音楽は言葉を裏切る、オペラは台本を裏切る、だから面白い

音楽は決して言葉(詩や台本)の忠実なしもべではなく、言葉を裏切ったり、出し抜いたり、おだてておいてはしごを外したり、素知らぬ顔で別のことをやったり、言葉と面妖なつきあい方をすることで、最大のパフォーマンスを引き出そうとする。

たぶん、舞踊や舞台美術や役者もそうだと思う。

(たとえば、シュトックハウゼンの「歴年」においては、上演される時点の西暦(初演時なら「1977年」)がほぼ唯一のテクスト、台本だと思うわけですが、この作品は「1977年」という時を刻むと言いながら、1の位が1977のステップを踏むわけではない。1の位が7つのステップを踏んだら繰り上がり等々、というルールは、数字(十進数)の解釈としてはむちゃくちゃな横紙破りだし、でも、そこが面白いわけじゃないですか。この種の「誤読」のないところにクリエイティヴなアートなんてあり得ないと思いますよ。)

そんな一癖も二癖もある奴らがワラワラと集まるオペラのような舞台芸術になると話は複雑だが、音楽研究は、通常、そういう音楽の振る舞い方を歌曲の分析で学ぶ。

シューベルトは、詩の「勝手読み」を大胆にやってのけたから歌曲の古典になっているわけで、ゲーテに忠実だったかのように言われているツェルターだって、腹の中で何考えていたか、わかったもんじゃない(と思う)。

さてそして、歌手が、まじめな人ほどオペラの舞台で固まって動けなくなっちゃうのは、演劇(台本)をよく読み込んでいない勉強不足というよりも、実は、台本をきまじめに読んじゃって、がんじがらめになっていることのほうが実際は多いと思う。

どこか遠い国のお姫様があるとき事件に巻き込まれて、こんなことを言いました、みたいなことが台本には書いてあるわけだが、そんなこと急に言われたって、まじめに考えれば考えるほど、どうすればいいかわからなくなるに決まってるじゃないか(笑)。

私がみたかぎりでは、演出家の仕事は、「読み込み」とか言われてはいるけれども、実際には、そんなふうにがんじがらめになった状態からの抜け道を役者に示すことなんじゃないのかなあ、という気がする。

客席からの「見た目」がバシっと決まった状態にもっていけばええねん、みたいなアプローチの人もいるし、自分に置き換えてやってみたらどうか、とヒントを出す人もいるし、右にも行けず、左にも行けず、雪隠詰めに追い詰めたところで何が出てくるか見てやろう、という「実存」派のめんどくさい化石のような演劇人もいるようだが、

「理論」はどうであれ、結果が面白ければ、なんだかんだいいながらOK出しているように見える。

それだけの単純な話なのに、なんか知らんけど、大学で文学とか演劇を教えている人たちの手にかかると、「歌手はもっと演劇を勉強しなければ」と教育ママのような紋切り型の処方箋が出力されてしまうのは、何なのだろう。

「お勉強」ばっかりやって、芝居がどんどんつまらなくなってきたから、ここらで一発、オモロイ演出家を呼ぼうやないか、きっと、ええカンフル剤になるで。

とか、そういう話やったんとちゃうのんかいな?

初心を忘れてはいけません。

(コンヴィチュニー騒動も、そういうところへ立ち戻って、誰かもっと楽しく総括してくれ! だって、あんなオモロイおっちゃん、世界中探してもそんなにいないと思うよ。たっぷり楽しませてもらったのだから、あとは、何かオモロイことやりたいんだったら、自分でなんとかすべし。他人頼みはダメよ。そしてそのような他人頼みは、仏教で言う他力本願ですらないよ。)