岡田暁生「ピアニストになりたい!」(春秋社)というトラウマ本ではなく、岡田節人×岡田暁生の親子対談本を読みたい!

昨年秋に出た本らしいのですが、昨日知り、早速読みました。

ピアニストになりたい! 19世紀 もうひとつの音楽史

ピアニストになりたい! 19世紀 もうひとつの音楽史

岡田さんが、これまで書いてこられたピアノ演奏論を一冊にまとめた本。今まで断片的にしか開陳されてこなかった思想の全体像が遂に明らかになった長年の研究の集大成……かと思いきや、既存の文章をつなぎあわせた内容で、全体を通読できるようになったことで、かえって論旨の危うさや研究の基礎部分への不満が募ってしまいました。

ひとつは資料的なこと。

あとがきに「ありとあらゆる資料を見て回った」とありますが、注釈などを見るかぎり、参照されている文献はドイツ側のものがほとんどで、パリのサロンや音楽院については、フランス側の資料を直接調べているわけではないようにお見受けしました。

ドイツの音楽家や音楽ジャーナリズムにおけるパリ情報の記事は、19世紀のピアノ・ブームに関する既存の研究で紹介されている内容を越えていないし、各種練習器具については、渡辺裕の「音楽機械劇場」と同工異曲の印象を拭えない。

音楽機械劇場

音楽機械劇場

とりわけパリのサロンについては、そこへ呼ばれた音楽家や、行ってはみたけれども場の雰囲気になじめなかったドイツ人旅行者の記述を鵜呑みにしていて危険、と思いました。実際にサロンを切り盛りしていた貴族やブルジョワたち、それから、サロンのホスト役であったり、楽器を音楽家から教わったりする女性たちに関する資料や記録を丹念に拾っていかないと、サロン研究は先へ進まないのではないかと思います。

音楽サロン―秘められた女性文化史

音楽サロン―秘められた女性文化史

例えば日本の遊郭に関して、これを「悪所」として批難する論調と、逆に芸道の母胎となる「パラダイス」として美化する論調が入り乱れて、芸奴さんや遊女さんについて、なかなか冷静で実証的な議論が進んでいないようなのですが、これと似たことがパリ19世紀の成金サロン研究にも起きているように思います。岡田さんが愛憎半ばする視線で語るパリのサロンのお話は、西洋版の「江戸幻想」(@小谷野敦)という感じがしました。

江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼讃論を撃つ

江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼讃論を撃つ

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それから歴史解釈の理論的な枠組みとして、岡田さんはピアノ学習における「分解・反復・強化」という発想に着目して、この発想の起源をスミス「国富論」やフーコー「監獄の誕生」を引きつつ啓蒙主義に求めるわけですが、岡田さん自身も認めておられるように、スミスやフーコーの「分解・反復・強化」に相当する発想は18世紀的なものであったはず。(スミスの著作は18世紀後半に書かれ、フーコーはそのような思考法を18世紀のものとして見出している。)

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

時間差が気になります。呪文のようにエクササイズを繰り返す19世紀の「ピアノ学習狂詩曲」は、18世紀的な発想を、おそらくもはやそれだけでは対処できなくなっていたはずの19世紀の現実に適用する機能不全の兆候であった、そう診断してはいけないのでしょうか。機能不全から派生する悪夢のような光景に対して、「微苦笑を伴う密かな親近感と愛情を感じる」(あとがき)というのは、いかにも知的でシニカルな都市生活者っぽくはありますが、あまり事態を好転させそうにないですし……。

フロイト全集〈17〉1919‐1922年―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

フロイト全集〈17〉1919‐1922年―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

[追記 2009/6/26]それから、この本では、しばしば19世紀の「ピアノ学習熱」が、「強化」というキーワードが示唆するようにパワフルでガンガン弾く演奏のイメージと結びつけられています。でも「パワフル/ガンガン」のピアニズムは、19世紀というより、20世紀ソ連のマッチョなアスリート系ピアニスト(エミール・ギレリス以後の)にこそふさわしい形容ではないか。(岡田さん自身、しばしば朝日新聞で旧ソ連系ピアニストのマッチョぶりに言及しておられますし……。)著者のなかで、19世紀のエクササイズ熱と、20世紀ソ連のピアノ・アスリートのイメージが混濁しているような気がします。私は、両者が本当に似ているのかどうか、19世紀に対して、「マッチョなアスリート」のイメージが適切なのか、判断を保留したいと思っています。

それから、私がこの本に関して一番気になっているのは、ドイツ人のパリ・サロンへの(愛憎入り交じった)まなざしの紹介ではじまって、ピアノを学んだ良家の子女が20世紀にタイピストに転身したというキットラーの指摘の紹介で終わるこの本のストーリーが、Andreas Ballstaedt, Tobias Widmaier "Salonmusik" (Beihefte zum Archiv fuer Musikwissenschaft XXVIII), 1989を踏まえていると思われるのに(私はこの博士論文を岡田さんご本人から紹介されたので、岡田さんがこの論文をご存じなのは間違いない)、この先行研究への言及がないことです。

端的に言ってしまうと、「ピアニストになりたい」という本は、Ballstaedt/Widmaierの博士論文のプロットに、AMZのピアノ練習器具関連記事の調査結果を接ぎ木した内容になっています。先行研究への依存度の高い書物が、同じ著者によるオリジナル度がはるかに高いモーツァルト論(「恋愛哲学者モーツァルト」)を差し置いて芸術選奨新人賞を得てしまうのは、ちょっと不思議な選考だな、という気がします。[追記おわり]

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あとがきで少し言及されていますが、岡田暁生さんは、幼い頃にどうやらスパルタ式のピアノ・レッスンを受けたことが一種のトラウマであった時期がおありになるようです。今では19世紀のピアノ学習熱に対して「微苦笑を伴う密かな親近感と愛情を感じている」心境に到達されたそうですから、少なくとも岡田さんご本人にとっては、長年のご研究がトラウマを癒す効果を発揮した、ということになるのでしょうか。

もし治癒されたのであれば、次はいっそ、「岡田節人×岡田暁生の親子対談、昆虫を愛し、音楽を愛す」とか、そういうファミリー本を企画して、そこで、ご自身の幼年時の体験をお二人で振り返られることを希望します!

アルマ・マーラーに恋した生物学者―生命の響き

アルマ・マーラーに恋した生物学者―生命の響き

バラの騎士の夢

バラの騎士の夢

文化勲章生物学者と気鋭の音楽学者のエスタブリッシュな父子対談が「微苦笑を伴う秘かな親近感と愛情」を醸し出すことに成功すれば、あるいはごく通俗的な意味で読者の関心を呼ぶ書物になるかもしれず、「ああ、岡田さんのトラウマは見事に解消されたのだなあ」と多くの人が安堵できることでしょう!

「あとがき」によると、岡田さんは、今やご自身が「ものを書く人間」という自己認識をお持ちのようなので(これはいわゆる「物書き」の意味に受け取ってよろしいのでしょうか、わたくしは普段の肩書きを愚直に信じて、今も岡田暁生は第一義的に「音楽学者」なのだと思っていたのですが)、「ものを書く人間」として生きていかれようとするのであれば、やはり一度くらい、そのようにして「自分」をさらけだす企画をおやりになってもいいんじゃないでしょうか。

(なお、以下ごく私的な思い出話になりますが、岡田暁生さんご本人から、「スパルタ式ピアノ学習」への敵意を剥き出しするようにしてピアノの猛特訓を数ヶ月していただいた大学院生時代は、あの経験がなければ、わたくしがピアノという楽器について本気であれこれ考えることはなかったでしょうし、「微苦笑」など紛れ込む一切の余地なく、わたくしは、心より、「真顔」で感謝しております。)