指折り数えて「その日」を待ちわびるディジタス国のお姫様、そこへ忍び寄る怪物アナロゴス、はたしてその正体は?:音楽演奏における「アナ・デジ」のお話

[9/2 初稿は、荒っぽく書き飛ばして本筋が伝わりにくかったようなので、リライト版。とりあえず前半。9/3早朝 中盤まで来ました。あとひといき。今夜はここまで。9/4 時間がないので、とりあえず、「新即物主義」との対比でジェフスキーのハンマークラヴィア・ソナタの話を途中に付記。]

教養としてのゲーム史 (ちくま新書)

教養としてのゲーム史 (ちくま新書)

↑タイトルから連想して最近読んだ本を掲げたにすぎず、本文とは関係ありません。

デジタル digital の語源が「指 digitus」なのは有名な話。アナログ analog の語源は、analogos = 「言葉(logos)」の「後追い/重ね合わせ(an-)」ということで、ある現象に別の現象が影のように追随する比例関係や、ある現象に別の現象を重ね合わせる類似や比喩(いわゆるアナロジー)を指すようです。

もともと、対義語でも何でもない二つの言葉が、無理矢理カップルにさせられたのは、情報を送受信する方式として、アナログからデジタルへの移行が各方面で何段階にも分けて進行したからなのだと思います。

演奏も一種の情報の送受信なのだし、1980年代にアナログ・レコードからデジタル・ディスクへの移行を経験したのは、中年以上なら誰もが記憶しているところ。

語源を背景に据えて語義を拡張すると、演奏の「アナ・デジ」の話の見え方が多少変わるのではないか、という思考実験です。

仮に、アナログという言葉を「比例や類似から出発する情報の送受信」(演奏等において人力でこれを行う場合は通常「模倣的・ミメーシス的」と呼ばれてきた)、デジタルという言葉を「要素へ区切ってその数と種類を把握することから出発する情報の送受信」(演奏等において人力でこれを行う場合は通常「分析的」と形容されてきた)、というように意味を拡張したうえで、音楽史に導入したらどうなるか。いかにも乱暴で強引ですが、「ヒョーロンカが当たり前のことにバズワードを搦めて目新しそうに書くインチキ」をたまにはやってみよう(自分で一度やってみたほうが、そういう文章を書く人の気持ちがわかって今後の参考になるかもしれないから)ということで、駄弁におつきあいいただければ、幸いでございます。

1. デジタル回線としての「原典版」

「最近の(クラシックの)演奏家が正確さばかり追い求めて小粒になった」というのは、もはや擦り切れた常套句ですが、しばしばその遠い起源のように引き合いにだされるのが20世紀前半の「新即物主義」。楽譜に忠実な演奏こそが、作品への忠誠心の証しである、だから勝手な装飾やルバートを自粛しましょう、という、いわば、演奏家のモラル向上キャンペーンです。

[9/4 付記]

「新即物主義」を通俗化した「楽譜を正確に弾きましょう!」がとりあえずの倫理規定でしかないことは、大久保賢さんがブログで紹介してくださっているジェフスキーのハンマークラヴィア・ソナタを聴けば、たちどころに明らかになる気がします。

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/21259511.html

打鍵が確信に満ちていて、その気になれば「正確無比」に弾けるに違いない腕達者が往年のヴィルトゥオーソのように自由自在なアゴーギグを披露して、延々一時間を超えた最後の最後に、全楽章の主題を組み合わせた壮大なカデンツァへたどりつく。ひょっとしたら、すべてはこの最後のカデンツァをやるための長大な前振りだったのかも、と考えると、この人には「経済効率」という観念がないに違いなく、慄然とさせられますが、拍手が入っているからライヴ演奏なんですね。いったいどれだけのパワーと集中力がある人なのか……。

作曲と演奏を分業したうえで、正確な楽譜を作曲家から演奏家に届けて、書類ベースの業務割り当てで行きましょう、という20世紀の整然としたモラルを斜めに横切ったところに、途方もなく魅力的なパフォーマンスが成立しうるということですね。そんな綺羅星の如きヴィルトゥオーソの時代があったことを嫌と言うほど知った上で、これからは違うルールで行こうというのが、演奏の「新即物主義」だと思います。巨匠の時代は、大先生のおっしゃることはイチイチお説ごもっともなんですけど、やっぱり疲れるし、凡人やサラリーマンには辛いんっスよ、たぶん。^^;;

[付記おわり]

それから、作曲家が書いた楽譜の姿を印刷譜に正確に反映させようとする「原典版」編纂の動きもその前後に進行しました。(出版社がこういう事業をやってくれたおかげて、音楽学は安定した仕事を得たのですから、有り難いことです。)

両者をセットにすると、おおよそ20世紀の前半から中葉のクラシック音楽演奏の理念型をスケッチできるのだろうと思います。

そしてここに、上で述べた拡張版の「アナログ/デジタル」を導入してみます。

そうすると、「原典版」にかぎりませんが、出版譜を厳密に校訂するときの具体的な作業、つまり、手書きの譜面を前にして、そこに記載されたインクの模様を「この音符は譜線上のG音であって、F音やA音ではない」とか、「これはデクレッシェンドの松葉であって、アクセント記号ではない」等と判定する作業は、ペンを紙の上に走らせる動きをそのまま印刷譜へ比例的・相似形的=「アナログ」に移すのではなく、連続的でありうるペン先の軌跡のどこかに切れ目を入れる「デジタル」な作業と言えないでしょうか。(付随して、校訂作業では、そもそも一小節に音符がいくつ並んでいるか、「f」という記号は何個目の音符に関わるのか、その表示位置は、音符の上か下か、真上か斜め左上か、スラーの曲線の始点はどこで、終点はどこか、等々、ひとつずつ数えて列挙する作業が膨大に発生します。)

楽譜の印刷がはじまったのはルネサンス期に遡りますが、「原典版」の作成は、アナログな手書き譜のなかから作者の真筆を選び出して底本にして、「デジタル」な印刷譜から、作者に由来しない記号を排除する作業ですから、作曲家の書いた楽譜の情報を、楽譜の読者(さしあたり演奏家)へ届ける回線を透明化する通信革命だと言えそうです。「アナログ/デジタル」の比喩を使えば、「原典版」に代表されるモダンな印刷譜の校訂は、作曲者と演奏者の間の通信回線の「デジタル化」であったと言えるかもしれません。

2. 演奏の「新即物主義」は究極のアナログである

しかしながら、「新即物主義」の段階では、作者に由来する楽譜情報がデジタルな回線を流れていたにもかかわらず(「原典版」は情報の素性が正しく、途中経過での情報のロスが限りなくゼロに近い)、これを受信する「端末」である演奏家は、必ずしも「デジタル化」されてはいなかったように思われます。

手元に来ている楽譜に作曲家の記載が漏れなく反映されているとすれば、「何も足さない、何も引かない」ストレートのイッキ飲みが可能になる。紙の上に見える記号群を見えたとおりに弾けばいい。20世紀初頭には「演奏家=機械」説が叫ばれたこともあり、そのような態度がモダンなのだ、と言われてはいました。ちょうど、「原典版」が、作者と演奏者の間の情報のやりとりを透明化しようとしたように、今度は演奏家と聴衆の間の回路を透明にできないか、というわけです。

けれども、当時の演奏家たちがすっきりと校訂された楽譜を歓迎したのは、実際にはむしろ、混ぜものがなく、楽譜の信頼性が高いが故に、いままで以上に細かいところまで「作曲家の意図」を読み込むことができる、と考えたからであるように思われます。「原典版」は、機械のように従えばいい演奏の指示書きではなく、演奏家が楽譜(の向こうにいる作者)と対話する、いわゆる「解釈」の出発点になりました。

「どうしてこの音符はG音であって、F音やA音ではないのか」「どうしてこの音符にアクセントではなくデクレッシェンドの松葉が付いているのか」、これらの記号群が作者・作曲家に由来するのであれば、演奏家である我々は、「なぜ、そうなのか、それ以外ではいけないのか」という「意図」を徹底的に読み込み、見極めた上で、演奏を組み立てなければならない。「原典版」という素性の正しい印刷譜が登場したことは、そうした「解釈」への欲動をこれまで以上に促進したように思われます。

こうした演奏家の「解釈」への熱意は、「アナログ/デジタル」という言葉に照らすと、どのように位置づけることができるでしょうか?

「まなびはまねびである」などと言われますが、一般に、演奏家は、楽器の弾き方を習得したり、演奏のコツを学ぶときに、ゼロから自力で考えるよりも、先人に習う/倣うことを重視する傾向があるように思います。とりわけ古典音楽の演奏は、先人達の歴史に連なる「役」を演じる側面が強いと言えるでしょう。モデルの後を追い、モデルに自分を重ね合わせる「アナロゴス」の能力は、演奏家の基本であり核心であるように思います。

そして、「原典版」の登場は、そのような気質の人々の前に、役作りの格好の「モデル」を差し出すようなものです。これからは、あなたが師事した大演奏家や、あなたがどこかで体験した演奏、あるいは、あちこちに流布している逸話や伝承ではなく、この楽譜を典拠にしなさい。「作者」は、他のどこかではなく、この楽譜の向こうにいるのです、と言われたら、演奏家たちは必死で楽譜を読み、その向こうの作者について思いを巡らし、それをもとに「演奏=役作り」をすることになるはずです。

従来の楽譜は解像度の粗い画像のようなもので、細かいところがどうなっているのかよくわからないところがありました。ところが、「原典版」は、高解像度で細部がくっきり鮮明である。これなら、一挙手一投足、髪の毛や産毛の一本一本まで、作者そっくりに「なりきる」ことができる、というのが演奏における「新即物主義」であり、それは究極のアナロゴスの夢が達成されたと思える瞬間だったように思うのです。

すなわち、作曲家がペンで紙に描いた「アナログ」な譜面が、「原典版」というロスレスに整流された「デジタル」な回線を経て演奏家に届き、演奏家が自らの責任において、これをふたたび「アナログ」化して、聴衆へ提示する。「新即物主義」は、そのような回路に組み込まれていたように思われます。

(そういえば、初期LP録音が驚異的にカキっとした音像を誇っており、LPを再生するための高級オーディオ・システムの合言葉は「原音忠実」でしたが、それは、何をもって「原音」とするか、確固たる設計思想をもつシステムが「名器」として賞賛される時代でもありました。スタジオでの電気録音→アナログ・レコード化→アナログ再生というように、当時のオーディオ回路に「デジタル信号」は介在していませんが、生身のプレイヤー=演奏家が「解釈者」としてクラシック音楽において特別な存在感を誇っていた時代に、機械のプレイヤーにおいて「名器」が追い求められたのは、偶然なのかそうではないのか。これは別に機会があれば、詮索していいことではあるのかもしれません。)

3. 新音楽はアナロゴスの鬼門・天敵なのかもしれない

というわけで、「小粒で面白みがない」とされる演奏スタイルの起源が「新即物主義」だと言っていいのかどうか、「解釈」という営為や「作品への忠誠心」という理念を考慮に入れると、どうやらおそらく、もう少し事情は複雑だということになりそうなのです。

だとしたら次に、演奏のみならず、「クラシック音楽」そのものを破壊したと言われたりもした新音楽の場合はどうでしょう。

20世紀前半の新音楽と、世紀半ばの前衛・実験音楽と、ヨーロッパの作曲の歴史は、ちょうど二段階ロケットのような二つの波によって、19世紀までの「クラシック音楽」とは決定的に袂を分かったことになっていますが、音楽の演奏が、そのようなものと関わり合いになってしまったがゆえにおかしなことになったのだ、と主張することは可能なのでしょうか?

保守的で「古き良き19世紀」を懐かしむタイプはともかく、「新即物主義」を標榜する演奏家にとっても、新音楽は、おそらく相当に難物だったのではないかと思います。

前節で、演奏家は「作者」への回線が素通しであることを欲しており、古典音楽では、モダンな手法で校訂された印刷譜の登場で、この希望がかなえられたと感じることができたのではないか、と推定しました。一方、20世紀の新音楽の多くの作品、とりわけ、十二音技法やセリエリズムの作品の譜面は、素材を多元的に処理して制作されているので、出来上がった作品から「作者」へたどり着くことは限りなく困難、ほぼ不可能だと思います。新音楽や前衛・実験音楽の多くは、おそらく、「作者の顔」が見えない音楽です。

そしてこのような新音楽、前衛・実験音楽の洗礼を受けた論者は、かつての音楽家たちがアーチストというより職人であったり、音楽が集団・共同体の儀礼と結びついていたことなどを踏まえて、音楽(そしておそらく藝術一般)においては、「作者の顔」が見えないほうが普通なのであって、「作者」がその実存を賭けた表現として「作品」を作るという態度、「作者」が「作品」に自らの「個性」を込めるという態度を19世紀より以前にどこまで遡ることができるのかはっきりしない、と考える傾向があります。私もそう考えますし、現在では、音楽史(学)・藝術史(学)の書物の多くがそのような認識のもとに書かれていると思います。

クラシックの往年の大演奏家が同時代の音楽に取り組んだ録音は、今から聞くと癖が強く、何か勘違いしているようではあるのだけれども、異様な迫力を感じさせる場合があります。あの強度は、おそらく、見えるはずのない「作者の姿」を作品・譜面の向こうに求め続けて七転八倒しているのではないでしょうか。底の抜けたバケツに水を注ぎ続けているようなものではあるのだけれども、最強に強まったアナロゴスは、あまりにも真剣で、そんな醒めたことを言わせない。あれは、あらん限りの力を振り絞って、現実には存在しない最強の敵と闘う最終戦争のようなものだったのだと思います。

(「作者の顔」が見えない非表出的な音楽においても、素材の処理方法に一種の「癖」や「指紋」のようなものを感じ取ることができるはずだ、という微妙な議論もあるとは思います。現在では、「作者」の「意図」や「個性」を信じるのが難しくなったかわりに、そのような作者ごとの意図せざる「書き癖」を聞き分けるのが音楽を聴く楽しみになっているという現実があるようです。「音楽鑑賞」は、どこかしら、ワインのテイスティングに似たものになりつつあります。でも、これはあまりにも事情通に過ぎる論点だと思うので、ここでは扱いません。

ジェフスキーのこともそうですが、個人として圧倒的に面白い存在が必ずしも歴史の大きな見取り図のなかで大きく扱われるとは限らない。町内の名物おじさんが市史や日本史には登場しないようなものです。奇人変人列伝は、読み物として面白いと思うので、それはそれとしてやっていただければいいと思いますが、音楽史の研究は、歴史が常にそのようなものとして書かれねばならないわけではないということを100年かけてようやく学習して、「傑作・大作曲家中心の記述」を抜け出しつつあり、私はそれでいいと思っています。

音楽家を音楽で生活している人と定義するとしたら、音楽家のうち、おそらく99%は、楽器を弾けたり、頭の中で珍しい音の組み合わせを構想できたりする特技を鍛えていることを除けば「普通の人」です。そして「普通の人」であることは、必ずしも音楽家としての能力が劣っていることを意味しません。ワールドワイドなビッグ・ビジネスは一握りの1%の音楽家を中心に回りますが、そういう「限られた1%」になるか、「普通の99%」になるかということは、能力の上下というより、単なる役割分担であり、どっちへ行くかは向き不向きの問題に過ぎないのではないかと、最近思うようになりました。そしてその上で、99%の「普通の音楽家」の姿が見える音楽史があっていいのではないかと思うのです。

最近では、聴衆論、大衆音楽論など、「音楽家ではない人」が主役になる歴史記述を色々みかけるようになりました。現状では、「一握りのスター」と「普通の(音楽家ではない)人」の間で、「普通の音楽家」の話が抜け落ちているような気がするんですよね。あなたやわたしの街のコンサートに出演したり、音楽ジャーナリズムが日常的に取り扱っている大部分は、そうした「普通の音楽家」なのに……。

思えば、メイン・カルチャーvsサブ・カルチャー、ハイ・カルチャーvsポピュラー・カルチャーという議論には、「あいだ」が抜けているのではないでしょうか。

「グローバル/ローカル」という区別に照らすと、実は、メインもサブも、ハイもポップも、そういうトンガッた極点は、どちらもグローバルなマーケットに乗りやすいところがあります。トンガッた存在は、今は無名でも、何かのきっかけで「有名」へと一挙に反転する可能性を秘めており、マーケットというのは「落差」から利潤を得るシステムですから、そのような一発逆転のギャンブルとは相性抜群です。

一方、ローカリティというのは、商店街の馴染みの店への愛着のようなものがその典型だと思いますから、音楽家の肉厚な中間部分である「普通の人たち」の姿を浮かび上がらせる視線と連動しやすいかもしれませんね。尖った極点の数を増やしたり、それを各地に分散して世界をイガイガな状態にしようと目論むことは、それこそがまさに「グローバリズム」でしかないと思います。あと、トンガリを検知するセンサーの解像度を上げていけば、あらゆる地域の特性すべてを「差異」として検出できて、誰もが「世界にひとつだけの花」になる、というのが「ウェブ進化論」であったかと思いますが、そんなに細かく「差異」を「お金」に変えるのは、落ち着きがなさすぎて、あまり幸せな人生だとは思えないですよねえ。閑話休題)

4. 前衛・実験音楽に「正しい演奏法」はあるか?

一方で、新音楽の作曲家のすぐ近くにいた演奏家たちは、もっと違った風に演奏したのだろうと思います。戦後の前衛・実験音楽でも、作曲家の周囲には協力者と言える演奏家がそれぞれいたようですね。

そのような演奏家を「家元」として崇めるのは新音楽や前衛・実験音楽の精神にもとることであって、未踏の領域を探究する「運動」においては、あるスタイルを「正典」として固定することを拒む傾向があるのだろうとは思いますが……、

でも、おそらく新音楽や前衛・実験音楽にも、具体的なレヴェルで演奏の「コツ」のようなものはありそうな気がします。

本当はここで、話の展開上、実例をいくつか挙げることができればいいのですが、残念ながら、私はあまり詳しくこの方面を知らないので、今後の宿題ということにして、先へ進みます。

(つづく)