和歌の読み方(渡辺泰明『和歌とは何か』)

和歌とは何か (岩波新書)

和歌とは何か (岩波新書)

クラシック音楽の語り方が今では昭和の頃とは変わっているように、和歌へのアプローチも更新されていいはず。

和歌語りの典型的なパターンは、濃密な「情」をたたえた和歌を、ちょっと距離をおいた評者が「知」のことばで受け止めるという形である。だから、さまざまな秀歌をあっちこっち覗きながらも、どことなく涼しい顔というか、退屈げでさえあるような、どこ吹く風という空気がある。そして、そんな緩い空気の中に、ときおり射貫くような、あるいはひねりや毒を少しだけ盛った、寸言めいた評が差し込まれたりする。

しかし、本書『和歌とは何か』の著者の姿勢はそんな「どこ吹く風」の批評とは少し違う。

東京大学(英米文学)・阿部公彦の書評ブログ : 『和歌とは何か』渡部泰明(岩波書店)

阿部公彦さんの書評はときどき書評のほうが紹介されている本より面白い場合があって、これは同じ東大の先生の本だから、身内へのヨイショだったら嫌だなあ、と心配しながら買ったら、とても良い本でした。

言いたいことはたくさんあるのですが、とりあえず、

儀礼的空間をキーワードにして、「和歌=和のうた」のレトリックとパフォーマンスを読み込むアプローチは、池内友次郎を家元とする「洋楽=西洋のうた」の一派を捉え直すときにも有効なはず。「日本のポエジー」についての捉え方自体がこうやって更新されつつあるのだということを押さえておかないと、洋楽における「日本的なもの」の語り方がおかしなことになると思う。

で、一番手っ取り早いのは、誰かがこの『和歌とは何か』という本をテクストとしてオペラを書くことではないかと思いました。

ここに紹介されている和歌に作曲するのではなくて、序章「和歌は演技している」、第1部「和歌のレトリック」、第2部「行為としての和歌」という構成をそのまま採用した2部構成の音楽劇にして、地の文の抜粋も台詞として使っちゃう。和歌に作曲するときは、実朝の「箱根路をわれ越え来れば……」なんかも、本書の解説を参照して三十一文字のレトリック等を踏まえるだけでなく、詞書にも作曲して、その背景に広がりが出るようにすれば、お供の行列とか合唱団も使えるし、大掛かりに音楽をフィーチャーする意味がありそう。

額田王(あかねさす紫野行き標野行き……)と大海人皇子(紫のひほへる妹を……)のやりとりで、コンヴィチュニーみたいな演出家が舞台に出て来て、今時の女子と男子に「読み替え演出」でこの二人を演じさせる、とか、色々面白いシーンを作れるのではないでしょうか。

枕詞や序詞、掛詞、縁語を音楽と重層的に響き合うように作曲するのって、それだけで作曲実習の課題にもなりそう。「うた」の作曲は、言葉のリズムとイントネーションを考えて、ハーモニーやポリフォニーで色づけするだけではないはず。三島由紀夫の近代能楽集やそれに類する古典がらみな近代文学のオペラ化とか、シアターピースで各地のフォークロアの「音楽の骸骨」が赤外線ビームのように会場全体に張り巡らされるとか、そういう、昭和の圏内にある創作は、もう十分だと思うので。

でも、その一方で、最初の引用にあるように、文を読むといっても、散文と詩、近代詩と和歌では、読みの体験が確かに違うと思うし、それはちょうど、楽譜をなんでもかんでも最初から最後までバリバリ読んでタイプライターのように鍵盤を打つのではない、楽譜の読みの多様性と対応しているような気がして、そこを汲み取る「うた」やパフォーマンスがあって欲しい気がするのです。

ある種の演奏会が、「上手い」「きれい」「かっこいい」くらいしか感想を言えない状態になってしまうのは、その公演の周囲を取り巻いている各種配布物を含めて、画一的な読み方しかできない状態に押し込められた貧しさのなかでもがいているからではないか、と思うのです。

そしてそのような画一的な貧しさは、「片側通行に御協力ください」とかいって、床や壁に白線や矢印を描いて、人間を効率的に移動させることしか考えていない公共空間設計の「安心・快適」の息苦しさにも通じると思う。

たちどまったり、しゃがんだり、きょろきょろ、うろうろできない空間のどこがパブリックなのか、と思うんですよね。そんな場所に「議論」は発生しない。文字の時空、音の時空も同じだと思う。

(新しい大阪駅の細いエスカレーターでしか出入りできないプラットフォームの東側(御堂筋口方面)は、何か災害が起きたときには、絶対ひどいことになると思う。平常時のスムーズに整流された移動しか考えないベルトコンベアのような設計。ああいうのが都市の北の玄関口になっている時点で何かがおかしい。)