音楽書の日本語訳は製本が立派になる、の法則?

前にも書きましたが、Alice M. Hansen, Musical Life in Biedermeier Viennaという本は、メッテルニヒ時代の音楽の検閲を扱っていて、ドイツ語訳は「検閲されたミューズ」の題を添えて出版されて(写真左)、一方、邦訳は「音楽都市ウィーン 黄金時代の光と影」(写真右)。

表紙も(写真がヘタクソですが)、日本語版は、ちょっとレトロな音楽観光ガイドと思える雰囲気になっています。原書名が表紙下部に花文字であしらわれているのがワンポイントのアクセント。その他、ここまで好対照にできるか、と思うほど独訳と日本語訳では意匠デザインが違っています。

(いわば、ドイツ語版は、音楽・芸術を駕籠の中に閉じこめるウィーンの「影」を強調する装丁で、一方、日本語版は、「黄金時代の光」を強調。「書物の装丁はメッセージ」、なのですね。)

Dahlhaus, Grundlagen der Musikgeschichteは、ペーパーバックが日本語でハードカバーに変身した例。

原書は、ドカーンと歴史学概論を世に問う、というのではなく、あくまでDie Musik des 19. Jahrhunderts (Neue Handbuch der Musikwissenschaft Bd.6)を書くための準備作業として作成された研究ノートみたいな本だと思います。で、本命の「19世紀の音楽」は、美術書や作曲家全集みたいに大判で気合いの入った作り。こっちは未邦訳。

(ペーパーバックの「音楽史の基礎」をあんな立派な本にしてしまったら、「19世紀の音楽」邦訳はどれほど巨大になってしまうのやら……。西洋という他者の姿を過剰に「大きく」見積もってしまったあまり、身動きがとれなくなった一例かと思います。他者とのつきあいが「怯え」ベースになってはマズいということでしょうか。ひと頃は、こういうのを「島国根性」と呼ぶ日本論もありましたけれど。)

同じ著者の「絶対音楽の理念」も、原書が薄いポータブルな作りなのだけれども、邦訳はハードカバー。(下の写真は、携帯に便利なiPodと、「本book」を名乗っているMacBookでサンドイッチしてみました。)

以上、ペラペラな表紙で学習参考書風のSprache und Musik(音楽学習本BSMシリーズは同じベーレンライターの全集楽譜を普及版にした学習スコアStudienpartiturに近いノリで作られているのだと思う)が、12,000円で邦訳出版されたのを見て思い出した諸々を現物で確認してみました。

たぶん、「ドイツの本は質素で、日本の本は作りが丁寧だ」というわけではないと思います。「19世紀の音楽」のように本気で作られた書物は立派ですから……。むしろ、Dahlhausの世代は、伝統を受け継いだ重厚なハードカバーの研究書とは明確に区別して、薄くて軽い音楽書を流通させようとしていたように見えます。(実際、このあたりの薄い本はオペラハウスやコンサートホールの売店で買えたりしますし。)

一方日本には、ヨーロッパ文化の精髄としての芸術音楽の霊験あらたかな「経典」を演出する「独逸音楽イン・ジャパン」(=カイゼル髭の大ドイツ帝国よ永遠に!)のブック・デザインがある(つい最近まであった)。

戦後1970年代以後西ドイツの音楽学は、この落差のあおりをモロに受けて、日本に伝わりにくかったのかな、という気がします。

この世代の書物の基本は、「精神文化」を演説しているわけではなくて、対話・討論の技術と材料を教えてくれる「使える啓蒙書」だったと思うんですけどね。

(戦後西ドイツは連合国が駐留したし、ヨーロッパでもアメリカニズムを少なくとも表面上は積極的に受け入れて再建された国、とされていたはずです。これも前に書きましたが、フェミニズムの勢いも強い。「緑の党」とかエコにも熱心。フォーサイスに注目していた浅田彰はイジワルなので、西ドイツの偽善、それでもないよりずっといい、というような言い方をしていましたが。

なお、昔自分の勉強のために色々訳してみたのはそういう啓蒙書ではなく、それぞれの著者がそれなりに気合いをいれて書いている論文のみです、念のため。啓蒙書は賞味期限がある実用書ですし、訳のないものはドイツ語でそのまま読んでしまおうとしていたので。)

私が小鍛冶邦隆さんの本を懐かしいと思ったのは、ドイツとフランスの違いはあれ、同じ気風を感じたからだし、吉田寛クンに苛立つのは、音楽から「思想」をすくいあげる手つきが表層的すぎると思うからです。そういうことをしていると、音楽のエレガントな「技術」(知恵のつまった「わざ」の意味を含むような)が抑圧されて、頭でっかちで不器用なボスに牛耳られた不幸な未来を招くのではないか、と私は思う。

たぶん、音楽はもっと身軽なアートだと思うのですよ。身一つでできちゃうわけですから。(そしてこの「身軽さ」は、大がかりな制度にときにはすっぽりはまってしまうことと矛盾しない。)

作曲の思想 音楽・知のメモリア

作曲の思想 音楽・知のメモリア

↑この本も、薄くて軽い、手軽にカバンに入れて持ち歩ける装丁ですよね。
事典 世界音楽の本

事典 世界音楽の本

「音楽」の見取り図は、やっぱりこういう感じになるのではないかと思います。「私」の「煩悶」を音に仮託すること、ましてや「影響の不安」とか、文学的には意味があるかと思いますが、「音楽」としては隅っこのサル山のちっぽけな争いなのではないか。