武智鉄二演出の「蝶の道行」

昨年の歌舞伎座さよなら公演のDVDで、「蝶の道行」を観ました。川口秀子振付、とのみ出ていますが、武智鉄二の1962年の演出を踏襲していて、彼の演出(の片鱗)が現役で残っている演目は、これだけらしいですね。

(歌舞伎で、外部の「演出家」が入ったこと自体が当時は異例だったはずなので、ひとつだけでもその演出の形が残っているのは大したことなのだろうと思います。)

歌舞伎座さよなら公演 五月大歌舞伎/六月大歌舞伎 (歌舞伎座DVD BOOK)

歌舞伎座さよなら公演 五月大歌舞伎/六月大歌舞伎 (歌舞伎座DVD BOOK)

ピカピカ光る二匹の蝶が出てきて、背景は花一面のサイケ調だし、地獄の責め苦で悶絶・痙攣する二人がエビ反りになるエロティックな死に姿に目を奪われました。一方でエロスを全面に打ち出した映画(さすがに観るのが辛い)を撮りながら、こういう舞台を武智鉄二は作っていたのですね。

歌舞伎座さよなら公演のDVDは、海老蔵の「暫」(時の人ですが、失礼ながら素人目にもヘナチョコであるような……)とか、「毛剃」(近松の原作の結末を知らずに観ても、菊之助の子女郎と乞食に身をやつした藤十郎の宗七が最後に死ぬ上方の和事だろうと思うのに、なぜか團十郎の毛剃九右衛門が船の舳先で見栄を切ったりして主役であることになっている不思議な構造、この幕だけが残っていて、上方の浄瑠璃と江戸歌舞伎が綱引きしているような感じ、歌舞伎の入れ子構造はそういうものかもしれませんが)とか、観るところは色々ありますけれど、高い買い物ではあって、本当は舞台を観るのが一番なのだろうとは思いつつ。

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おまけ:

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20101219

「新潮45」は読んでいないのですけれど。

オーケストラの指揮者は、演出家と現場監督・技術コーチ(それほど上手くない楽団の場合)を兼ねていますが、具体的な仕事の内容はケース・バイ・ケースで、本番の舞台だけから、どこまでが指揮者の貢献なのかを判別するのは不可能に近いと思います。責任を全部指揮者にかぶせるのは、たしかに乱暴。

NHKは、演奏家のお決まりのインタビューはいらないから、リハーサルの様子を淡々と収録して見せてくれたらいいのに、と昔から思っています。

(指揮者が目立つコメントをしているワンショットだけじゃなくて、指揮者が何か言っても音が変わらなかったり、本当に音が変わっていったり、という過程を全部見せて欲しい。解説者つきの実況中継にしたら面白いのではないかと思う。)

バーンスタインは、本番の舞台で派手に動いたけれども、演奏が良いから誰も止められなかったのだと思います。いったいどうやったらああいう演奏になるのか、一番よくわからない指揮者のひとり、という気がしています。(いくつか練習風景の記録が残ってはいますけれど。)

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おまけ2:

言葉は受け身では身に付かない、相手に伝えたいことがなく、相手の持ってる情報が欲しいだけなんだったら、発音ばっかり上手になっても仕方がない、というのが私の語学観。

それと関連するかどうかわかりませんが、

私は攻守が動的に入れ替わらない遊びは飽きるから好きではなくて、コンピュータにプログラムされたゲームは、(仕掛けが壮大でそこがポイントなのでしょうけれども)ゲームとしては胴元の作者が用意した範囲のなかで遊ぶしかできないタイプがほとんどらしいところが嫌で、いわゆる駆け引きのできるものがいい。

(システムを容易に一望できない状態でほどほどに遊ぶのにはいいのかもしれないけれど、たとえ作者がどんなに膨大な情報を投入してシステムを壮大に設計しても、いずれは中毒症状的にどんどんのめり込んでシステムの底にたどりついてしまう人が出てくるわけですよね。ヒトが設計したものは、いずれはヒトによって解析されてしまう。構造的には、筆記試験をめぐる出題者と受験者の知恵比べに似てしまっている気がします。

凡庸さについてお話させていただきます

凡庸さについてお話させていただきます

入試というゲームの凡庸さについて、鍵穴を覗くサルの逸話から書き起こしたエッセイが入っていた本。

だったら、最初からシステム設計をオープンにして、それでも色々遊べるようになっている、そういう風に巧妙に底が抜けている設計のほうがエレガントだと思ってしまうのです。偏見かもしれませんが。)