2016-10-01から1ヶ月間の記事一覧
森羅万象を記号に置き換えて操作するのは、人間(そしておそらく高等生物全般)の有力な武器で、20世紀の記号をめぐる議論が先鞭を付けた情報社会のヴィジョンは、記号操作の可能性を極限まで押し広げることで人類を新たなステージに高めよう、という話だと…
声とピアノの関係に画期的な変化をもたらしたのが近代ドイツ歌曲だとされている。聴き手は歌曲の声とピアノ(器楽)を両方同時に聴くことができるわけで、聴き手こそがこのような声と器楽の関係(の変化)の立会人(耳の問題なので「目撃者」とは言えないか…
そういえばこの概念を駆使する音楽論は、まだ日本語では書かれていないかもしれませんね。戦後西ドイツの音楽研究のこの島における受容の積み残しかも。散文は、まだ生まれたばかりである。
シューベルトもチャイコフスキーも、秘密を告白するリリカルな音楽が、劇音楽の手法を借りてなされるのはどういうことなのだろう。西洋音楽において、何故に一人称は舞台のモノローグの様式になるのか。たぶんそうではないポストロマン主義をさぐり当てるた…
「世界の秘密を私だけが知っている」のヴァリアントとして、「音楽のかけがえのない核心を私だけがわかっている」みたいな心性に陥るケースが音楽にはあるようで、そういうリスナーの心性を狙い撃ちする手法は20世紀のポピュラーソングまで続いているのかも…
そういえば去年の5月、前回シューベルトの歌曲にまつわるお仕事をさせていただいたときに、私はこういう風に書いたのでした。 シューベルトの Freundkreis の特性について、私は Walther Dürr が Reclam の概説書に書いている文章がコンパクトでよくまとまっ…
阪大の学生時代は、私自身もそうだし、恩師谷村晃も岡田暁生も、分析の手ほどきを受けたショパン研究のシルヴァン・ギニャールさんも、周りがピアノを弾く身体だらけだったかもしれない。今は、関西二期会のプリマが学院長である女子大やオペラハウスのある…
堀朋平さんの本を必要があって再読。信時潔から中田喜直(明日、演奏会があります)、そしてシューベルトと進む「歌曲の年」になりつつある。買ってすぐに大急ぎで読んだときにはわからなかった(読めなかった)のだけれど、シューベルトの音楽語法 → 詩(人…
しかし、「何を」と「どのように」の両方が揃わないと、良い論文にはならない。修士もしくは博士という学位を資格としてゲットする場合、良い論文であることは二の次なのかもしれないが……。そして世間は、学位持ち=良い論文を書ける人、と期待するが、実際…
何をやってもうまくいかない(実際にそうなのかどうかはともかく自己認識ではそうである)というような状態をスランプと呼ぶのだと思うが、何かを生活の糧にしようとしたら、どこかでそういう状態を切り抜けるその人なりのやり方を身につけてから世に出るの…
ルドロジカルな文献の群れに照らすとどう言えるのか私にはよくわからないが、毎日歩くことを動機付けるゲーム(手元のラインナップは各々抜かりない感じになってきて満足)は、ストレスフルなデスクに24時間人を縛って、言葉という名の拡張現実の応酬で互い…
全くの個人的な印象ですが、昔の日本のオケは、指揮者が振り間違えたら、ガタガタになって、あとで楽員が指揮者のことをボロクソに言うような団体だったが、今の日本のオケは、瞬時に全員が振り間違えを察知して、何事もなかったように演奏を続ける(後で「や…
精神分析とは対面する相手との相互的な転移を通じて何らかの対策を見出そうとする臨床の技法であり、目の前にいない誰かの心を忖度したり、総括して自己完結的に納得したり、ましてやその誰かについて、こいつは〇〇だと周囲に言いふらす新種のプロバガンダ…
2016や2017は、ポケモンの cp としては今やそれじゃあジムで勝てない感じになっているが(カイリューは本当にどんどん強くなりますね)、西暦としては元号との換算がややこしそうに切りが悪く、でも、この秋はますます「平成の終わり」っぽい雰囲気がありま…
地方出身のエルガーが落日の大英帝国の作曲家だとしたら、ロンドンでウェッジウッド家と姻戚関係を結んだヴォーン・ウィリアムズは「普通のナショナリズム」による英国の再出発を模索した、とされるようだ。しかし民謡に根ざす「普通のナショナリズム」が、…
「夏の思い出」「めだかの学校」「雪の降るまちを」の中田喜直は、南洋で飛行機(戦闘機で前線に出ることはなかったようだが……彼が赴任した戦争末期に前線に出るというのは、すなわち特攻だろうから、そうなると生きていないが……)を操縦していた陸軍少尉が…
マリインスキー劇場のエフゲニー・オネーギンに行ったら休憩が2回それぞれ30分ずつあって、その間にお隣の平安神宮の参道でスカートをはいたエビに出会った。(拡張現実)
1.自分ではいいと思わなくても、他人がそれをいいと思っているであろう事柄を見事にやり遂げることは、むしろ、日常的によくあるのではないか。そのような行為ができなければ、模倣が成り立たなさそうだもの。(なんで他人はこういうのを喜ぶのかねえ、と、…
巨大な「同意」へと観客を編成する装置だと言えなくもないワーグナーの楽劇が、作者の生前から歿後150年が近づこうとする現在まで、毀誉褒貶の震源であり続けているのだから、人類は、ちょっとしつこすぎるんじゃないかと思うくらい芸術について自由に物を言…
中田喜直の歌曲である。楽譜出版社の紹介文にその引用のことがはっきり書いてあるので、譜面を取り寄せて眺めたのだが、ピアノパートにそれらしい音符の並びは見えない。どういうことだろうと拾い弾きしても、まだわからない。ガセネタだったのだろうか? そ…
年長のキャラクターたちが続々と死んで消えていく大坂の陣前夜だが、真田丸での人の死に方には3つのパターンあって、幻影を見ながら死ぬ芝居をカメラに収録される一群の人たちと、もう一方で、在りし日のスナップ写真のような映像に有働さんのナレーション…
私の乏しい経験の範囲では、責任ある立場を引き受けている人は常識があってちゃんとしており、いまいちな人がトップに座っている組織や団体はやっていることもいまいちだったりするように思うのだが、逆説を弄んでトリッキーな人生を歩むアカデミシャンの周…
ないことの証明は悪魔の証明だと言われるが、そこにいないこと、行かないことに対して説明すべき責任を負う、という発想は、つながりが過剰な悪魔の倫理かもしれない。不在は単なる不在であり、例えば後で話を聞いて、行けば良かったと思ったら次の機会に行…
右と左の色分けはもはや意味をなさない、と宣言したとしても、裏と表という区別に置換しただけなのだとしたら、それは、いわゆる役人的な言い換えのご都合主義の疑いが残るかもしれない。
表と裏、という「紙の文化」に特徴的かもしれない語彙・発想の限界については、前に、斉藤桂氏の本についての感想として書いたことがあるけれど(だから、誰かが「表と裏の記号論」を一度表象文化論として本格的に論じてもいいんじゃないかと思ってはいるけ…
「戦後の音楽」というと、戦前からのモダニスト(伊福部、深井、諸井など)から1930年代生まれの前衛のスターたち(黛、武満、三善など)への鮮やかな世代交代と価値転換が話題になる。片山杜秀の仕事は、長木誠司らが先行する評論・研究から継承した前衛音…
どこかのまとめサイトで「アーカイヴ作りにしかるべき予算と専門知識が必要なことは当たり前ではないか」というコメントが付いたそうだが、ゲームのような学術研究領域としてまだ十分に認知されていない対象だけでなく、既にしかるべき機関が所蔵している貴…
日本政府のような総合的な統治機構のことはわからないが、日本音楽学会に関して言えば、歴史的な経緯から最初の30年くらいは本部事務局と学会誌編集を東京藝術大学楽理科(と音楽之友社)ががっちり握る形で運営されていた気配がある。私が院生で入会した198…
文科省から自分の所属している大学・学部がどれくらいの補助をしてもらえるかどうか、という金勘定に帰着する議論は、学問の大義とはほとんど関係がない。筋の悪い議論を仕掛けられて、その土俵で「学問の大義」を弁じるのはやめたらいいのに、と、世間は思…
たとえ国家を挙げて理想的な環境を整えたとしてもこれ以上勉強しそうにないタイプの「人材」が相変わらずの尻馬論法(ノーベル賞学者も言ってるんだから日本の大学行政はダメなんだ云々)にしがみつくに及んで、ノーベル賞の政治的使用価値は、もはや限りな…