拝啓増田聡様

なにかをつまらないと思うことと、つまらないと言うことはちがう。公開の場でつまらないと言うのが許されるのは、なにか単なる感想を超えた目的があるときだ。そうでなければ、それは単に「おれの感想きいてくれ」という押しつけになってしまう。

東浩紀のtwitterを遡って確認すると、これは、芸術家集団の「内ゲバ」めいた言動を戒める文脈でなされた発言だとわかる。

一方、研究者が研究の場で特定の方法や問題構成の是非等を検証する議論は、学問倫理としても社会通念としても、「なにか単なる感想を超えた目的」として認められている、という理解でよろしいですね。

増田様がこのような形で東浩紀の発言を「コピペ」したとしても、増田様の研究者としての言動への適切な論評が不当に抑制されることがあってはならないし、そのような、言外の(本来の文脈を離れて、ほぼ真逆に世界を不自由にするような)効用を期待したコピペ行為は、倫理的に批判されてしかるべきだと思います。いつまでそんな態度を続けるつもりなのでしょうか。

シンポジウムは、他の予定をキャンセルして聴講させていただきたいと思っております。関西で日本音楽学会の支部活動がはたしていつまで営まれるのか、気がついたら消滅していた、ということになりかねませんから、存在するうちに一度行く。楽しみにしております。

生誕100年

大栗裕は1918年生まれなので今年は生誕100年。

生前に大栗裕が務めた京都女子大音楽教育の先生方と学生さんの演奏会で、仏教讃歌と大阪俗謡による幻想曲が演奏されました。

仏教讃歌はアカペラ。言葉と節回しがはっきりわかる新鮮で効果的なやり方だったのではないかと思います。そして吹奏楽による俗謡もよくこなれた演奏でした。楽譜をめぐる状況、作品に関する情報が安定してきたことで、変な先入観なくこの作品に取り組むことができるようになりつつある、ということであればいいのですが。

会場はびわ湖ホール。

湖畔に水辺らしく大きいのが出て。

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(せっかくホールや湖を背景にしたのに全部隠れる(笑)。)

地元の皆さんと海の王様と闘って、水平移動も無事ゲット。

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大栗裕の父は徳島出身で大栗裕の中学時代の最初の作品とされているのは「天草への幻想」、俗謡のだんじりは海の男たちの祭りが原型だと思われるので、生誕100年目に海王と遭遇するのは、似つかわしいと思えなくもない。

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ホール前のジムでは、丁寧に回避すればカンストなしのメンバーでも十分にいけるのを改めて確認させていただきました。(スプーン曲げの超能力者だけは、なかなか勝てないですけれど。)

[追記]

そしてその後、薄氷の勝利。

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いわゆる「技2を敢えて食らってゲージを貯める」(←なんとも荒っぽい日本語ですね)が功を奏したようだ。同じメンバーで全部避けたら時間切れ。回避できるものを回避しない、という戦術があるんですねえ。

友人という名の「演歌的」関係性について

学会の公式行事の企画者が登壇を予定する者から「○○君」と呼ばれ、この行事とは別の文脈においてではあるが、当該人物が「サブちゃんとワジマ先生」というようにキャラクター化してイジられるのは、おそらく、そのようにお互いを呼び合う旧友関係を前提にしているのだろうが、40歳を過ぎた社会人が公然とそのような「空気」を醸造・維持しながら執り行われる行事の円滑な遂行のために「どうか、会費を納入してください」と懇願されても、正常な判断力のある社会人は戸惑うばかりであろうかと思う。

リチャード・タラスキンが、大学教授という職業を「生活の糧を得るための手段に過ぎない」と位置づけて、自らの人生を「自分がやりたいことをやってきた」と語る行為は、社会のシステムや個人の意志・欲望をそのように明示することで、反転して、「知」がパブリックに行使される場の存在を、それこそ「空気」のように開示していると思うのだが、

「輪島君/ワジマ先生」という呼称が流通するソーシャル・ネットワークは、これとは逆に、出口のないプライヴェート空間に万物を飲み込むブラックホールになりつつあるのではないだろうか。

人々はそのようなブラックホールに喜んで私財を投じてくれるに違いない、そして、貴重な週末の午後に自らの身体をそのような場に運んでくれるに違いない、と考えるのは、将来性ある信念なのだろうか、それとも、先細るしかない後ろ向きのなれ合いなのだろうか?

「演歌」という概念は、音楽のナショナリズムとグローバリズムの関係を読み解いて大きな文脈に位置づけるための鍵、大海をスムーズに航行するのに役立つ碇というより、とりあえずの目印として海上に浮かぶブイのようなものではないかと私は思う。そもそも、ナショナリズムとグローバリズムという問題設定自体が、21世紀への転換の数十年には有効だったが、たぶん過渡的でそれほど長い周期の歴史を照らし出してはいないし、むしろ、演歌というブイは、ナショナリズムとグローバリズムという問題設定の底の浅さを暴露するきっかけとして利用するのがいいんじゃないか。そして設定された問題の可能性と限界が明らかになれば、暫定的な役割を終えたツールとして、早々に回収して差し支えないんじゃないだろうか。

(ちょうど、総合商社と文化人類学の70〜80年代にもてはやされた「ケチャとガムランのインドネシア」が90年代にそのシンボリックな意味を失ったように。)

だから、この概念の効用を提唱した者が、知という大海のエコロジーのために成すべきは、いつまでもブイを海上に浮かべ続けて、その発明者としてのプライオリティを主張することではなく、賞味期限を見極めて、適切なタイミングでその人工物を撤収することではないかと、私はそのように考えております。

輪島裕介が第二の中川真にならないことを祈る。

Wissenschaftlich gefasste Erinnerung

ダールハウス(たぶん「音楽史の基礎」だろうけれど)の出典を確かめられてはいないけれど、タラスキンは京都賞の受賞講演でこの言葉を使っている。YouTubeでみることのできる同時通訳はちょっとアタフタしているけれど、「歴史とは知的につかみ取られた記憶である」という訳になるでしょうか。

(そしてピアニスト、チャールズ・ローゼンが「音楽と感情」の終章で言う Obsession は、20世紀初頭の作品群から「音楽的につかみ取られた記憶」を読み取る試みということになるでしょうね。18世紀の西欧流啓蒙主義(音楽の一般理論)を20世紀の米ソ新体制下の common practices に直結させる「fundamental」(笑)な音楽分析では、このあたりがごっぞり抜け落ちることになりそうだが……。)

そしてしかし、他方に「すべては偶然 chance である」という認識があって、歴史という知的につかみとられた記憶=物語(流行り言葉で言えばナラティウですか?)は絶えず相対化され続ける。

そういう枠組でタラスキンは自分史を語るわけだけれど、なるほど、人は、自ら望んでユダヤ人の息子に産まれるわけではないし、思春期の絶好のタイミングで鉄のカーテンの向こう側にいる親戚との交流・文通をスタートするという chance はそう簡単に訪れるものではない。

日本の音楽言論人で、chance に恵まれて、それを知的につかみとって語っている人というと誰だろう?

柴田南雄は、chance というより、そういう環境に生まれて、だからエコロジカルに心が澄み渡っている感じだし、吉田秀和は、何かを「知的につかみとる」能力に長けているけれど、そこまで大きな当たりくじ(chance)を引いてはいないし、自らの引きの弱さを知的に自覚していたように思う。

そしてこの「引きの弱さの自覚」を人脈的に継承してしまったところに、90年代以後の「吉田秀和賞」系統の音楽批評の弱さがあるんじゃないかという気がします。

(阪大の卒業生で言えば、やっぱり、岡田暁生や伊東信宏より、中川真のほうが大きなくじ(chance)を引き当てていると思う。白髪の大物名誉教授になるところまで順当に chance を育てたと言えるかどうか、微妙かもしれないけれど。)

脳力の限界:誰が日本のリチャード・タラスキンたりうるか?

昨年の日経批評欄の年末回顧では、バーンスタイン「ミサ」とメシアン「アッシジ」が相前後して上演されたのが関西の2017年の最大のトピックだった、という括りにさせていただきましたが、関西ではなく「日本の2017年」というスコープで考えるとしたら、京都賞に作曲家(ケージやクセナキスやブーレーズ)でもなく演奏家(アーノンクール)でもなく音楽学者のタラスキンが選ばれたこと、そして、京都の稲森財団の事業なのに、ほぼ関西の音楽シーンには一切介入することなく、タラスキンのワークショップが東京芸大でいつの間にか行われて終わっていた、というのが、同じくらい大きな不可視の事件かもしれないと思います。

タラスキンは「幸運」の重要性を講演で語っていて、ロシア移民の息子がムソルグスキーのオペラ研究からキャリアをスタートしているのだから、もし、タラスキンの業績を「意識高い系」な感じに、わかる人だけがわかればいい貴重な輸入品として東京で消費するのではなく、「日本のタラスキンを目指す」という生産的な構えで事態に対応するとしたら、タラスキンを日本で「反復」(と敢えてポモ風に言ってみる)するスタートラインは、トーキョのアカデミックな音楽文化のナショナリスティックな顕彰ではなく、関西の大栗裕をめぐって「8つのエッセイ」を発表する、とか、そういうことになるんだろうなあと思う。

(関西の衰退するどころかますます頑迷になりつつある内向きの身びいきは、いわばムソルグスキーを人民愛の人とみなすスターソフ・イデオロギーに関西全体が凝り固まっているようなものですからね。)

わたくしは既に50を越えておりますので、次世代以後にこのミッションを託す所存。わたくしの課題は、いかにも関西っぽく諸々が絡み合って面倒なことになっているこの作曲家に関する資料を、次世代以後に降臨するであろう「日本のタラスキン」のために、まっとうに利用できる状態までもっていくことくらいであろうと思っております。

東京の「意識高い系」が関西を完全に見限った、要するにそれが日本の2017年の核心ですよね。だとすれば、まあ、それくらいしか、できることはありません(笑)。

メシアンとバーンスタインは、制度的救済から見放された者にこそ天使が舞い降りる、という判官贔屓風のメシアニズムの20世紀ヴァージョンであり、だからこそ、「見放された関西」で2017年に上演され、一定の感動と共感を生んだわけですが、タラスキンという幸運が身をもって示すのは、「見放された者たち」(大衆資本主義的もしくは人民社会主義的な新体制イデオロギーの支配下で人気を保ちつつアカデミズムから見放されていた帝政ロシア)に誰がいつどのようにアプローチするのか、という知のモラルだと思います。そして東京の「意識高い系」音楽知識人たちは、見放されて仕方のないものを「見放す側」に立ち、まあいわば、悪役を買って出たわけだから、ええ根性しとるわけですな。

手順をつくして日本とのコネクションを築いてきたコンヴィチュニーを見限るような関西には鉄槌を食らわすべし、みたいな思いがあったのかもしれませんが……。びわ湖ホールで若手受講生として動いていた佐藤美晴が、今回のタラスキンのワークショップでは演出を担当していたようですし。長木誠司さんは、実に明快に「問題提起」する人ですね。

2017年の夏には片山杜秀がサントリーのバックアップで大澤壽人を「日本におけるボストン派」として喧伝して、秋には長木誠司が稲森財団の軒下を借りて米ソ新体制の「短い20世紀」を奇跡的にすりぬけてしまった音楽知識人リチャード・タラスキンを顕彰して、年末には伊東信宏があいおい同和損保の音楽ホールで音楽における三島由紀夫の精神的継承者と言うべき三輪眞弘のオペラを上演した。

武満徹あたりがセゾン文化の一翼を担って華やかに活躍した70〜80年代に音楽に目覚めて、吉田秀和に後を託された朝日新聞系(であると同時になんとなくアルテス・パブリッシングの策謀の影が見え隠れする)音楽評論家の皆さんが、大きな成果とともにその限界を見せて、ひとつの区切りのついた一年になりましたね。

いずれも、日本にマークシート方式の共通一次/共通テストという究極の知の平準化(ゲーム化)が導入される以前の教育で育った最後の世代であり、その歴史的な位置にふさわしく、それぞれに立派な人生をまっとうしつつある方々だと思いますが、でも、どうやら、彼らは「日本のタラスキン」とまでは言えないと思う。ひょっとすると、吉田秀和はそれを期待していたのかもしれないけれど……。

タラスキンには、確かに人脈的・時代的な「幸運」があったけれど、その運を掴むことができたのは、フィールドに目を配り、アーカイヴを駆使する地力があったからだろう。

日本の音楽学は、現在に至るまで、そうしたインフラが絶望的に脆弱だし、プレ共通一次世代の「旧人類」は、決定的なところでエゴや精神を優先して、ものと事実の力(その具現化としてのメセナ=経済力)をエゴや精神のサポートにのみ利用しようとする。セゾン文化への憧れから脱却できないヒロイズムの限界と言うべきだろう。

だから、彼らの活躍する磁場では、あたかも脳が人体を統御するかのように、場の「中心」(として言論を司る者)は常に単一であり、周囲は手が出せなくなる。NHKの特集によると、人体を脳が統括するという見方は克服されつつあるらしいのにね。

ニューイヤーコンサートに見るテレビと舞踊(バレエ)の相性の良さ

ミュージカル映画というアメリカの象徴のような輝かしいジャンルがあるけれど、20世紀の映像・動画メディアの中で、舞踊と一番相性が良かったのは、ながらで眺めることができる=見物観光という態度を許すテレビだったかもしれない。MTVのマイケル・ジャクソンという好例があるけれど、テレビはそれだけでなく、各国で黎明期からかなりのダンス番組を制作していたのではないか。

日本の民放開設は、ちょうどバレエブームと同時期だったので、黎明期のテレビはバレエをよく放送したらしいし、YouTubeには外国の様々な映像がアップロードされていますね。

で、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートのテレビ中継に別撮りしたバレエが被さるのは、そういうテレビ黎明期からの経緯があってこそなのではないか。

屋外や歴史的建造物でバレエ、というのは、バレエが20世紀に再生した頃の意欲と、テレビがニューメディアだった頃の実験精神を掛け合わせないと出てこない発想のように思うのです。

とりあえず、かつての渡辺裕のようにニューイヤーコンサート自体をおちょくる(ちなみにそのおちょくりの態度が吉田寛の音楽の国論に繋がるわけだが)のではなく、演奏会のテレビ中継とその演出の歴史を誰か整理してはどうかと思います。

90年代との距離

世界の終わり、というのをはじめて聴いて、Roseの熱唱に動揺しながらETVをちょっとだけ覗いたら、エッシェンバッハの第九の合唱は国立音大ではなかったんですね。

ロックの人の懐メロ殿堂入り感と、40歳松たか子の不動のアイドル様式の対比がすごい。

Sports Music Assemble People なる時空歪曲装置が停止したことで、90年代もそれ以前もそれ以後も、フラットに収まる場所に収まることができるようになったということでしょうか。

様々なドミソの和音

便利な道具として「グローバル」(?)に使用される英語と、原書の翻訳者が知識とわざを総動員して取り組む英語(もしくは「英語→日本語変換」と呼ぶしかない営み)と、文学者や哲学者が精読する英語は、ほとんど別の言語かもしれないけれど、それでもそのすべてが「英語」と呼ばれることにはきっと理由があるだろう。

今ではおそらく地球上のかなり多くの地域のポピュラー音楽でドラムセットのビートにのせて鳴り響いているのであろう C major のコードと、ドビュッシーの異国趣味作品や日本のフランス派洋楽で鳴り響く c + e + g のサウンドと、ヘンデルのオラトリオやモーツァルトのシンフォニーの C-dur(あるいはモンテヴェルディのモノディー様式オペラで通奏低音にc音が指定された箇所のレアリゼーション)は、全部別物だが、全部「ドミソ=ハ長調」だと名指されるのと何かが似ている。これらの「ハ長調」のうちのどれがグローバルであったりローカルであったりグローカルであったりするのか、私はその種の用語の作法に詳しくはないし、そのような分類を誰がどれくらいの切実さで求めているのか、いまひとつよくわからないのだけれど。

(増田聡先生の周りに集まっているようなゼロ年代風ポピュラー音楽研究者だったら、嬉々として、どれがグローバルでどれがグローカルか、というおしゃべりで一晩酒が飲めたりするのかもしれませんし、そういう飲み会こそがミュージッキングである、という屁理屈によって文化的ファシズムが進展することに、人はそろそろ飽きていると思います。)

多文化主義者チャイコフスキー

小岩信治『ピアノ協奏曲の誕生』を熟読するシリーズ最終回。チャイコフスキー以後の「拡散」を扱う終章である。

前に読んだときにロシアのポストチャイコフスキー協奏曲の「美しい旋律を湛える短調」というキーワードに感動して、その後何度か、「短調」は一枚岩ではなく、バロックの短調とベートーヴェンの短調は違うし、ロマン派の短調の亜流とみなされがちな「ロシアの短調」は、おそらく独立したカテゴリーだろう、という話を何度か色々な機会にしてきましたが、

今回、チャイコフスキーの変ロ短調のピアノ協奏曲についてのコメントには、さらに広がりのある問題の萌芽が含まれていることに気がついた。

第1楽章の序奏と第3楽章のコーダがワルツで舞踏会の華やかさを演出している、という指摘は前から面白いと思っていて、特に第1楽章では、主調b-mollから強引にスライドして、トラウマか強迫観念のように肥大したグロテスクなワルツがDes-durで鳴り響くのは、調の設計・形式を意図的に大胆に歪ませる特別な主張だろうということにも気付いていたのですが、

冒頭のb-mollからDes-durへの転調はさらに独特で、ホルンが「ファレbド シb」とb-mollを3回繰り返して主調に固執するのに対して、合いの手のトゥッティの和音のバスは、いきなり第7音のAsにズレで、ここから、g-ges-f-fes-es と半音で下降するんですね。堂々たる短調を目指すホルンに対して、オーケストラは脆弱な地盤にズブズブと沈んでいく。沼地に築かれたペテルブルクの王宮が地盤沈下で崩れ落ちるような和声だなあと思いました。

そして躁状態で踊るDes-durのワルツになるわけですが、まずオーケストラが歌って、次にピアノが旋律を受け持つと、今度は合いの手のオーケストラ(木管)が半音の上昇(下降ではなく)を含む和声でDes-durを崩して、ピアノのカデンツァに移行する。そしてこのカデンツァは、減7和音を執拗に繰り返して、冒頭のホルンの動機(f - des - c - b)が「ces - as - ges - f」と8音音階(ces - a - as - ges - f - es - d - c - ces)風に歪む。

つまり、序奏部には、短調〜半音階(下降)〜長調〜半音階(上昇)〜8音音階〜長調、という、まるでモーダルの音楽であるかのような旋法もしくは音階の切り替えがあるように見えます。

そして小岩さんは、(このことには言及していないけれど)主部の第2主題に不思議な順次上行旋律があって、これが次第に本来の第2主題と同等の存在感を主張することを指摘しています。

で、楽譜を確認してみると、小岩さんが本来の第2主題と呼ぶのは「レbラ〜シb、ファド〜レb」のよろめいてワーグナー風に和声づけされたピアノ楽節で、順次上行旋律は、バスのオスティナートの上で「ミbファソミbファソラbミb……」と民謡風に歌う弦楽器ですね。後者は、その後、同様に順次上行ではじまる第1主題(シbド、レbド、ミbレb、ドシb……)と組み合わされています。

ここにも、ワーグナー風=近代的な4音和音の移ろいと、オスティナート上の民謡風の素朴さ、という様式の対比があります。(第1主題は後者に近く、ロシアの民俗舞踊か何かのように聞こえますね。)

ワルツの話と、ワーグナー的近代vs民謡調の話を組み合わせると、チャイコフスキーは、師ルビンステインから学んだドイツ流の短調協奏曲の前後を舞踏会風のワルツで囲み、協奏曲本編では、まるでペテルブルクの苦悩するインテリゲンチャみたいに、近代和声と民謡が対決していることになりそうです。

そしてワルツの話は、おそらくロシアの音楽文化の歴史の話でもあって、ペテルブルクの宮廷は、フィールドがイギリス式のよく響きピアノを持ち込み、ヘンゼルト、ルビンステインがドイツ流の器楽(コンチェルトやシンフォニー)を普及させる19世紀に先だって、イタリア・オペラを17、18世紀に導入して、19世紀にはパリ仕込みのバレエを花開かせていますよね。ルビンステイン流(=ドイツ風)協奏曲の前後をワルツというバレエでもおなじみの舞踊のリズムが取り囲み、弦楽器がイタリア・オペラのようにオクターヴ重複で朗々と歌うのは、ロシアがどのように西ヨーロッパの音楽を取り入れてきたか、ペテルブルクのまだら状の音楽文化の縮図だろうと思うのです。

チャイコフスキーは19世紀後半のロシアの多文化状況のなかで作曲しているように思われます。

そして話はこれだけでは終わらない。

先に第1楽章の序奏について指摘したモード・チェンジは、もしチャイコフスキーのように「ドイツ風」の音楽理論でツジツマを合わせるのではなく、短調・半音階・8音音階という素材をむきだしに並べたら、ほぼドビュッシーになると思うのです。実際、世紀転換期のパリの作曲家たちはロシアの音楽に異様な関心を示していたし、ドビュッシーは若い修業時代にメック夫人の元でロシアの最新動向を知っていましたよね。

そして北米の20世紀の音楽は東欧・ロシアからの移民が下支えしていたことが知られていますが、例えばレナード・バーンスタインは、修士論文(邦訳あり)で、賛美歌と黒人音楽(ジャズ)と先住民の音楽を組み合わせた「真のアメリカ国民音楽」を目指さねばならない、というようなことを書いています。若き日のロシア系ユダヤ人バーンスタインの主張は、まるで、19世紀末のペテルブルクでチャイコフスキーがやったことを20世紀半ばのニューイングランドで反復せよ、と言っているように見えます。

ポスト・コロニアリズムは、宗主国と植民地の関係を中心(宗主国)から周縁(植民地)へ、という一方向的な拡散とは異なるモデルで捉え直そうとする主張だと思いますが、19世紀末ペテルブルクのインテリゲンチャの音楽がパリのモダニストに刺激を与え、北米の「多文化主義こそがナショナリズムだ」という発想のヒントになっていたとしたら、ペテルブルクの「西欧化」という名の文化的植民地主義が宗主国に還流するポスト・コロニアリズムの萌芽が帝国主義まっさかりの時代に胎動していたことになる。

たぶん、これくらいダイナミックに「19世紀の音楽」を切り崩しておかないと、「20世紀の音楽」を十全に語ることはできないと思う。

(京都賞を得たタラスキンが音楽学者としてユニークで刺激的・主導的な人だと見なされうるのも、まさにそんなロシアのインテリゲンチャの音楽に軸足を置いた研究を展開しているからですよね。)

タイプ不一致を「よける」

新世代実装とともに、タイプ不一致なのだけれども凶悪・強力な必殺技を繰り出すモンスターがボスとして登場するのは、相手の裏をかく戦術を導入しているわけで、これは対人戦実装のための準備なんでしょうね。

ゲームを「作る」人たちは色々考えなければいけないことがあるんですね。

ところで、「避ける/避けた」という言葉を「さける」ではなく「よける」と読ませることに、私は今もなかなかなじめずにいる。

辞書では、「よける」は物理的・身体的な動作を指して、「さける」のような比喩的・抽象的な用例がない、と説明されているようだ。

抽象への道、メタファーとしての広がりがない語彙を敢えて選ぶ、というのは、体験重視のゲーム的発想だと考えていいのだろうか。

[追記]

その後、気がついた。

「よける」は「除ける」の字を当てることがある。厄除けのヨケですね。単に物理的な運動・身体動作を指すだけでなく、忌まわしいものから身を引き離す意味合いが「よける」の語にはあるように思う。

私は「よける」の語の「みそぎ/忌み」といった言葉と関連しそうな宗教的なニュアンスが好きではないようだ。

「さける」は世俗的な戦術で、「よける」は宗教的な線引きだと感じてしまう。だから、よけてんじゃねえよ、正面からぶつかってきやがれ、と思ってしまう。ゲームで鮮やかに披露される「回避」のテクニックには心底感心するのだけれど。

(でも、モンスターが対戦するゲームには、だからこそ「よける」がふさわしいのかもしれませんね。まがまがしい必殺技を繰り出すキャラがいますからねえ。)