ドイツの「首都圏」、あるいは知識と経験の関係について

ドイツ連邦共和国(BRD)はドイツ民主共和国(DDR)と再統一されるまでラインラントに首都を置いていたわけだが、ドイツ連邦共和国の偽善的国際路線を批判する「音楽の国」三部作は、ラインラントの都市というより村に近い集落の規模や、その村々とパリとの近さ、ローマ帝国時代の痕跡等々を、足で歩いて経験する以前に書かれ、完成されてしまった書物であったことが、2016年の夏になって、明らかになりつつあるようだ。

(ヨーロッパを何度も訪れていてもドイツを細かく回ったことはない、という人は少なくないようだ。ドイツにいると、滞在している町が個々には小さくてすぐに飽きてしまうし、道路・鉄道が整備されて移動は楽だから、あっちこっちへ動き回ってしまうわけだが。そしてこの、外から見たドイツと中で経験するドイツの落差が、ドイツのややこしさとも関わる気がするのだけれど……。)

ことほど左様に、知識人(に限らずヒト全般がそうだろうか)においては、文物で得た知識をあとから経験で補填するケースがあるわけだが、そのように、知識を経験が後追いして形成された人格が「野球経験のない野球監督」を批判する(あたかも、経験に裏打ちされない知識は価値が低いかのように)という振る舞いを私達がどのように受け止めればいいのか、それはまた、別の話ではあるだろう。

知識人のキャリアにおける知識と経験の関係と、知識人を雇用する組織の事務管理部門の人材における知識と経験の関係は、同列には語り得ないだろうから。

(大学人は研究者の自治を求めたがるが、芸術家の自治による芸術学校が何かと問題含みなのはよく知られた話である。)

ともあれ、19世紀ドイツは、そのような Der Rhein をロマンティックに歌いあげながら、廃墟の脇に巨大な工場群を築いたわけで、それが「音楽の国」ですよねえ。

おそらく重要なことは、知識と経験のどちらが先であるべきか、ではなく、知識が経験をエンパワーしたり、経験が知識を適切に軌道修正できるフィードバック回路をいかに健全に構築するか、ということだろう。

そして、彼が知識人組織の在り方についてどのような見解を有しているか、というのとは別の問題として、文物の知識によって得られた「音楽の国」仮説は、経験によって批判的に検証されてしかるべきであろう。

人格は人格の問題として、業績は業績の問題として、別々にそれぞれ吟味すればいい。混ぜるな危険、である。

(人格と業績を最も巧妙に混ぜたがるのは、今回もそうであるように、その人格自身であるところがややこしいわけだが、それは、作者と作品をめぐる古典的な問題に過ぎないとも言える。「作者」が生きている間は、何かと面倒くさいのである。とりわけ「作者」がどんどん偉くなったり、偉そうになっていく場合には。)

[たとえば、「偶然性」のジョン・ケージはペータースで厳格に著作権を管理していたわけで、やっぱり、生きている「作者」は消去できない。生きてそこにいるからね(笑)。「作者」がキノコの胞子であるかのように装うトリックは、21世紀にも有効なのか、私には疑問だな。むしろ、キノコの胞子のような個体を上手に使う21世紀のドイツのほうに興味がある。]

「シン・ドイツ」の起源

ナショナリズムとインターナショナリズムの矛盾をエネルギーに変換するのが近代ドイツという表象(古代・古典時代が存在しない辺境地域に「神話」を語りうるかは一考を要する問題だろう)だとしたら、21世紀のドイツは、アングロ・サクソンやその子分たちが何を言おうと平然としている中欧のタフな国というイメージがある。(強面の物理学者が柔道八段の元KGBと渡り合う図ですね。)

そのような「シン・ドイツ」(流行りに乗った表記にしてみた)の起源は、近いところでは案外、敗戦後の西ドイツにあるんじゃないかと思うのだが、それじゃあ、ドイツ連邦共和国という表象の来歴をどのように記述したらいいか、となると、「近代ドイツという表象」を括弧に入れて、ユーラシアの歴史をもう一回やり直さないといけなくなるかもしれない。

ドイツ連邦共和国で断トツに偉い音楽学者は、おそらく民族音楽学(世界音楽?)のヴァルター・ヴィオラだろうから、まあ、それくらいのスケールの話になっても不思議ではなさそうですね。

ヴィオラとは別に、かつてケルンには東洋音楽研究のボスのような学者がいて、その人を頼る留学生がいたようだ。ヴィオラは立派な学者だったけれど、ドイツの大学現場の民族音楽学教員は、1990年代になっても、フィリピンにしか行ったことのない人が日本音楽を講義するとか、全般的には、どうかと思うところもあったらしく、留学生たちがよく文句を言っていた。ケルンのボスは、そういう連中を束ねていたのでしょう。

ライン川の少し上流のマインツ(大聖堂があるが、20世紀に自動車メーカーOpelの城下町になり、ブルーワーカーがたくさん住んでいるところが対岸のカジノとオペラ劇場のあるリゾート、ヴィースバーデンとは好対照)にはドイツ中央放送ZDFやドイツの学術会議相当の機関があって、北米流の新設校として創られたマインツ大学で音楽学者のマーリンクが出世したのは(=国際音楽学会の会長になった)、そのあたりのコネクションとも何か関係があったのかもしれない。あれは政治家だ、と学生達が噂していた。

(大崎滋生と西原稔はマインツでマーリンクに受け入れてもらっていた。)

地方分権は、地方の小ボスがいきなり連邦の中枢に食い込めるルートを作ることでもあり、所詮は人間のやることですから、もちろん、バラ色に良いことづくめというわけにはいかないようではあります。それを含めての「シン・ドイツ」だから、やっぱり「近代ドイツの表象」とは色々ズレる。

マインツでは音楽学が歴史学部に属し、これとは別に、音楽実技を学ぶ音楽学部があった。音楽の高等教育が、コンセルヴァトワール(Hochschule)ではなく、大学(Universität)の学部として行われていたわけで、これも、昔からのドイツの大学とは違っていた。チェリビダッケは、この音楽学部で指揮者のマスターコースを担当していた。(井上道義もそこで学んだことがあるようですね。)ミュンヘンやベルリンの Musikhochschule には、彼を受け入れる場所がなかった、ということでもあるのかなあ、と思う。

そういうラインラントが西ドイツの「首都圏」だったわけだ。

(そういえば、戦後西ドイツの人文学の業績として話題になるヤウス、イーザーの受容美学も、コンスタンツに創られた戦後の新設大学が拠点だったようですね。「近代ドイツの表象」とはズレる西ドイツ的なものは、それと認識されずに、結構、私達の周囲に生きているのかもしれません。日本でも学生運動が華やかだったころには、68年のドイツの学生運動とか赤軍とか、「ドイツの戦後」がいかに「近代ドイツの表象」と違っていたか、むしろ、色々情報が伝わっていたに違いないので、今さらもう一回この話からやり直すのか、という感じではありますが。)

西ドイツ時代には息を潜めていたエリート主義的な「近代ドイツの表象」が対外的なシンボルとして息を吹き返す一方で、復興と経済成長を牽引していたはずの地方分権民主主義的な「シン・ドイツ」が、あたかも野蛮なゲルマン魂であるかのように不可視化される、という(他人事ではないかもしれない)捻れ・反転が、ひょっとすると、21世紀の統一ドイツにはあるかもしれない。

学校の大人たちと学校の子どもたち

知識と経験の性急な合一が「リア充」として祝福されたり、知識に邁進する人々が、陰でヒソヒソと、経験を誇示する人々の悪口を言ったりするのは、成人版スクールカーストなのかもしれない。

とはいえこれは、大人が子どもを模倣する未成熟な状態(近代日本は○○歳だ、みたいな)ではなく、平成の子どもたちが平成の大人たちを模倣した状態のパースペクティヴが転倒してそう見えているのだろうと思う。

(井上雅人氏は、元役人で現在は何々大学の××氏のかくかくしかじかの講演は、以下の点に疑問があった、と、名前を挙げて具体的に議論をなさればいいのに……。現場の教員は、個人の「お気持ち」として、文科省に不満が色々あります、と表明されても、大学は国民統合の象徴や国家の象徴ではないので、周囲は何もやりようがない。)

楽譜のヴィジュアル

ペータースの古い版だと、ドビュッシーのプレリュードがおよそフランス音楽に見えない。レイアウトとか音符の大きさや間隔とか、ちょっとしたことの積み重ねで、楽譜の「見た目」は随分違ってくるようだ。

3月に、大阪音大の吹奏楽がティーダ出版の新しい楽譜を使って大栗裕の大阪俗謡による幻想曲を演奏したときには、井上道義が丁寧に楽譜を読み込んで指揮していたこともあり、曲の面目が一新された印象だった。

昨日は沼尻竜典の指揮、京響で三善晃のピアノ協奏曲を聴いたけれど、全音の楽譜は十分にメンテナンスされているのだろうか。老舗の出版社には、Finaleのデフォルトに頼るのではない楽譜作りのノウハウがある(あった)に違いないと思うのだけれど……。

この曲は、1960年代の日本のオーケストラを彷彿とさせる骨張ったリズムではなく、読譜が困難ではあっても美しい響きの瞬間があちこちに含まれていそうな気がしたのだが。

非・政府的領域

連邦制でまず顕在化するのは、反政府的ではないけれども非政府的な領域ではないだろうか? そのような領域を何らかのイデオロギーによる階層秩序で制御するのは、民主的ではなかろう、と私は思う。知識人であろうがなかろうが、リベラルであろうがコンサバであろうが、階層秩序が好きな人とは、あまり話が合いそうな気がしない。