中川右介『歌舞伎 家と血と藝』

歌舞伎 家と血と藝 (講談社現代新書)

歌舞伎 家と血と藝 (講談社現代新書)

このところオペラ「夫婦善哉」のことなど考えていたので、武智鉄二が歌舞伎をやるときの後ろ盾になった簑助さん(八代目板東三津五郎)が、どうしてこの頃大阪にいて、歌舞伎の「家」の興亡、一種の王朝史のなかでどういう位置なのか、というところを真っ先に読んだ。

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改めて武智鉄二はややこしい食い込み方をした人だったんだな、と思ったし、昭和29年(1954年)に大阪歌舞伎座でオペラをやったのは、やはりかなり大胆なことだったのかもしれないと思いました。

年末には、もし武智鉄二と松竹のトラブルがなければ、関西歌劇団が東上して、今度は東京の歌舞伎座でも「お蝶夫人」をやることになっていたんですよね。実現したらどんな反響があっただろう、と惜しまれます。

そして歌劇団のマネジメントを仕切っていた野口幸助がのちに回想していますが、歌舞伎座で興行するためには裏方のほうにも様々なしきたりがあり、あっちこっちへ挨拶回りをしなければならなかったみたい。野口幸助は、面白話としてさらっと書いているだけですが、劇団を作った早い段階で歌舞伎の劇場、というか芝居小屋の裏側まで実地に見聞したことは、有形無形の財産になったのではないかという気がします。

私の考えでは、関西歌劇団の初期の歴史で一番大事なのは、日本調を売りにした、とか、新作に積極的だった、というレパートリーやスタイルよりも(それだけだと「遅れてきた新日本音楽」、宮城道雄の歌劇版に見えてしまう)、芝居・劇場を本気で丸ごと学ぼうとしたことだと思うんですよね。朝比奈隆のように大陸の劇場を知っていた人がいたことも大きいだろうし、やや飛躍しますが、のちに大阪音大が自前でオペラハウスを作ったのも、オペラとは「芝居・劇場」なんだ、という意識があったからだろうと思う。

だからこそ、関西のオペラとは何だったのか、という話は、妙におおがかりになって、説明が大変になりそうで、なかなかこれまで手が出せなかったのですが……。

音楽ホールという謎の組織と関わり合いになるよりも、こっちのほうが、いっそ苦労のしがいがありそうですね。ここから先は部外者立ち入り禁止、というのが歴史的・文化的経緯からはっきりしていそうですし。