その「大学時代の年配の先生」とは誰なのか? - 体験談の調理法について

10年程前、最初日本で(セイチェントではない)レクチャーコンサートをしたとき、大学時代の年配の先生に「あなた、ああいう難しいお話しは一般の人には向きませんよ」と言われた。が、コンサートのアンケートには「一般の人」から「講義が面白かった。もっと突っ込んだ話をして欲しかった」と書かれた

自分の体験をこのような定型に収めて語ることは、受け手のリテラシーを信頼する美味い調理法とみなすことができるのだろうか。

その年配の先生とは誰なのか、実名を挙げないと同年配の他の先生が、その不見識な先生と混同されて迷惑なのではなかろうか。その「年配の先生」と同年齢かそれ以上の物故者であるような日本の大学教授のなかに、あなたのレクチャーを歓迎するであろう人は当然複数いるはず。その程度には、日本の大学にも、ものをまともに考える個人がいる(いた)はずだと思うのですけれど……。

攻撃能力の高い話法であることは認めるが、敵味方の線引きがあまりにも凡庸ではないだろうか。

友敵関係の戦略について、受け手のリテラシーを信頼せずに、どうやって闘いに勝てるというのであろうか。

「個」として立つ覚悟をしてこその闘いなのだろうから、「敵」を正確に個体識別したほうがいい。そうでなければ、あなたの発言もまた、「個」として切り出すことのできない「群れ」の「匿名発言」のひとつへと沈んでしまうのではないでしょうか。(「笑点」風の大切り(←これもまたSNSのひとつの特徴的なありかたになりつつあるらしい)で「いいね」という座布団をゲットして終わり、みたいな。)そういうことでいいのでしょうか。

リストvsタールベルク:身体と音響の分離

前のエントリーでも書いたけれど、「リストvsタールベルク」として語り継がれてきたパリのサロンの伝説について、上田泰史さんの綿密な調査にもとづく論考は画期的だと思う。

「タールベルクのアルペジオ」は、中音域に置かれたメロディーを両手で交互に取るわけだから、ピアノが生み出す音響(アルペジオの雲からくっきり浮かび上がるメロディー)は、もはや、「ピアノを弾く身体」(岡田暁生)に対応しない。タールベルクがピアノを弾く姿はスタティックだったと伝えられているそうだが、それは、「趣味」の問題ではなく、身体から分離した音響を奏者自身が観察・コントロールするために必須の構えだったのではないかと思う。

上田さんは、当然ながら慎重に、これがタールベルク単体の「発明」ではないことを断っているけれど、リストとフェティスが論争になったのは、ピアノ演奏に潜在的な可能性としてあり得た道としての「身体と音響の分離」を、周囲からその是非が問われるほどの成果にまとめたのは他ならぬタールベルクだった、ということなのだろうと思う。

翻って、リストは、もちろんそうした可能性を知ってはいたのだろうけれど、タールベルクの登場までは、積極的に探究していなかったのではないか。カリカチュアに描かれたリストの身体を大きく動かすピアノ演奏は、両手が音と一緒に鍵盤上を上下(左右)に駆け回る奏法だったことをうかがわせる。リストは、パリのヴィルトゥオーソ時代の作品をワイマール以後に大幅に書き直しているけれど、書き直し前=タールベルク以前と以後で何かが変わったと解釈できるところがありはしないか。誰かがチェックしてみるといいのではないかと思います。

もし、予想が当たっていれば、ピアノ演奏における「観察者の系譜」(ジョナサン・クレーリー)を語ることができるようになるんじゃないかと思う。

リストは、パガニーニ練習曲の最終版やハンガリー狂詩曲のように「ピアノを弾く身体」が露呈して上品なサロン音楽の範疇を超え出てしまうようなピアノ音楽をワイマール移住以後に書いたわけだが、これは、タールベルクが先鞭をつけたのではないかと思われる「身体と音響の分離」の前に戻る反動ではなく、「身体と音響の分離」というフィルターを通して見いだされたサロン的なものへの対案、近代に特徴的な「invented tradition」と位置づけることができるのではないでしょうか。

(invented traditionというホブズボウムの概念は19世紀後半のヨーロッパから見いだされたものなのだから、音楽に適用するとしたら、昭和期の日本の大衆歌謡(演歌)等に「応用」するより前に、まず、リストの変貌というような19世紀後半の現象で成り立つかどうかを検証すべきでしょう。「近代日本文学」(正確には19世紀後半の日本の小説)に日本の左翼評論家がinvented traditionを見いだそうとするのは、同時代なのでまあいいとして、そういう試みの成功の尻馬に乗り、invented traditionという見方が、ここにも成り立つ、あそこに成り立つ、と時代や地域や社会背景をすっとばしてこの概念をあちこちに「コピペ」して貼り付けるのは、もはや学問ではないだろう。そういう風なハヤリ言葉の濫用が、「歴史」を消してしまうのだと思う。)

一方、岡田暁生が「ピアノを弾く身体」という論を立てたのは、むしろうああいうアングルこそが、ピアノ演奏における「観察者の系譜」を消してしまおうとする復古主義的な反動だと思う。(岡田暁生がクラシック音楽からジャズに転進したのは、身体と音響の分離を断固拒否するための一種の「亡命」に見える。)

もちろん、身体性を消去してピアノ演奏を考えるのは問題だろうし、岡田暁生がピアノ演奏の身体性という論点を印象的に打ちだしたのは見事な業績だと思うけれど、しかし彼の論とは逆に、近代の身体は、楽器演奏においてすら、新しいメディア体験による身体と感覚の分離(その先に「サウンド」概念が見えてくるような)のほうへ向かっている(いた)のではないか。そして現代のピアニストたちは、そのことを身をもって生きているから、岡田流のヴィルトゥオーソ論/ノスタルジックな身体論にのってこないのではないだろうか。

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)

東大生は「誤配」を司る

礒山雅は、音楽ホールのスタッフからのメール(彼を誉める文面であったらしい)を、「その書き方では逆の意味に受け取られます」と添削したことがあるのだとか。

添削された当人は大いに感銘を受けたようだが、細かいところまで気を張りすぎるオーバーワークではないかと思う。

(そういえば、東大美学の先輩にあたる山口修にも、妙に神経質に言葉尻にこだわる癖があった。)

思えば、東大生とは、この島のなかで、彼らの発言がインターナショナルな知識人コミュニティにおける意味(要は学問としての価値)とは別様に受け取られることのメリットとデメリットを運用する存在であったし、いまもそういうところがあると言えるかもしれない。

礒山雅の人生は、彼の発言や振る舞いが「別の意味に受け取られる」ことの恩恵をむしろ上手に活用したのではなかろうか。

それは、むしろ、あまり面白くはないローカルなゲームと見られてもしかたがないと思うわけだが。

反動のレッテルを恐れぬサロン音楽論のしたたかな構え

ショパン、リスト、クララ・シューマン、メンデルスゾーンらは、パリのサロンをスプリングボードとして利用しながらも半私半公の社交界に批判的なスタンスで、この「批判的なスタンス」こそが近代の意味での「芸術」であり、彼らの構えは、「音楽(器楽)の国」として君臨した世紀転換期のドイツ帝国や教会・王党派を押さえ込んだ第三共和政以後のフランス、そしてロシアと東アジアと新大陸が台頭した20世紀の大衆化した新体制によってキャノナイズされたわけだが、その分、彼らの側からパリのサロン/社交界を眺めると、どうしても、かゆいところに手が届かない記述になってしまう。

著者が成功したのは、当時のジャーナリズムの社交界消息記事や回想録等を丹念に読み解くだけでなく、ヅィメルマンのサロンという厚い記述が可能な対象を見つけて、そこに焦点を当てたからだと思う。

しかしその分、オルレアン家(当時の王家)のサロンの輝きというような「共和国フランス」にとってはあまり都合が良くないかもしれない案件が浮上したり(ウィキペディアで調べると、オルレアン家は今も続いていて、ナポレオンの系譜を正統と見なす一派やブルボン家を正統と見なす一派と並ぶフランス右翼(王党派・王政復古派ですね)の支柱のひとつであるらしい)、女性が切り盛りするのが通例であったがゆえにジェンダー論的な関心を呼ぶことのある音楽サロンに関する記述が、当時としては例外的に男性(パリ音楽院教授)の主宰するサロンによって代表されることになってしまった。

東京芸大(明治以来の日本の洋楽受容の拠点)は旧士族の子女が通う学校という一面があったわけだから、王党派や男性音大教授を輝かせる音楽史家の登場は、ひょっとすると、東京芸大の悲願、という面があるかもしれない。

また、もしかするとこういう研究テーマは、フランスでは(フランスでも)火中の栗を拾うようなものだろうから、東アジアから来た日本人だからやれた、ということがあるかもしれない。

フランスの大学に提出する学位論文としてであれば、「ヅィメルマンのサロンの研究」は、「これがサロン音楽(の代表)だ」というノリの概説ではなく、未調査のケーススタディとして受け止められるだろうと思いますし。

著者は、同時に東京芸大からパリ音楽院ピアノ科の研究で学位を得ていて、とてもアクロバティックでしたたかな人だなあと思いました。

パリのサロンについて、知らなかったことを色々教えられました。

でも、ヅィメルマンのサロンの充実は、7月政権時代のパリの代表的な趣味と見ていいのか、むしろ、来たるべき19世紀後半(「ヴィクトリア朝的」と言われるような)の男性共同体的な「音楽イデオロギー」(フランス流絶対音楽論とも言えるようなダンディズム)を準備したのではないか、という気がしないでもない。(東京芸大の前身、東京音楽学校は、まさにそのような19世紀後半の価値観で運用されていたのだろうと思うし、金沢出身でピアニスト金澤攝氏と協力関係にあるらしい著者は、大久保賢と同じ風土から出てきた人なのかなあ、という印象を持ってしまう。)

それから、リストのオーバーアクションになりがちなピアノ奏法(たぶんベートーヴェン流の手を広げてオクターヴを掴む構えで腕をスライドさせる奏法の進化形)とタールベルクの(中音域のメロディーを両手で交互に取るが故に)身体の軸がぶれない奏法(ポリフォニックなオルガン演奏の応用なのではないか)の関係については、フェティスとリストの論争だけでは終わらない鍵盤楽器文化の広がりのなかで考えたい案件だなあと思いました。「オルガンの国」フランスでタールベルクが歓迎されたのは、さもありなん、と思います。

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)

大学教授が関西の音楽ホールをプロデュース

前にも書いたが、恩師谷村晃が日本音楽学会会長を退任する最後の執行部の会合(常任委員会という名前で今もこのしくみは続いているようだ)が阪大であったときに、次年度から海老沢敏の国立音大に執行部が移るというので、引継ぎの意味で礒山雅がオブザーバーとして会合に出席して、そのときの雑談で、礒山は「今夜から北新地に行くんです、はじめてです」と言っていた。1990年初めのことで、おそらく、いずみホールの設立に向けた接待だったのだろうと思う。

当時、谷村晃(や山崎正和)は関西の自治体による新しい文化センターの設立準備に関わっていて、会館後もプロデューサー的な立場で関係していく心づもりだったようだが、これはうまくいかなかった。サントリーの財団の仕事は退官まで無事務めたのだけれど……。

東京文化会館や神奈川県民ホールの例を見ても、自治体による公共文化施設のプロデューサーは民間の「芸術家」に委託するのが座りがよくて、逆に、大学教授(旧帝大のような国立大学出身者が理想)は、民間施設のプロデューサーに迎えると安定する、ということなのかもしれない。

この島の「文化」が、現在のところ、透徹した官僚機構でガチに屹立するナショナルな装置を求めてはいないし、そのような国家から独立して実勢力だけで渡っていく自由芸術家(企業人がその人物に全権を与えようと思うような)は見当たらない、ということかと思う。芸術家は最終的に「国家」の庇護を求めるのが手堅いと考えるし、「国家=行政」は、「芸術家本人がそう言っているのだから」という話法で動く。そして一方、企業人は、メセナと言いつつ、アーチストに直接投資するのではなく、「知識人」(官僚的な資質を持った)に助けを求める。

今年は明治150年だそうだが、少なくとも昭和期まで、この島では官僚機構に人材や知識・情報を集約されていて、民間とははっきりした落差があったから、パブリックな場で「文化/芸術」を安定して運営するには、「国立/官僚」と「民間」をバランス良く組み合わせる必要があったんだと思う。

礒山雅が実際に音楽ホールをプロデュースしたのは平成期だけれど、松本深志から東大というキャリアや追悼号からうかがえる振る舞いには昭和の大学人の臭いがする。そのような「役割」を自ら選び、演じた。

いずみホール広報誌の礒山雅追悼号をみて、そう思った。

(またこれは、「国家=行政」という装置を使う場合であれ、企業人としてであれ、この島の「市民」に「芸術家」を直接コントロールする知恵も意識もなくて、「国家=行政」のトップとして芸術家自身が「政治家」になるか、さもなければ、芸術家への応対という煩わしいことを「知識人」に丸投げしがち、ということでもあるだろう。芸術家は政治家に向いているとはあまり思えないし、知識人は芸術家のお守り役ではないはずだが。)

あと、実務担当者たちが礒山を「人生の師」のように仰ぐ態度は、朝比奈隆を特別な位置に据えていたかつての大阪フィルに似た「大阪のチーム」という感じがする。

大阪人は、東京の知識人を振り向かせることを「文化的な価値」と見積もるし、東京の知識人をトップに据えることを誇りに思い、そのもとで働くことを意気に感じる。たぶんそういう組織の力学があるんだと思う。

(私は生粋の大阪人/関西人ではないので、その心性はよくわからないが、「企業・会社」というのはややこしそうなところであることだなあ、とは思います。郊外から都市へ「通勤」している人たちのほぼすべてがどこかの「企業・会社」に属している、というのは、自動車という危険な道具の使用免許がこれほど多くの人たちに与えられているのと並んで、現代の都市の奇観だと思う。)

そして、改めて公演写真を見ると「こういう人たちも来ていたのか」と驚きますが、バッハを中核に据えて古楽/HIPをキャッチアップするところが、「音楽評論家礒山雅」の「らしさ」だったんでしょうね。

CDの劣化、オーケストラにとっての「シューベルト体験」

メロス四重奏団(ロータス・カルテットの師匠ですね)によるシューベルトの全集を講義で使おう思って久しぶりに棚から取り出したら、盤面が劣化していてショックを受けた。

が、同じ音源をiTunes Storeですぐに買えることがわかって、もうCDの時代じゃないんだなあ、と再びショックを受けた。

でも、「音源」はこうやって別の「メディア」に移し替えられるけれど、ジャケットや添付文書等は消える。

ウェストミンスター復刻板のシューベルト弦楽四重奏全曲の解説を1995年に書いたことがあって、さっき読み直したら我ながら頑張っていいことを書いていたのですが、こういうの(や演奏会のプログラムの解説)は消えていきますね。

尾高忠明と大阪フィルのベートーヴェン交響曲全曲演奏がスタートしたので昨夜1回目を聴きましたが、そのときにもシューベルトのことを考えてしまいました。

やや誤解していたようで、1番を聴いていると、どうやら、尾高さんは透明ですっきりしたアンサンブルを目指しているらしいと思えてきた。でも、プロメテウス序曲の冒頭が力任せになったり、後半でおなじみのエグモント序曲がはじまってしばらくすると、おそらくリハーサルで色々打ち合わせたのであろうことがすっ飛んで「いつもの大フィル」の音になって、そのまま、アンサンブルが混濁したまま第2番に突入した。

指揮者とどういう打ち合わせをしようが本番は「オケのペース」に引っ張っていく、というのはプロのオーケストラではよくあることのようですが、そうやって引きずり込まれた先にある「大阪の流儀」は、もうさすがに今は通用しないものになっていると思います。

考えてみれば、大阪フィルはベートーヴェン、ブラームスで、あとは大編成のブルックナー、マーラーをレパートリーの核にしている。

いきなりピリオド・アプローチというのはないだろうけれど、90年代から室内管弦楽団等がさかんに取り組んだシューベルトは、ほぼ大阪フィルのレパートリーにないんですよね。

アバドの80年代のシューベルトへの取り組みなどがあって、同じ頃からノリントンやブリュッヘンなど古楽系の指揮者たちもシューベルトやメンデルスゾーンに取り組んでいて、東京にはブリュッヘンが指揮者として招かれたり、東京交響楽団でスダーンがシューベルト、シューマンに集中して取り組んだ。大阪でも、90年代終わりのかなり速い段階で本名徹二と大阪シンフォニカー(現大阪交響楽団)のシューベルトが(私は間に合わなかったけれど)話題になっていたと聴きます。

朝比奈隆の晩年の周囲の熱気に飲まれて、このあたりの動向へのキャッチ・アップがないことのツケは、今となっては大きいかもしれない。

弦楽器の若い人たちとか、こういう新しいタイプの古典・初期ロマン派の演奏がわかっているメンバーがオーケストラにはいるはずだけれど、団内で有力だったり、本番で大きな音が出せてしまう楽器たちに残っている「ベートーヴェン/ブラームス/ブルックナー」派に押されてしまう、というようなことでしょうか?

端的にハーモニーが濁る。現状では、むしろ、デュメイとやったときの関西フィルのほうがいい響きになる。

ポスト冷戦時代のシューベルト

週末にシューベルトの「未完成」についてお話をさせていただく予定になっています。

色々考えて、使いたい演奏を並べてみたら、ミンコフスキーのピリオド・アプローチをベースにして、(シューベルトを演奏しているわけではないですが)バーンスタイン、クライバー、ムーティ、ガーディナー、メッツマッハー、パーヴォ・ヤルヴィの演奏(映像)の断片を組み合わせながら話を進めることになりそうです。

ポスト冷戦時代、と言うと大げさすぎるかもしれませんが、オーケストラの歴史のなかにシューベルトを位置づけることと、20世紀から21世紀の転換期に指揮者たちがオーケストラをどういう風に切り盛りして、歴史の舵を切ったのかということの自分なりの総括は、切り離せないように思っております。

素材を探すなかで、80年代にアバドがヨーロッパ室内管と取り組んだシューベルトを聴いて、やっぱりこの人は凄いと思ったし、大学院時代にベルリン・フィルのアバドのことを酒の席で渡辺裕先生と「中間管理職のサラリーマンみたいだ」とdisったのは申し訳ないことだったと反省しました。今回この演奏は使わないと思いますが。(そしてベルリン・フィル時代のアバドは、それ以前の切れた演奏とも、晩年の自在な演奏とも違っていて、聞き直してもイマイチだと思いましたが。)

それにしても、バーンスタインが提唱した音楽祭が札幌で軌道に乗って、メッツマッハーやミンコフスキーやヤルヴィが東京や金沢のオーケストラに迎えられているのだから、世紀転換期のこの島は、クラシック音楽に関しては、「失われた20年」というより、むしろ、成功裏に獲得したことが色々あったと見ていいのではないでしょうか。

(郊外で家庭と学校を往復しているだけだと気付きにくいことかもしれませんが。)

モーツァルトとロッシーニ:レチタティーヴォの唱法、「緩から急へ」の起源

朝日新聞が大阪国際フェスティバル名義でやったロッシーニ「チェネレントラ」は藤原歌劇団のプロダクションをもってきたもので、巨大な本から人物たちが出てくる演出についてはひとしきり何かを言えるのでしょうし、脇園彩が出るのが注目、ということで普段の大阪のクラシックコンサートとは違うタイプの人たちが集まっている雰囲気の客席でしたが、そのあたりは興味がないので別の話を書きます。

フォルテピアノのコンティニュオが意欲的で、歌から語り、語りから歌への和声・調のつながりを意識したソルフェージュのお手本のような演奏だったと思いますが、こうなると、コンティニュオの流れにきちんと乗ることができる歌手と、乗れずに自分のパートをただ丸暗記して歌っている歌手の違いがはっきりわかる。

そして、自分のパートを丸暗記して、なおかつ、楽譜上の強拍にパンとはじくような強弱アクセントをつけて歌うと、ほぼ、昔ながらのスタイルでモールァルトのオペラを歌っている感じになる。

たぶん、このスタイルは19世紀のセッコがなくなって以後のオペラのレチタティーヴォの歌い方で、私たちがモーツァルトをこうした唱法で聴き慣れているのは、モーツァルトのオペラが20世紀に復興したときに、レチタティーヴォの唱法に19世紀のスタイルが紛れ込んでそのままになっていたからではないかと思う。

ただしややこしいことに、ロッシーニはモーツァルトのスタイルで作曲しているように見える。

ロッシーニはイタリアのオペラ作曲家だけれども、「ドイツの器楽」がヨーロッパで市民権を得て以後の「ポスト・モーツァルト」世代であって、オーケストラはかなり雄弁だし、ダ・カーポ形式に変わって最後を煽り立てるコンサート形式のアリアを採用している。「ドイツの器楽」を踏まえることなしにはオーケストラを書けなくなっているし、オペラ歌手たちは、劇場だけでなくコンサートの舞台で喝采を浴びることを覚えてしまっているのだと思う。

(「緩から急へ」のレトリックが19世紀初頭の器楽コンチェルトとオペラ・アリアの両方に見られるけれど、これはオペラ(劇場)の手法がコンサートで採用されたというより、コンサートという新しい環境で育まれた手法が劇場に取り入れられたと見た方がいいんじゃないか。コンサート・アリアの成立と発展の歴史をちゃんと調べないと確かなことは言えないけれど、劇場の舞台と観客の関係は、公開コンサートの成立と普及によって18世紀末から19世紀に転換したのではないかと私には思える。そしてコンサート・アリアは、そのプロセスをたどるための素材として使えるように思うのです。)

19世紀以後の演奏習慣を逆流させないやり方でモーツァルトとロッシーニの関係、異同を見極めるには、まだもう少し時間がかかるのかなあ、と思う。現行の「ロッシーニ・ルネサンス」は、そういうことを考えるための出発点ではあっても、ロッシーニ上演の結論・決定版ではないかもしれない。

ロッシーニは歌えるだけで立派なことで、バレエのプリンシパルやフィギュア・スケートの金メダリストに感嘆するような聴き方をしてしまいがちだけれど、レチタティーヴォを含めて、ドラマとしての取り扱いは簡単ではなさそうに思う。

家庭とポストモダン

21世紀への転換期の日本でポストモダンが流行ったのは、ポストモダンと呼ばれる運動の実質が1960年代の新左翼なのだから、その子ども世代が親たちの文化資本を元手に打って出た(「失われた20年」世代にはそれくらいしか文化資本の元手がなかった)という核家族マイホーム主義のちょっと残念な末路なのではなかろうか。

家庭の集合体のような「学校」の外部でもっと色々なことを学ぶことができるような社会であればよかったのに、「街」でも「村落」でもない郊外に家を建てて、そこで子どもが育つ体制(子どもは昼間を学校、夜を家庭というように、ずっと郊外で過ごすわけですね)が確立してしまった20世紀の終わりから21世紀の初めのこの島は、そういう風になっていなかったということなんでしょうね。

フィクションとヴァーチャルの混同、神話と歴史の混同、欲望と自由の混同

20世紀から21世紀の転換期に出てきたどことなく胡散臭い文化論を総括するとしたら、この3つが手がかりになるんじゃないかという気がする。

たぶん、フィクションとヴァーチャル、神話と歴史、欲望と自由は欧米語では別の文脈・系譜を背負った言葉だからそう簡単に混同されないと思うのだけれど、これらの言葉を翻訳語として現代日本語に取り入れて使うときに妙なことが起きた。

でも、来るべき21世紀は言葉を粗末に扱うバカの時代である、ということにはならないと思うんだよね。この島が21世紀に転換する数十年間が珍妙であったとしても(そしてそこで生成された「コンテンツ」がグローバルに「ネタ」として面白がられている実態があるにしても)、それが世界の先端なわけではない。

19世紀のオペラ、20世紀の映画がそれぞれの時代に特徴的な文化であったということまでは言えるだろうけれど、フィクションとヴァーチャルの混同、神話と歴史の混同、欲望と自由の混同を解きほぐさないままの曇った瞳で「21世紀に何が来るか」を予測しようとしても、たぶん、間違うだろうと思うのです。

(「ゲームの時代が来ている」のかもしれないけれど、混乱を解きほぐした先で立ち現れる「ゲーム的な何か」は、いったいどういう姿をしているんでしょうね。)