実用演奏譜と研究譜・批判原典版は対立しない

音楽史の授業で、ウィーンの建築の歴史主義とブラームスの教養主義の同時代性という岡田暁生のウィーン論あたりに出てくる話を紹介して、ヨーロッパの音楽は、ほぼ19世紀半ばに、個人の営みではなく、学校・常設楽団・作曲家全集といった制度で維持する社会(国家)の共有財になったと言えるだろうというカルスタ(「創られた」説)で味付けをした近代化論の所見を述べて、ついでに、音楽学というのは、そのような「制度としてのクラシック音楽」の一翼を担う具体的には作曲家全集作りのための業務として誕生したと見ることができるだろう、と説明した。

これは毎年やっている話で、「今あなたの目の前にいるこの白石という男」が何者なのか、ということの歴史的な説明を音楽史に組み入れる筋立て(近頃流行りのアイデンティティ論風に言えば音楽史教師による音楽史講義の「再帰的」な基礎づけ)になっているわけですが、

今年は、「そのような音楽研究の成果として、19世紀の旧全集から20世紀の新全集への絶えずアップデートを続けている批判版・原典版と、ほぼ19世紀のままの姿で販売され続けている実用楽譜では、やはり、前者のほうが良い楽譜なのでしょうか」という素朴な質問が出た。

「原典版」は、音楽学がそのプレゼンスを内外にアピールする晴れやかなプロジェクトだったのは間違いなく、商品として販売することまで含めての原典版なので、類似商品である実用楽譜と競合する。そして、そんな素性の怪しい楽譜よりもこっちのほうがいいのだ、とアピールする含みはやはりある(あった)と思う。

それでも実用楽譜が現役商品として存続しているのは、そのような既存の楽譜を使用した演奏実践が歴史を作り、集団(演奏団体)や個人(師弟関係)のネットワークで楽譜が伝承されてきたのだから、煎じ詰めれば、これは、属人的な信頼の強さの証なのだと思う。

(音楽家のコミュニティが既存の実用譜を使って存続・継承されてきたことへの信頼と、そのような取り組みの成果物としての「名曲名演奏」への聴衆の支持の両方が絡み合って重層的に「属人的」な信頼の厚みが、おそらく、実用演奏譜を支えている。)

一方、音楽学は19世紀に確立したので、自然科学や歴史学の実証主義(物証重視)の態度が楽譜の批判的校訂の基礎になっていて、だから、実用演奏譜と、そうした研究の資料であり成果でもある批判原典版の間には、人のネットワークを成り立たせる属人的な信頼信用と、ものの実在への確信にもとづく実証主義の対立があるんだと思う。

「ヒトを信頼して先生と同じ古い実用譜を使い続けるか、実証的な研究=モノの実在を信じて、絶えずアップデートされる批判版を追いかけるか、この対立は、たぶん、メディア論的に解きほぐすのがいいんじゃないか」

と、私は質問にお答えしました。

どのような行程を経るにせよ、楽譜出版にはメディア論的な困難がある。手書きの一点物の楽譜(自筆譜)と、製版印刷して不特定多数に(有償で)頒布される出版譜は、音楽情報を伝達するメディアとしての特性が様々に大きく異なっており、楽譜出版という近代の営為には、手書き譜を(それと決して同一ではありえない)出版譜に変換するための様々な判断・選択・技術の集積としての「編集」という行程がある。

では、誰が楽譜を「編集」するのか。

(1) 作者(作曲家)自身が楽譜を校正して出版することもあるが、作者は人間なのでいつか死ぬ。生きていたとしても、一度出した楽譜を作り直して、同一作品の複数の版が生まれることもある。さらにショパンのようなサロンの音楽家は、秘蔵の曲を、敢えて出版せずに手書きの献呈譜として、しかるべき人々にプレゼントしたこともわかっている。

(2) 次善の策として、作者の関係者が楽譜を出すことも多い。そして著作権という概念は、あまり指摘されないけれど、こういう「作者の関係者」に出版の優先権を与えようとする含みがあるように思う。経験的に、作者を知る者が、その知見を編集作業に投影してくれると好都合なことがあるからだろう。ショパンの遺作の多くは、秘書的にショパンを支えた友人音楽家ジュリアン・フォンタナが出版した。

(3) もうひとつ、演奏家による編集校訂が19世紀後半から20世紀にさかんになった。ショパンのピアノ音楽のコルトー版とかそういうやつだ。別に日本の家元制度でなくても、西洋音楽でも演奏家が「作曲家の直弟子に学ぶ」という風習があるわけで、たぶん、大演奏家の校訂・編集は、そういう演奏伝統を背景にしているんだと思う。

(4) そしてようやく、コレクターや学者による実証的な批判校訂というアイデアが出てくる。

(5) でも、実は(1)から(4)のように出版社が楽譜編集に明確な意図と方針を打ち出す例は、膨大な出版産業のなかでは一握りの上澄みであって、世に出た出版譜の8割か9割は、特段の意図や方針があるわけではなく、手元の素材を手元の技術で製版印刷して出しただけ、ということになっているように思う。それでも、十分に「商品」として成立するくらいの規模が、音楽産業にはある(あった)ということだと思う。

要するに、手書きの一点物として書き下ろされた曲・作品を製版印刷して出版頒布する「メディア変換」=「編集」には、実に多くの関係者の様々な事情が絡むのであって、「実用演奏譜」vs「研究批判版=原典版」が、二大政党制のように対立拮抗しているかのように捉えるのは、あまり生産的ではない、と私には思えます。

事実、最近の研究批判版の校訂は、実証によるテクストの一意の確定を目指すより、その後の伝承・受容を視野に入れたテクストの複数性を肯定擁護する方向に進んでいるように見えます。ショパンのエキエル版にしても、リストのブダペスト版にしても……。

「編集」という行程を経ない「透明なテクスト」なんてありえないのだから、とりあえずいま目の前にあるこの楽譜(という名の紙の束)は誰がいつどのような経緯で作成して、どのような経路で私の手元にたどりついたのか、ということを、わかる範囲で可視化・意識化してつきあっていくしかないだろうし、楽譜の「編集」が特定の勢力に独占されないような、関係者の風通しの良い調整・コラボレーションを望む/そういう幸福なコラボレーションを支援する、というのが、賢い利用者の態度であろう、としか言えないような気がしております。

(音楽学者が原典版をプロパガンダして、音大の学生さんがこれに戸惑い、音楽史教師に「実用譜じゃだめなんですか」と質問する、そういう状況であるこの島は、いつまでたっても幸福な形で自国の作曲家の信頼に足る作品全集が出版されない国でもあるわけですね。

この状況は、大学の「人文」な人たちが昔ながらに近代化論とポスコロ・カルスタの講談をやっているだけでは決して変わらないと思う。

音楽の著作権、とか、自筆譜が語るもの、とか、学会がそういうテーマを新しげに取り上げるのも、同じ意味で、私には「ヌルい」と思える。本当に何が問題なのか、そこから目をそらす方便として、そういう話題にしがみついているんだと思う。

現役の楽譜出版社がどのように楽譜を出版しているか、あるいは、どうして、山田耕筰全集が中途半端に頓挫したのか、日本近代音楽館がいつまでも使いづらい背景にどのようなイデオロギーがあるのか、音楽著作権とか自筆譜の恵みとか言うのであれば、そういう話題に知的にアプローチして欲しい。みんな困ってるじゃん。そもそも、柴田南雄や武満徹やその周辺については嬉しげに語るヒトがいても、遠山一行とは何者だったのか、誰も語らないのはいったいどういうことなのか。)

多元方程式:音楽劇と音楽分析の現在

音楽劇は、言葉(語り)と歌、音楽と演劇、意図と効果、創作と受容、構造と演出(修辞)、物語とドラマ、個人と集団、芸術と政治、といった数多くの変数が組み合わさった多元方程式のようなところがあって、そこが面白いし、そのことを知れば知るほどワクワクする案件だと私には思える。

今年は大学でバレエとミュージカルとオペラを並行して扱う機会に恵まれて、実演のほうでも関西で色々と貴重な公演が続いているわけだが、どうやら周囲の反応をみていると、現象が多元的であることを認めたくなくて、決め打ちで処理したい人が現状では相変わらず随分多いように思える。

いつまでたってもそうなので、正直もうウンザリしつつあるのだが、

このウンザリした感じをわかりやすく(ということは多元方程式にふさわしくない決め打ち方式で)言語化するとしたら、「日本(or関西)の音楽劇をめぐる状況は絶望的に停滞している」とか、「バカが音楽劇をやるとこういうことになる」とか、言ってしまえばいいのかもしれないけれど、「多元的な現象を一元的に統括したい衝動」というのも、「多元的な現象の擁護肯定」と対立しながら、日本(or関西)の音楽劇の変数のひとつを構成しており、バカがたくさん集まってくることは、むしろ、音楽劇という現象の一部なのかもしれない。

理系的なカシコ系がもうちょっといたほうがいいだろう、と暫定的に診断したいところではあるし、文系理系とか体育会系文化系とかといった擬制の対立が相変わらずこの島では悪く作用しているんだろうなあ、だから、文化芸術に、事態の多元的な取り扱いが苦手な人が多く集まっちゃうんだろうなあ、とは思うけれど、この奇妙きてれつな混乱は、何かの胎動のような気もします。

日本が敗戦後に再独立して数年間だけ鳩山のような人が首相だったごく短い時期に熱病のように創作オペラ運動が盛り上がって、そのあとにミュージカル・ブームが来るのも、同時代的には、混乱混沌(数年後にはほぼ「なかったこと」にされてしまうような)だったのだろうと思いますし。

ちなみに、音楽劇が多元的なのに対して、器楽は純音楽的で一元的な基礎の上に構築されている(だから「fundamental な分析」が可能である)、というのは怪しげな想定だと思うし、和声と旋律・主題法とリズムと楽器法・演奏法と形式とジャンル概念とサウンドと意図・標題と効果・受容……といった事柄が音楽のなかに多元的にうごめいていると見た方がいいはずで、作曲家・ソルフェージュ教師の小鍛冶邦隆がアルテス・パブリッシングでそのあたりを(日本語が崩壊寸前になるほどの切実さで)必死に語る一方で、音楽学者・音楽史教師の沼野雄司が音楽之友社で(面白おかしい講談口調で)分析の「fundamental」などと言ってしまうのは、新興出版社と組んだ国立音楽院のソルフェージュ教育の張り詰めた使命感と、既存の大手と組んだ私立音楽学校の音楽学講義の既得権の上にあぐらをかいて緩んだ態度の対比に見えてしまうので、かなりマズイだろうと思う。

音楽劇に「かしこ」が少ないのと、音楽理論教育に、国立なのに革新な人と民間なのに保守な人がねじれて存在するのは、たぶん、同じ時代の症状だと思います。

作曲の思想 音楽・知のメモリア

作曲の思想 音楽・知のメモリア

ファンダメンタルな楽曲分析入門

ファンダメンタルな楽曲分析入門

(「若者は自民党をリベラルな革新政党だと捉えている」といった報道がなされるのが今の世の中ですからね。)

組織の合理化と「組織の顔」

組織の合理化でムダを省こうというデフレ・マインドの最終局面が津々浦々に浸透しているのが現在の状況で、組織の合理化とは、ヒトをマシンの部品として活用することだから、組織は、ヒトの集団ではあるのだが、集団としての「意志」をもつことはなく、何者かによって有効に活用されるべくまちうける道具・マシンになる。組織は、個体値のいいポケモンの揃ったモンスターボックスのようになるわけだ。

で、ポケモンはトレーナーが動かさないとただのコレクション、データベースだし、合理化された組織はこれを動かす「ボス」を求める。

東京のオーケストラが、外国人著名指揮者の招聘合戦に狂奔したのに続いて、大野、上岡、山田といった日本人指揮者を「顔」として担ぐ形になって、関西でも、京都は広上、兵庫は佐渡、大阪の音楽ホールは礒山/西村、大阪のオペラハウスは中村、というように監督・プロデューサーを担ぐ形で音楽団体が自らの存在を対外的に主張する状況になっている。

これは、ひとまず、世の動き(橋下や安倍や小池といった個人名が政治の関心事であるような)に沿っていることになるのでしょうか。

しかしそうなると、次に来るのは「個々のプロデューサーの善し悪し」がダイレクトに論評の対象になり、パブリックな審判を受けるフェーズだと思うのだが、音楽をめぐる言論にその体力は残っているのだろうか。

ニワカ

私はニワカだから、と謙遜してコアでファナティックなファンたちのコミュニティの攻撃を予防する話法があるらしい。

FF外から失礼します、に似た処世術、という理解でいいのだろうか。

response と reaction

増田先生は、人間的な「応答」とリトマス試験紙が変色するのに似た「反応」の区別が肝要だと教え諭すが、これは、情報社会(ネットのコミュニケーション)の勘所というより、大衆社会論に先祖返りしている感じがある。

真田父子の「兵を塊と見てはならない。一人一人が思いを持っている」という山賊的な教訓が観客の共感を呼びつつ近代戦で敗北する、みたいな小劇場出身の三谷幸喜が好んで描くドラマの構図のメタ・ヴァージョンだろう。

で、増田先生ご自身の人生は、「反応」をエレガントにかわしてきたというより、人間的な「応答」をフィジカルもしくはケミカルな「反応」だと誤認して取りこぼす、みたいな誤爆でガタピシしてきたように見えるわけだが(そしてだからこそ、彼は21世紀を見通す情報社会の住人というより、20世紀大衆社会(=集団を塊 mass と見る世界観)への郷愁で生きる人に見えてしまうわけだが)、そこはつっこまないお約束になっているのであろうか。

形式論はfundamentalか?

このあたりのことは学生時代に随分考えたのでとても懐かしい気がするし、こういうことを一度徹底的に考えざるを得なかったのは80年代を学生として過ごした世代の巡り合わせだったのだろうと世代論的共感のようなものを覚えますが、

でも今は、そういう風に「自分たちの学生時代の苦労をそのまま語る」というのではダメなんじゃないかと、少なくとも私は思うようになった。

音楽形式論を独立したストーリーにまとめようとすると19世紀をスキップせざるを得ない、というのは、20世紀の「新音楽」が悪しき19世紀を捨てて、「アーリー・ミュージック」や「エスノミュージック」と「現代」を直結しようとする運動で、形式論がそのイデオロギーだったことの裏返しではないかと思う。「ニュー・ミュージコロジー」の論客たちの形式論への批判は、fundamentalというより、この20世紀的な世界観のなかでしか成り立たないなれあいのようなところがあって、それではもうダメなんじゃないかと思うのです。

19世紀をスキップせずに音楽の形式を語ろうとすると、言葉や舞踊やドラマや社交込みの、音楽が自律していない状況での音のありようが問題になる。でも、おそらく、そっちのほうがfundamentalなんだと思います。

ファンダメンタルな楽曲分析入門

ファンダメンタルな楽曲分析入門

(そういう風に論が進むのかと期待して買ったので(Amazonで間違えて2冊も注文してしまった……)、ちょっと残念でした。19世紀を丸ごと「なかったこと」にしないとストーリーが成立しない形式論は、「現代音楽」というムーヴメントに忠実に寄り添って音楽を語ろうとするとそうなるのだろうけれど、さすがに運動が末期症状を呈しているように思う。現実に依拠して理論を組み立てるのではなく、現実を否認して強引にねじ曲げて運動の綱領を維持しようとしていると言わざるを得ないのではないでしょうか。)

そしてこういうところに絡んでくるのが「フルート奏者(笑)」の奥泉光先生なのですねえ。帯で名前を見てびっくりしたよ。

Three little maids from school are we

「学校帰りの……」と訳すのは誤りで、「わたしたちは学校を出たばかりの(=若いピチピチの)3人のメイドなの」という意味になるらしい。

(と小谷野敦のtwitterで知った。だからオリジナルが「学校帰りの……」という意味だとみなしたうえで、「あたしたちはJKなの!」と演出した先のびわ湖ホール/新国のミカドは、ちょっと困ったプロダクションということになるようだ。)

ギルバート/サリバン「ミカド」の有名なナンバーで、その後のミュージカルの曲作りの規範になったとされますが、それはつまり、この三重唱が、ジークフェルド・フォーリーズのような若い女の子のお色気ありなレビューの原点なのではないか、ということですね。

オッフェンバックの「地獄のギャロップ」がムーラン・ルージュのフレンチ・カンカンになったことを考えても、オペレッタの熱狂にエロチシズムが含まれているのは否定しがたいと思う。

そしてアイドル興行というのは、何もニッポンの特産品ではなく、ブロードウェイ・ミュージカル立ち上げ時の有力なアイテムだったということにもなりそうだ。

このあたりを本格的に整理したら、「創られた日本の「萌え」神話」のカルスタができるんじゃないか。「萌え」もまた「演歌」と同じく日本の特産品ではないかもしれない。


Three Little Maids From School Are We

ミカドからオリエンタリズムを取り去って演出したら、ほぼミュージカルになりそうですね。

個人と集団

西欧は個人主義の社会で日本は集団主義の社会だ、という言い方はあまりされなくなったけれど、「西欧の政治家が当然のように学位を取得している」というのが本当なのだとしたら、それは、個人がスキルアップのために大学で何かに取り組む時期をもつ、ということで、一方、日本の学位がそういう風に意味づけられていないというのは、大学院改革によって、むしろ、学位が大学や学会といった組織・集団へのパスポートの意味合いを強めて集団主義を助長している、ということではないだろうか。

最近、コンサートの主催者が招待状の出欠の問い合わせに必ず「所属」なるものを書かせるようになりつつある。どうやらコンサートというものは個人が己の耳で聴く場ではなく、何らかの経済原理に従って、座席をしかるべき「団体」に割り当てるほうが合理的である、ということになっているらしい。

「音楽の国」に参入して卓越した個人を輝かせるのだ、という理念が、この島では、むしろ集団主義の体の良い口実になっているように見える。

追加:

日本人の気質は西洋人とは違う、というような雑な話をしたいわけではないので、とりあえず、タイトルの個人主義、集団主義から主義を外した。

削る人々

最近ようやく黄色いの(cp3000前後でデンとジムに構えているあれ)をどうにか突破できるようになって、先日は12人がかりで「伝説」を倒す、というのに参加してしまいましたが、ゲームで破格に強いラスボスを連打でコツコツ攻めるのを「削る」と言ったりするようですね。岩盤を掘り進むような感じでしょうか。

(ゲームは、事前の下準備とわざと根性が全部必要になるようなハードルを設定するものなのですね。そのような「総合力」は「人徳と見識を備えた人材」なる伝統的な観念とゲーム論的に等価である、とみなしていいのか、その判断は保留したいですけれど。)

ブラタモリの黒部ダム探訪を視ておりまして、ダム建設/資財輸送トンネルの掘削は、石原プロの映画やNHKプロジェクトXの題材になった「昭和」のシンボルみたいなものになったわけですが、関西交響楽団/大阪フィルをはじめとする関西のクラシック音楽は、安定した電力を得るためにこういう巨大なものを造った関西電力のサポートで成り立っている(いた)んだよなあ、と思いました。

海はすべての生命の故郷で、一方、山は、人が挑戦するターゲット、みたいな言い方ができるかもしれず、朝比奈隆がシュトラウスのアルプス交響曲を十八番にしていたのは、「昭和」らしいことだったのかもしれませんね。

黒部の太陽 [通常版] [Blu-ray]

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(発電事業は、「山」(ダム)の水力と「海」(タンカー輸送)の石油の火力の次に「げんしのちから」に手を出して大変なところへ来てしまっているわけですが。)

学位と人徳

ヨーロッパにおける学位もちの政治家の活躍を眺めていると、あたかも、学位授与制度が人徳と教養を備えた人材を選別認定する仕組みとして機能しているかのように見える。それにひきかえニッポンは……。

というつぶやきをみかけたが、円満な人格と幅広い教養を備えた人物にのみ学位を授与する、というような発想を止めちゃおう(そんなことをしていると60過ぎたジイサンしか学位をもらえないことになっちゃうから)というのが大学院改革だったわけで、その新制度化で学位を得て、高等教育機関での一定の仕事を得た者がそんなことを言いだすのは、アホちゃうか、という感じがする。

特定分野の専門家としてのスキルを認定するしくみとして学位制度があることは別にどの国でも変わるまい。付加的に、学位申請者が人徳と教養を備えた人物であればなるほど幸運なことではあるが、ヨーロッパがそうなっている(ように見える)としたら、それは、制度の問題ではなく、制度の周囲に幸運を引き当てる知恵が蓄積されている、ということだろう。

幸運を引き当てられるように制度を改革しよう、というのは、チート行為で手駒を豊かにしようとするゲーム脳の暴走だろう。

まあ、しかし、もうそんなことはどうでもいい。

たわごとを口走ることで人徳と教養がいまいちであることを日々露呈している人であっても、学位を得るスキルとそれに見合った仕事を割り当てられて、その仕事を十二分にこなせることは当然ありうるのだし、現実に、既に所定の仕事がその人物に割り当てられており、あと5年か10年は頑張ってもらわないと他に代わりはいないのだから、仕事をちゃんとやってくれたらそれでいいよ。

おそらく、幸運を引き当てる知恵がこの島に蓄積するとしたら、それは今すぐではなく、この先ちょっとずつのことで、わたしやあなたが引退した先の話になるのでしょう。

「かつてこの島には、学位というものに奇妙な付加価値を期待する者たちがいた」

というのは、あとで振り返って憫笑されるエピソードなのでしょう。