政治学者の肖像

大学院に入って間もないころ、岡田暁生に政治学者Yが参加するシンポジウムへ連れて行かれた。挨拶にいくと、Yは周囲の人たちに「ああ、これが岡田さんのお坊ちゃんです」とにこやかに紹介した。どうやらYと岡田家とは、お互いの家を訪問し合う間柄だったらしい。

当時、Yの周辺には、関西を代表する○○を××しようとする動きがあるらしい、とか、世界が注目する△△を◎◎へ誘致する話があったらしい、とか、スケールの大きい噂話が飛び交っていた。政治学者が余技で音楽を語るのではなく、「音楽の政治学」を標榜しており、いかにもそうした筋の人たちが周囲を暗躍していた。岡田暁生は、そういうところを含めて、Yに憧れている様子だった。

どういう人なのかといくつか著書を読んだ。東南アジア学とか、ノーベル賞ウォッチングとか。世の中がこういう風に動いているのだとしたら、世界というのは、とうてい私の手の届かない「天井知らず」なのだと思った(ような気がする)。

Yの批判があまりにも理不尽だということで、オーケストラは評論家が指揮するコンサートを企画して、Yは大学祝典序曲をかなり苦労しながら振った。それから彼の論調が和らぎ、楽員たちは溜飲を下げたと伝え聞いた。「音楽の政治」の人が、音楽家たちのややこしい人間関係へ巻き込まれつつあるらしかった。Yは、政治学者だが、政治家ではなかったのかもしれない。

鋭利な議論は、最高級のスポーツカーを思わせる。速度制限のないアウトバーンがよく似合う。だが、日本の一般道路を走ると、アクセルを踏んだ途端に暴走して、大事故を起こしかねない。

政治学者Yは、岡田暁生のそういう一面のモデルになった人物なのだと、私は思っている。

Yの晩年は、「抹殺」という感じの、なんだか後味の悪いものだった。

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Yが新聞に寄稿したカラヤン追悼のエッセイは絶品だった。ある種の知識人の間には「スピード狂の連帯」とでも呼ぶべき何かがあるのだろうか。
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ちなみに、ショスタコーヴィチは尊敬されすぎていると私は思っています。