武士道vs旦那芸、作曲家の「邦楽の素養」を監査する

大学院時代、昼間自宅にいることが多かった頃にやっていたCX系のメロドラマ「夏の嵐」で、敗戦後、華族の海軍大将(高木美保のお父様役)が、自死する前夜に自室で能を舞う場面があったと記憶しています(脚本:下飯坂菊馬)。

旧士族様は、武家の式楽として能をたしなむものであり、そこから転じて、「仕舞をやる、謳をやる」の一言は、実際にやってみせて、どのような技量であるかを問われる以前に、名家・良家の出自を暗示する記号として機能する、そのような時代があったのだろうと思います。

日本の作曲家のプロフィールを見ていると、クリスチャンの家に生まれた人が多いのは洋楽受容の経緯を考えれば当然として、神道・仏教など宗教儀礼に関わる家の出身者とともに、能楽師の家系であったり、能をたしなんだ、との一文が履歴に含まれているケースが少なくないようです。

しかしながら、家名に恥じない人格者というケースもあるでしょうけれども、家名に押しつぶされる悲劇や、旧家のしがらみを呪詛する放蕩息子の物語は、近代小説でおなじみの題材でもあります。

弟子を正座させて平手打ちするのが常であった、というような風評は、どちらかと言えば、戦後、茂山千之丞や観世寿夫・榮夫兄弟らがその理不尽と闘わねばならなかったと述階している能楽界の狭量なイメージ(家名と伝統に絡め取られて個を押しつぶされたロボトミー状態)に近いようにも思われるので、能楽の素養をもつとされる音楽家たちの特異なパーソナリティの来歴については、是非とも、ひるむことなく個々にその実相を見極めていただきたいものだと思っております。

さて一方、島之内の小間物問屋に生まれた大栗裕の場合、父親が商家の旦那芸をたしなんでいたと伝えられています。

これは具体的にどのようなものだったのでしょう?

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父は現在も元気でいるが、かなりの美声の持主で筑前琵琶・常磐津と遍歴の後、義太夫におちつき今尚、暇があれば少々、他人の迷惑など省みないで語るのを唯一の道楽にしている。(大栗裕「個人的な、あまりに個人的な」)

昭和50年、大阪音楽大学が創立60周年記念事業のひとつとして刊行した『大阪音楽界の思い出』に寄稿した文章の一節です。この文章は、「中学二年頃、はじめて本格的な演奏会」に行ったときの思い出のなかに織り込まれていて、次のようなオチが付いています。

[父は]しかし、洋楽の方はほとんど縁がない人だから、シゲティの熱演中に、いびきをかきはじめたときには、中学生の私はあわてざるを得なかった。

父の取引先の関係者から朝日会館の音楽会の切符を2枚もらって父親と行ったのだそうです。プログラム等は戦災で焼けてしまったそうですが、「中学二年頃」で、

「熊蜂の飛行」だけは強烈な印象として残っている。

とあるので、シゲティの前年に続く2度目の来日となる昭和7年(1932年)秋の来日公演、大阪の朝日会館での二夜の公演のうち、11月19日の第一夜を聴いたのだと思われます。

以来、切符を入手して朝日会館に通い、近衛秀麿の指揮する新響(「ルスランとリュドミラ」、モイセウィッチの独奏によるヴァイオリン協奏曲、「運命」交響曲)を聴いたり、宝塚交響楽団(「シェエラザード」やモソロフ「鋳鉄工場」)を聴いたり、メッテルと京大オーケストラ、大阪商科大学オーケストラを聴いたりしたそうです。

シゲティの演奏では「熊蜂の飛行」が記憶に残ったと先の引用にありますが、「ルスラン」では、冒頭のアレグロのパッセージで「脅威の念を抑えがたく聴いた」。「シェエラザード」では、

余り満足すべき演奏ではなかったかも知れぬが、当時の私にはあのケンラン豪華なオーケストレーションが新しい音楽を示唆してくれた。

モロソフ「鋳鉄工場」では、

ステージの奥に吊下げられた大きな鉄板を打楽器奏者が打ちならした時の印象も忘れられない。

と回想しています。管弦楽法の講師として奉職する大学に出した文章なので、ふさわしい話題を選ぶ配慮が働いている可能性はありますが、大栗少年がオーケストラの何を面白いと思ったか。のちに音楽劇でさまざまな生き物を描写したり、「俗謡」で「ステージの奥に吊下げられた大きな」チャンチキを「打楽器奏者」に「打ちなら」させた大栗裕らしい、と思わずにいられません。大栗裕が、意識的か無意識的になのか、自らの音楽的な来歴と嗜好を同時に語ってしまっている貴重な文章です。

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父親が美声で、その声が記憶に焼き付いていたらしいことについては、上の回想文より前に、管弦楽曲「雲水讃」を演奏会初演した大阪フィル第15回定期演奏会(1962年1月12日、毎日ホール)に寄稿した文章に、次の一節があります。

私の父は非常な美声である。これは私自身も認めるのだが、やはり子供の頃、有馬へ病後の休養に出かけて、父と一緒に妙見山に登った時、摂津の空に訝するように音吐朗々と御詠歌を唱えたのを記憶している。この声は私の耳に未だ昨日の事のように鮮かに残っている。(大栗裕「自作について」)

「雲水讃」には御詠歌の節回しが用いられていますから、これは、この作品の成り立ちを考えるうえでも鍵になるコメントです。そして大栗家の本籍があった空堀は、天満橋南詰を起点として南へ下る熊野街道の途上。父・暉二(てるじ)さんが巡礼の御詠歌を諳んじていたのは、偶然ではないかもしれません。

また、大栗裕は、カメラと山歩きが趣味でした。遭難しかかったことがあるくらい山に入れ込んでいて、信州に所有していた山荘が今もあるそうです。父親との妙見登山の思い出は、そんな大栗裕の素顔を知る上でも興味深いエピソードだと思います。

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「雲水讃」では父との登山の思い出が語られていますが、大栗裕の他の作品のいくつかも少年時代の記憶と結びついていたようです。

たとえば、昭和32年(1957年)に関西歌劇団第4回創作歌劇公演で初演された交響的物語「杜子春」のプログラムのコメントはこんな風に書き出されています。

芥川龍之介の「杜子春」と「蜘蛛の糸」は私の少年時代の愛読書の一つであった。殊に「蜘蛛の糸」は作曲法の本をひもといて間のないその頃、無謀な少年の手で交響詩と銘打たれて五線紙の数頁を汚した懐かしい思い出がある。勿論これは未完成のままその原稿すら何処へ行ってしまったのか判らないが、ところが今度はからずもその一つである「杜子春」の音楽を書くことになって、深まりゆく秋に今更ら[ママ]ながら少年の頃の淡い思い出を懐かしむ機会が与えられた。

ご遺族のお話によると、母親が読書好きで、大栗裕はその影響で文学に親しんだのではないか、とのことです。「作曲法の本をひもといて間のないその頃」というのは、天王寺商業学校時代だと思われます。学校を卒業する年、昭和11年(1936)年1月19日、朝日会館での第6回天商バンド大演奏会では、早くも母校の後輩たちが彼の吹奏楽曲「天草への幻想」を演奏した記録があります。この頃から、家業を手伝う傍らで、極東映画などの撮影所で演奏・編曲のアルバイトも始めていたようです。

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少年時代の思い出と言えば、大阪市音楽団の委嘱で同団創立50周年記念演奏会(1973年9月26日、大阪市中央体育館)に初演された「吹奏楽のための神話」に関する次のコメント(初演時プログラムに掲載)は、今でもよく曲目解説に引用されています。

私は小学生のころ、教科書にのっていたこのお話し[天の岩戸の物語]の絵を今も生々しく思い出すことができる。そして、この音楽はそのイメージを瞼に浮かべつつ書きあげたものである。

こんな風に書かれたら、その小学校教科書を探し出したいと思うのが人情でしょう。たしかに、「天の岩戸」を冒頭に収録した三年生前期用の教科書(全12巻中の巻5)があったようです。挿絵入りです。

[追記8/13]

ただこの教科書は、大栗裕が学んだものではなさそうです。

大正7年(1918年)から昭和7年(1932年)までに入学した世代は、「ハナ ハト」ではじまる『尋常小学国語読本』で学んだとされていますが、昭和7年刊行の国語読本の復刻版が見つかったので現物で確認すると、巻5は「三、大蛇たいぢ」「五、金鵄勲章」「十一、熊襲退治」だけで、他の巻にも、天の岩戸はありません。

上に掲げた挿絵入りの「天の岩戸」は、昭和8年(1933年)から15年(1940年)まで使われた読本の巻5みたいです。

大栗裕がどうしてこちらの教科書に強い印象を持ったのかは、まだよくわかりません。

参考:http://s-opac.sap.hokkyodai.ac.jp/library/shiryou/kokutei/shiryou.html

[追記おわり]

また、大栗裕は、先に紹介した『大阪音楽界の思い出』のなかで、京大オーケストラに出演していた朝比奈隆を

エキストラの一人のビオラ奏者は、客席から常に注目を浴びていた。同じようにすわっていても一段とその容姿が高貴な存在として印象づけられるような青年。それが朝比奈隆先生であった。

と書き、中学生の頃に通った大阪市音楽隊の演奏会を、

毎土曜だったと思うが、黄昏の微光から徐々に、ステージだけが明るく浮かび上り、林亘隊長の指揮の下で鳴り響く輝かしい音を聴くために我々は胸をときめかしながら天王寺公園に通った。

と書いています。彼は、思い出を鮮明な映像(教科書の生き生きとした挿絵、一人だけ背の高い朝比奈青年、夕日に浮かび上がる音楽隊)として記憶に焼き付けるタイプだったようです。映画が好きで、写真を趣味にしていたのは偶然ではなさそうですし、舞台向きの感性だと言えるかもしれません。

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……話が逸れました。

さて、大栗裕の父、暉二さんの芸事がどれくらいの腕前だったのか、具体的なことを知る手掛かりはほとんどありませんが、ご遺族から伝え聞いたところでは、相当な入れ込みようだったのは間違いないようです。80歳を過ぎてから毎日放送の素人名人会(関西ではよく知られた素人参加番組です)に出て、見事、「名人」を獲得。さらに、名人大会に出て一等「大名人」になったことがあるのだそうです。

どこまでいっても、「仕舞をたしなみます」のように、他者をリクツぬきに黙らせるオールマイティなエピソード(能管や鼓への音楽家たちの関心は、こうした能楽の「秒殺」ブランド力への憧れと結びついているように思われます、音の居合抜き、ですね)は出てこなくて、「日本の作曲家で誰が一番偉いのか」という、作曲業界が暗黙のうちに興じているらしいパワー・ゲームの持ち札としては、さほど強くないかもしれませんけれども(苦笑)、大栗裕のパーソナリティを考えるうえで、お父さんの影響は決して少なくないようです。

大栗裕自身は、残念ながら父の美声を受け継ぐことなく、ボソボソしゃべる人だったようなのですが(←と大栗裕に倣ってオチをつけてみる)。