多文化主義者チャイコフスキー

小岩信治『ピアノ協奏曲の誕生』を熟読するシリーズ最終回。チャイコフスキー以後の「拡散」を扱う終章である。

前に読んだときにロシアのポストチャイコフスキー協奏曲の「美しい旋律を湛える短調」というキーワードに感動して、その後何度か、「短調」は一枚岩ではなく、バロックの短調とベートーヴェンの短調は違うし、ロマン派の短調の亜流とみなされがちな「ロシアの短調」は、おそらく独立したカテゴリーだろう、という話を何度か色々な機会にしてきましたが、

今回、チャイコフスキーの変ロ短調のピアノ協奏曲についてのコメントには、さらに広がりのある問題の萌芽が含まれていることに気がついた。

第1楽章の序奏と第3楽章のコーダがワルツで舞踏会の華やかさを演出している、という指摘は前から面白いと思っていて、特に第1楽章では、主調b-mollから強引にスライドして、トラウマか強迫観念のように肥大したグロテスクなワルツがDes-durで鳴り響くのは、調の設計・形式を意図的に大胆に歪ませる特別な主張だろうということにも気付いていたのですが、

冒頭のb-mollからDes-durへの転調はさらに独特で、ホルンが「ファレbド シb」とb-mollを3回繰り返して主調に固執するのに対して、合いの手のトゥッティの和音のバスは、いきなり第7音のAsにズレで、ここから、g-ges-f-fes-es と半音で下降するんですね。堂々たる短調を目指すホルンに対して、オーケストラは脆弱な地盤にズブズブと沈んでいく。沼地に築かれたペテルブルクの王宮が地盤沈下で崩れ落ちるような和声だなあと思いました。

そして躁状態で踊るDes-durのワルツになるわけですが、まずオーケストラが歌って、次にピアノが旋律を受け持つと、今度は合いの手のオーケストラ(木管)が半音の上昇(下降ではなく)を含む和声でDes-durを崩して、ピアノのカデンツァに移行する。そしてこのカデンツァは、減7和音を執拗に繰り返して、冒頭のホルンの動機(f - des - c - b)が「ces - as - ges - f」と8音音階(ces - a - as - ges - f - es - d - c - ces)風に歪む。

つまり、序奏部には、短調〜半音階(下降)〜長調〜半音階(上昇)〜8音音階〜長調、という、まるでモーダルの音楽であるかのような旋法もしくは音階の切り替えがあるように見えます。

そして小岩さんは、(このことには言及していないけれど)主部の第2主題に不思議な順次上行旋律があって、これが次第に本来の第2主題と同等の存在感を主張することを指摘しています。

で、楽譜を確認してみると、小岩さんが本来の第2主題と呼ぶのは「レbラ〜シb、ファド〜レb」のよろめいてワーグナー風に和声づけされたピアノ楽節で、順次上行旋律は、バスのオスティナートの上で「ミbファソミbファソラbミb……」と民謡風に歌う弦楽器ですね。後者は、その後、同様に順次上行ではじまる第1主題(シbド、レbド、ミbレb、ドシb……)と組み合わされています。

ここにも、ワーグナー風=近代的な4音和音の移ろいと、オスティナート上の民謡風の素朴さ、という様式の対比があります。(第1主題は後者に近く、ロシアの民俗舞踊か何かのように聞こえますね。)

ワルツの話と、ワーグナー的近代vs民謡調の話を組み合わせると、チャイコフスキーは、師ルビンステインから学んだドイツ流の短調協奏曲の前後を舞踏会風のワルツで囲み、協奏曲本編では、まるでペテルブルクの苦悩するインテリゲンチャみたいに、近代和声と民謡が対決していることになりそうです。

そしてワルツの話は、おそらくロシアの音楽文化の歴史の話でもあって、ペテルブルクの宮廷は、フィールドがイギリス式のよく響きピアノを持ち込み、ヘンゼルト、ルビンステインがドイツ流の器楽(コンチェルトやシンフォニー)を普及させる19世紀に先だって、イタリア・オペラを17、18世紀に導入して、19世紀にはパリ仕込みのバレエを花開かせていますよね。ルビンステイン流(=ドイツ風)協奏曲の前後をワルツというバレエでもおなじみの舞踊のリズムが取り囲み、弦楽器がイタリア・オペラのようにオクターヴ重複で朗々と歌うのは、ロシアがどのように西ヨーロッパの音楽を取り入れてきたか、ペテルブルクのまだら状の音楽文化の縮図だろうと思うのです。

チャイコフスキーは19世紀後半のロシアの多文化状況のなかで作曲しているように思われます。

そして話はこれだけでは終わらない。

先に第1楽章の序奏について指摘したモード・チェンジは、もしチャイコフスキーのように「ドイツ風」の音楽理論でツジツマを合わせるのではなく、短調・半音階・8音音階という素材をむきだしに並べたら、ほぼドビュッシーになると思うのです。実際、世紀転換期のパリの作曲家たちはロシアの音楽に異様な関心を示していたし、ドビュッシーは若い修業時代にメック夫人の元でロシアの最新動向を知っていましたよね。

そして北米の20世紀の音楽は東欧・ロシアからの移民が下支えしていたことが知られていますが、例えばレナード・バーンスタインは、修士論文(邦訳あり)で、賛美歌と黒人音楽(ジャズ)と先住民の音楽を組み合わせた「真のアメリカ国民音楽」を目指さねばならない、というようなことを書いています。若き日のロシア系ユダヤ人バーンスタインの主張は、まるで、19世紀末のペテルブルクでチャイコフスキーがやったことを20世紀半ばのニューイングランドで反復せよ、と言っているように見えます。

ポスト・コロニアリズムは、宗主国と植民地の関係を中心(宗主国)から周縁(植民地)へ、という一方向的な拡散とは異なるモデルで捉え直そうとする主張だと思いますが、19世紀末ペテルブルクのインテリゲンチャの音楽がパリのモダニストに刺激を与え、北米の「多文化主義こそがナショナリズムだ」という発想のヒントになっていたとしたら、ペテルブルクの「西欧化」という名の文化的植民地主義が宗主国に還流するポスト・コロニアリズムの萌芽が帝国主義まっさかりの時代に胎動していたことになる。

たぶん、これくらいダイナミックに「19世紀の音楽」を切り崩しておかないと、「20世紀の音楽」を十全に語ることはできないと思う。

(京都賞を得たタラスキンが音楽学者としてユニークで刺激的・主導的な人だと見なされうるのも、まさにそんなロシアのインテリゲンチャの音楽に軸足を置いた研究を展開しているからですよね。)