかし、昔は東大や京大の入学式・卒業式の総長式辞が新聞に大きく出ていたような気がするけれど、そういう儀式を新聞は今はもうやめている、ということでいいのでしょうか?)

[追記]

細かく考えると、疑問はさらにいくつも出てくる。

(1) 「ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった」と石坂は言うが、当時の新聞記事の紙面・文面は具体的にどうなっていたのか。リードに大きな活字で「太った豚より……」の格言が出て、慌て者は大河内の言葉と勘違いするかもしれないが、小さい活字の本文を読むとこれがJ. S. ミルの引用だとわかる、という風になっていたのか、本文にも、これがミルの引用であることを示唆する文言は一切入っていないのか。そして新聞といっても全国紙だけで複数あるわけだが、すべての新聞が横並びで雑な記事を書いたのか?

(1b) また、その新聞記事のサイズ(文字数)はどれくらいだったのか。紙面に余裕があったにもかかわらずミルの引用である記述がなかったとしたら記者の不見識だが、紙面に余裕がなく一文字でも削りたい事情があったとしたら、ミルの引用である記述が削られたとしてもやむをえなかったのではないか?

(2) そしてそもそも、式辞の予定稿が事前にマスコミに配布されたのは何故だったのか? 当時の新聞は活字を植字工が拾っているから今より入稿の〆切は早かったと思われる。午前中に卒業式があって、その速記を待っていたら夕刊に間に合わない、というような事情があったのか? あるいは、大学の卒業式にわざわざ記者を派遣する余裕(ニュースバリュー)がないと判断されていて、むしろ、新聞で記事にして欲しい大学側が率先して、一種のプレスリリースとして予定稿を各社に配布していたのか。

(2b) さらに言えば、東大の総長式辞において、書き言葉(予定稿)と話し言葉(本番のスピーチ)は通常どの程度一致しているものなのか。国家元首の政治的メッセージのような公式発言では、書き言葉と話し言葉が一致していないと何かと混乱を生むだろうから、細心の注意で文字と発話を一致させようとするだろうが、東大総長の式辞も、同様に文字と発話が一致している前提で遂行されるものなのか。だとしたら、それはどのような理由によるのでしょうか? 書き言葉と話し言葉を統合することによる「権威」を目指しているのでしょうか、それとも誤りやまぎれのない透明性=「真理」の探究なのでしょうか?

(2c) いずれにせよ、大河内は当該の卒業式において、書き言葉(予定稿)と話し言葉(実際のスピーチ)を一致させることに失敗したわけで、しかも、どうやら、この式典に列席した者は、誰一人そのことを気にすることなく受け流したわけですね。通常、このような事態は「儀式の形骸化」と呼ばれると思うのですが、石坂の今回の式辞は、そうした「形骸化」を問題視することなく、あたかも、形骸化した儀式に振り回されたマスコミ、読者、一般大衆が一方的にバカであり、彼らの愚かさを戒めるかのような他責的な話法になっている。石坂が憂慮する「コピペによる伝言ゲームの蔓延」は、はたして、このように自らの責任を不問に付した他責話法によって解消されるものなのだろうか?

天皇は、事前に配布された予定稿と完全に一致した「おことば」をビデオで配信することによって、象徴天皇制の責務の苛酷さを遂行的 performative に国民に訴えた。天皇が尊く、東大総長はそれほどでもない、といった価値の高低を言うつもりはないが、書き言葉と話し言葉の不一致がもたらす混乱をめぐる石坂のスピーチは、その不一致を実証する資料が明示されていない点を含めて、天皇の「おことば」と比較してその特質を検討するのがいいんじゃないかと私には思われます。

東大総長が何かの「象徴」なのだとしたら、それは一体何を象徴 represent しているのか、そしてその representation は、いまも円滑に機能していると言えるのか。

(ところで、現在の東大では、本郷の卒業式とは別に、教養部は教養部だけで駒場で卒業式をやって、そこでは東大総長ではなく教養部長が式辞を述べることになっているかのように見えるわけですが、この本郷と駒場の関係は、何がどうなっているのでしょうか? それとも、駒場の卒業式で、午前中の本郷での式典に続いて、学部長とは別に総長も式辞を述べたのでしょうか?)

[追記2]

しかもこれ、平成27年3月の式辞なんですね。

同好会はなぜ対外的に成果披露するのか?

学校のクラブ活動って、たいがいそうですよね。なぜなんでしょうね。自発的な無償の行為である、というのが同好会の同好会たる所以ではあるけれど、そのような無償の行為は、何者かの好意や善意の賜物であり、その感謝の念を表明したり、恩返しをする感覚ではないか、という気がしないでもない。

好意や善意を受け取りっぱなしで、遊ぶだけ遊んでそれでおしまい、という底の抜けた蕩尽に、おそらくヒトは耐えられないようにできているんだと思う。

たしか贈与論ってそういう話ですよね。

遊びが幸福への道なのか、それとも、退廃への道なのか、このあたりが分岐点なのかもしれない。

詩人マショー

凍雲篩雪 - 猫を償うに猫をもってせよ

この知識をどう活かせばいいのか、すぐにはわからないけれど、とりあえずメモのつもりでリンクを残す。

(ジョスカン・デ・プレは「ジョスカンは」とファーストネームで呼ばれるけれど、ギョーム・ド・マショーは、日本語でも欧米語でも、マショーと呼ばれて、「ギョームは」とファーストネームで名指されることはない気がする。単なる慣習なのか、しかるべき理由があるのか知らないけれど……。)

Car qui de sentiment ne fait,
Son ouevre et son chant contrefait

は成句のようにしばしば引用されるみたいなので、その英訳(の孫引き?)からフォニーの語を取り出して論争のキーワードにするのは、なんだか、はしたないですね。「閉ざされた日本語空間」のコップの中の嵐という感じがします。

まるで交響曲のように聞こえる巨大な声楽作品

マーラーの千人の交響曲(いま気づいたが、関西で今も続く初夏のイベント「30000人の吹奏楽」はもともと「1000人の吹奏楽」だったのだから、イベント名はたぶんこの作品のもじりですね)の第1部は、ソナタ形式のように構成されてはいるけれど実体はラテン語典礼文による7人のソリストを伴う合唱作品で、第2部は、所作と衣装を伴わないけれど、ゲーテの戯曲「ファウスト」終幕に付曲された楽劇ですよね。

モーツァルト、ヴェルディのレクイエムやバッハのコラール・カンタータで、独唱・合唱がどんな歌詞を歌っているのかまるで聞こえない、とか、オーケストラが勝手に「シンフォニー」をドンチャン演奏して、コーラスが添え物として一生懸命そのあとを追いかける、というのはあり得ないと思うし、音楽劇のオーケストラピットの管楽器奏者が、今自分の吹いているロングトーンがどういう場面でどういう効果を狙っているのか、物語のあらすじやト書きや台詞を一切知らない、というのは、おそらくダメなプレイヤーだということになると思うのだけれど、広上淳一と京響は、そういう荒っぽさで押し切ったように聞こえた。

60周年のしめくくりだし、どうにかして歌詞の字幕をリアルタイムに出すのだろうと思っていたら、「物語はだいたいわかるでしょう」とプレトークで説明されて、プログラムに小さな活字で訳詞が出ているだけだったので、なおさら、オーケストラ側が声と言葉をオマケだと思っているんじゃないかと不審になる。声と言葉に対する器楽奏者の不遜・傲慢だと思う。最後にそれまで登場しなかった「8番目のソリスト」石橋栄実に高いところから一声歌わせればそれでいい、というものではない。

(die tiefste とか Liebesort とか、言葉を言葉として正面から受け止めて発話したら、あんな演奏になるはずがない。)

この曲の第2部を舞台化できないかと考えた人はきっとこれまでにも少なからずいるだろうし、ひょっとすると、実際にそういう試みが既にあるのかもしれないけれど、唖然としながら広上・京響の演奏を聴いて、びわ湖ホールでニーベルンクの指輪(京響がピットに入っている)が終わったら、スピンオフ企画として、沼尻竜典の指揮によるプロジェクションマッピング演出で千人の交響曲をやるといいんじゃないかと思った。

ほぼ主要なモチーフはどれも下降音形ではじまっているから、ラインの黄金の最後のノートゥンクの主題の上行は舞台の所作と相まって決定的な瞬間になる。(剣が地下から出てきて、ヴォータンがこれを引き抜く「上昇」の所作は、マニアやオタクの「謎本」めいたワーグナー解釈としては無理筋なのかもしれないけれど、音楽的には正しいと思う。)千人の交響曲の最後の主題が感動的なのも同じことですよね。それまでずっと「ミb→シb」「ミb→シb」とヴォータンが地底へ潜るような下降音形ばっかり聞かされてきたのが、ここでようやくメロディーが晴れやかに「上昇」する。そして導入部で暗示された隠者の祈りのようなコラールが、まるでバッハのコラール・カンタータの終曲みたいに、歌詞を伴ってフルコーラス歌われる。こういう仕掛けは、オペラやカンタータやリートのような声楽と同じ態度で鑑賞しないと楽しめないと思う。

音楽における近代の「日本留学」と東アジアの近代化論

「1900-1950年の東アジアとオーストラリアにおける芸術家曲」という学術シンポジウムと連動したレクチャーコンサート「“芸術家曲”の誕生と音楽の近代」という催しを聴いて3つの感想を抱く。

1. オーストラリアの位置づけがよくわからない。現在の北米の世界戦略には「環太平洋」(Transpacific, TPPのTPですね)という枠組があるが、今回は北米・南米が外れているので環太平洋とは言えないし、当該の時期(1900-1950)には国際協調が総力戦になだれこむ「ブロック経済」、地域ごとの囲い込みがあったことが知られているけれど、この時期のオーストラリアは、北米が唱えた「パン・アメリカ」(北米と南米を一体とみる理念)でもなければ、日本が後付けでその盟主を標榜した「大東亜」でもないように思う。たまたまアジアとの連携を模索する日本在住オーストラリア研究者がこの共同研究を主催した、という以上の意味が「東アジアとオーストラリア」という組み合わせにあったのかどうか。

2. 「大東亜」概念の批判的再検討に関わるかと思うが、明治から大正にかけて、東アジア諸地域からの日本留学という現象があったようだ。東京美術学校や東京音楽学校もアジアからの留学生を受け入れたらしい。しかし昭和期に入ると、一方で大日本帝国がアジア諸地域に「解放という名の侵略」を進めたわけだから、アジア諸地域から日本に何かを学びに来る行為を素朴に「留学」とは呼べなくなるし、他方で、音楽に関しては、東京音楽学校以外に東京や大阪に私立の音楽学校が複数できる。今回のコンサートで紹介された台湾、韓国、中国の作曲家のなかには、昭和期に東京の私立音楽学校で学んだ人が散見された。しかも、(今回は片山杜秀がプレトークに招かれていたが)昭和期の私立音楽学校には、ドイツ派の東京音楽学校に対抗するかのようにフランス派の作曲家がいて、彼らは同時に日本における国民楽派/在野の民族派でもあった。昭和前期に「日本で音楽を学ぶ」とはどういうことだったのか。

3. 今回、原則としてそれぞれの作曲家の国籍に準拠してそれぞれの母国語の歌詞で作品が歌われたが、「日本留学」した作曲家たちは当時、何語の歌詞に作曲して、それぞれの作品は何語で発表されたのか。個々の作品について、そうした書誌情報を添えて欲しかった。そうした情報がないと、個々の作品の分析が先へ進まないと思うので。

2. の観点を推し進めると、時田アリソンさんが以前から依拠しておられる「東アジアの近代化」という議論の枠組(西洋音楽が19世紀後半から20世紀前半の東アジアに、あたかも太陽のように広く平等に降り注ぎ、オーストラリアを含む各国・各地域に「芸術音楽」がすくすく育ったかのようなイメージ)自体が再考を迫られるのではないか。ポストコロニアリズムとはそういうことだったように思うのですが……。

(それにしても、この時期に江文也が単独でバルトークのような音楽を書いているのはすごいですね。)

会場で上野正章に出会ったら、「おや、元気かい」と言われ、変な感じがした。昨秋の学会で会ったばかりだが、何を言っているのか。どうやら彼のなかでは、「私は大学時代と何も変わることなく、細く長い研究者人生を着々と歩んでいる。同じ研究室に白石知雄という男がいたが、彼はもう「学会」や「母校」にはめったに顔をみせなくなった。道をふみはずした可哀想な先輩である」ということになっているようなのだが、その「四半世紀前から何も変わってはいないはずだ」の信念とは裏腹に、彼の頭髪のかなりの部分が50歳を過ぎて白くなっているのは恐ろしいことであった。日本音楽学会は、こういうクリーチャーにとって、居心地のいい場所であり続けているらしい。このままいくと、学会という組織は、平日の昼間にひなたぼっこをする公園のようになって、「高齢者福祉」という概念に接続するのではないか。

[追記]

上海バンドはメルボルンと似ている、というのが、オーストラリアを東アジアと比較するきっかけのひとつだったらしい、という話を関係者から聞いた。

だとしたら、比較の単位は「国」ではなく「都市」であったほうがよかったのではないか、と思った。英国居留地のある港町の横断的な比較、とか。

ナショナリズムの再検討と近代化論と都市論は、一挙に混ぜてやろうとすると、凡庸で薄い一般論に回収される危険が大きいと思う。

獣の宅配

吹田ジャンクションの近くで戦闘力の低いわたくし好みの個体を発見した。

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どうやら昨日来、「ちゅうかん」(大阪府道2号大阪中央環状線)や「がいしゅう」(同1号万博外周道路)、「しんみどう」(新御堂筋国道423号)とか「いないち」(同171号)とか、あるいは名神とか、自動車を運転しない私がタクシーの運転手さんに道順を説明するとき以外には使わない語彙で名指されるような、北摂の電車で行けないゾーンに水棲獣が頻出しているらしい。

(私がcp33に遭遇したのは「吹田インター」近くのイオンモールにいたからで、各銀行のATMがずらりと並んで年度の変わり目の諸々には駅前よりショッピングモールのほうが断然便利、というあたりが、いかにも、「ファスト風土」な郊外、ではある。)

ラプラスが「山のソース」「陸のソース」に出る、という言い方になるようですが、単に「山」「陸」ではないかもしれない。

昨年の夏場に南港や天保山へ自家用車で繰り出す人たちの「路駐」が問題になって、自治体や識者を交えた対策が話し合われたりもしたようだが、それじゃあ、そこまでしてラプラスを追い求める人たちがどこに住んでいるのか。ゲームの胴元がユーザの行動パターンを解析すれば、たぶん、傾向がわかるはずで、このイベントは、だったらそれぞれのユーザの自宅へラプラスを直接届けよう、という、いわば「モンスターの宅配」みたいな感じがします。

欲望を見透かされている、北摂民の欲望が陸地の水棲獣というシンボル/アイコンとして露呈している、ということでしょうか?

(「東北のラプラス」「熊本のカビゴン」の復興支援イベントで地元以外からわざわざ遠征したユーザがどれくらいいて、彼らは日頃どこでプレイしているか、というのも、有力な参考資料として使えそうだし、「みずイベント」の狙い澄ましたラプラスの出方は、いわゆるビッグデータの解析を踏まえていそうな気がします。「○○ギラス」といういかにもな名前の陸の怪獣とも、出現パターンは違っているようですし。)

ナイアンティックは「進化アイテム」を胴元が絶対負けない極悪ルーレットみたいなカジノ仕様で引っ張るのをようやく止めたが(ルーレットをエンドレスに回転させられるという理由で錦糸町や北新地の歓楽街にユーザが詰めかけるのは、いかにも怪しいことでした)、郊外でも、ラブホテルとボーリング場という高速道路のインターチェンジの昭和な風景は廃れつつあるようだ。名神茨木インターの周囲はいくつかのラブホが廃業して、巨大ボーリング場 Big Box は取り壊されてマンションになるらしい。たぶん交通の便を考えての立地だったと思われるパナソニックと東芝の家電工場もなくなった。(国道171号沿いには宅配の配送センターが並んで、パナソニックの跡地にAmazonが来るらしい。時代の変化ですね。)

吹田インターからJR茨木駅までの地域も、茨木駅側はJTの跡地がイオンモール、サッポロビールの跡地が立命館大学になったが、ラプラスのいるあたりまで歩いたおかげで、モノレール宇野辺駅の周辺には、今も工場がいくつかあるのがわかった。

少子化をものともしない住宅地の公園にカワイイ系が出て、走り屋の方々(今もこのあたりは週末に「族」のみなさんがうなりをあげて爆走しております)には巨大獣をお届けする、ということのようですね。(北関東との比較を展開するために、立命館の千葉雅也くんは、北摂に転居するのも、アリじゃないかしら。北関東風の任侠はいないが、仮名手本忠臣蔵山崎街道の舞台がこのあたりです。)

一口に北摂といっても、阪急電車が郊外の神社仏閣や湯治場と都心を結んだ昭和前期の開発と、道路を縦横に張り巡らして、集合住宅を作り、企業・工場を誘致した昭和後期の開発では、当然ながら風景・環境がまったく違っていて、前者の公園は世代交代を経ていまも賑わう一方で、後者の地域は、拡張現実を被せて巨大怪獣が宅配されている、ということだと思います。

昭和前期の私鉄沿線開発は鉄道を降りた利用者が駅周辺を歩くのが前提で、今では阪急電車の主要駅が高架式に変わっているけれど、昭和の頃は茨木市駅や高槻市駅も、今の神戸線の各駅と同じように住宅に囲まれて、街中にフラットに埋めこまれていましたよね。阪大(石橋の旧大阪高校)や関大など、北摂の学校はそんな阪急沿線にあるものだった。

中之島にあった阪大の医学部と付属病院が万博以後のインフラを活用するべく千里丘陵に移転して、立命館の経済経営系学部が茨木の工場跡地に入るのは、「ファスト風土」に「族」が爆走できそうな地域のジェントリフィケーションなわけで、大学の在り方として新しいのかもしれない。

(豊中の例の国有地は、そんな21世紀型の郊外都市再開発からも外れてしまう事情がありそうな場所だから、それで何かグズグズとくすぶってしまうんでしょうね。服部や曾根は拡張現実的にも色々面白いことが起きるけれど、庄内は水路を埋めた堤防沿いにミニリュウがときどき出るくらいなんですよね。)

そういえば、大学時代、サークルの同期生が何度か家まで送ってくれたが、阪大待兼山キャンパスから「ちゅうかん」を走って「がいしゅう」に入り、吹田キャンパスを横目に見ながら北上して「いないち」へ、というコースは、車好きにはそれなりに楽しい夜のドライブだったのかもしれない。(「せんちゅう」(千里中央)から「しんみどう」を使うより、我が家には「がいしゅう」コースがいいらしい。)今も昔も、私は車がどこをどう走っているのか、地図と風景がまったくリンクしないのだが、万博公園のあたりは、窓の外の景色が近未来都市っぽい雰囲気だったりしますよね。