シュトックハウゼン「歴年」は間が1日空いているので、六本木の美術館という似つかわしくない場所で遊んでいる。
追記1: オーストラリアから来たバレエ・リュスの衣装展、図録には、バレエ・リュスがどのように日本へ伝わったか、ややこしい話をまとめた論文まで載っていてありがたい。
チャイコフスキーのバレエは、ワーグナーの呪いを逃れた(=表現主義のドロドロへ行かずに済んだ)「もうひとつの総合芸術だ!」と力強く主張する論文も入っていて、2つの「歴年」の間に読むにはちょうどいい内容でございました。
展示自体もさることながら、図録がおすすめ。
明日の洋楽版、というか、オペラ「火曜日」第1幕、の前にいかがかしら。
追記2: この図録は読めば読むほど興味深いです。なかでも「日本におけるバレエ・リュスの受容」は、その後の日本で繰り返されることになる“西洋のアートの新動向の受容”のプロトライプのように思えます。20世紀のアートの新動向は、しばしば文学・美術・音楽・舞踊が絡み合っていて、その受容においても、各分野それぞれの回路が同時に作動するんですね。1910年代だったら、島崎藤村と小山内薫、留学したり輸入雑誌で情報種集をした画家の人たち、山田耕筰や大田黒元雄、ローシー以後の舞踊家たちがそれぞれに動いているし、20年代に第二波が来る。
で、そうしたアートの「総合的・分野横断的」な受容の研究では、モノがありますし、そうしたモノを扱う制度(美術館・博物館と学芸員)が整備されているので、美術史のほうが音楽学より速くて正確かもしれない。
戦後の実験工房の活動の掘り起こしでも美術史の方が成果を出していらっしゃいますが、バレエ・リュスの受容でも、音楽だと山田耕筰と石井漠の取り組み(これは調べている人がいたはず)のあと、なんとなく30年代に飛んでストラヴィンスキーに関心を寄せた作曲家たち(伊福部昭とか)の話になってしまって、1920年代が飛んでしまいますよね。でもたぶん、舞踊や美術の人たちと連携しながら何かやろうとした動きが調べれば何かあっておかしくないと思うんですよ。
こんな風になってしまうのは、音楽と音楽研究(そして音楽ジャーナリズム)がある時期から急速に文学や美術や演劇や舞踊のことを気にしなくなっちゃったせいではないかと思う。
「もうオペラって、そんなこと言ってる段階じゃないだろう」という話が、打てば響くように展開しないのも、そういう事情がありはしないか。
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[さらに追記]
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東京へ来る前に、ペンテジレーア(ゲルトルート・アイゾルトはサロメ、エレクトラと並んでペンテジレーアを演じていたらしい、表現主義御用達のギリシャものだったようですね http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140823/p1)と軍人たちの原作も入手済み。これで表現主義オペラを精算するための準備は万端だ(笑)。
(レンツという作家については、ゲーテと決裂してワイマールを追放されたあとのシュトラスブールやロシアでの足跡がわかってきつつあるようで、いかにもビュヒナーやアロイス・ツィマーマンの関心を惹きそうな生粋のアウトサイダーというだけでもなさそうですね。)
それにしても、1970年代にヘリコプターとかオートバイとか、さんざんやったんですから、今更ヴェルディの楽譜をカットしたり、アリアでうっとり目をつぶらせてくれなかったり、オーケストラが演奏を止めて続きがラジオから小さな音で聞こえてくるくらいで、何をガタガタ言っているのか、ということですよねえ。その後の30年は何だったのか、ということになる。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-08-29
まさにドリフだと思います。で、そういう風に70年代の無茶を肯定しようじゃないかという気になったのは、片山杜秀が「あの頃、私は中学二年生だった」みたいにプログラムのエッセイを書き出したりしたからではないか、とも思う。あれでみんな、自分が1977年に何をしていたか、一斉に思い出してしまったのではないか。
時計の針が37年前に戻って再起動した感じがします。
オープニング音楽を湯浅譲二が作曲した「草燃える」の年。その前が山本直純の「風と雲と虹と」で、そのあとが池辺晋一郎の「黄金の日々」。電線音頭の大騒ぎがあって、翌年3月にはキャンディーズが引退する。それが1977年なのだから、悪魔(←優しいのか?)とオートバイが舞台に出てくるのは、むしろ、時代の必然のような気すらしてくる。