「音楽」、あるいは文字集合をめぐる寓話

[9/19 雑談・脱線部分をいくつか加筆しています。9/20 本題とは関係ないですが、「創造」「個性」について付記。]

【問い】次の3つの集合について所見を述べよ。

集合1 = { a, X, d, b, e, c }
集合2 = { O, R, N, P }
集合3 = { w, y, z, x, v }

【答案例】

(1) 各集合の要素をアルファベット順に並べ直すと、

集合1 = { a, b, c, d, e, X }
集合2 = { N, O, P, R }
集合3 = { v, w, x, y, z }

集合1に「X」が含まれていること、そして集合2に「Q」が欠けていることの2点を除けば、それぞれの集合は、a〜zのアルファベット文字列から連続する部分文字列を抽出したかのように見える。

(2) 集合1における「X」を副次的な付加、集合2における「Q」の欠落を副次的な削除であると仮定して、要素の付加と削除を以下のように記述する。

集合1 = { a, b, c, d, e } + { X }
集合2 = { N, O, P, Q, R } - { Q }
集合3 = { v, w, x, y, z }

すると、各集合の「本来の姿」は、いずれも、a〜zのアルファベットから連続する5つの文字を取り出したものであったかのように見える。

(3) 以上の予備的な考察をもとに、集合1,2,3を連続する5つのアルファベット文字列から成り立つ「五文字集合」(ただし副次的な付加や削除を伴う)と呼ぶことを提案したい。

以上

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

【考察】

もとの集合をでっちあげたのは私自身ですから、【答案例】は「やらせ」で暗号でも何でもないですが、資料を扱うような仕事をしている方であれば、これに似た仮説的な整理・分類を日常茶飯に行っていらっしゃるのではないかと思います。

未整理の資料の束がある日、ドカンと送られてくる、さあ、どうしよう、というような場面ですね。

図書館が書物を整理するような場合であれば、ここでやったように自前で仮説を立てるのではなく、日本十進分類法(Nippon Decimal Classification = NDC)などの既存の標準化されたルールに照らして書物に番号を振り、所定の書棚に仕分けすることになるのだと思いますが、

資料の調査は、そのような既存の基準がないところに分け入るのが普通ですから、どうしても、整理に「仮説」が入り込まざるを得ません。

考古学も、中世教会音楽史も、地歌箏曲や尺八古典本曲の研究も、どこかで誰かがこういう「仮説的分類」をやるところからはじまっているはずです。

      • -

そしてこのような整理が一定の段階まで進んだところで、抽象化した議論へ進むか、仮説の検証などの資料調査の洗練へ進むのか、決定的な「枝分かれ」が起きるような気がします。

前者の抽象論へと、先の集合の例を推し進めてみましょう。

上記の集合1〜3のような「五文字集合」のほかに、連続する3つの文字から成り立つ集合4〜7が発見されたとします。

集合4 = { t, r, S }
集合5 = { A, c, B }
集合6 = { x, Z, Z, y }
集合7 = { O, M, n }

ところが、こちらは同じ文字が重複していたり(集合6における「Z」)、ひとつの集合のなかに相当な頻度で大文字と小文字が混在している。

そうした場合に何が起きるかというと、

とりあえず、集合4〜7についても、先例に倣って「三文字集合」と呼ぶことにして、今度は、「五文字集合」の五文字性と、「三文字集合」の三文字性の共通点や相違点に関する議論が発動する。そうしてしばらくすると、「五文字集合」は地域αにのみ見られるものであり、「三文字集合」は地域βに特有であるということが判明して、「五文字」vs「三文字」問題は、地域αと地域βの共通点と相違点に関する包括的な議論へ繰り込まれることになる。

そして、一般向けの啓蒙書のなかで、「地域αには礼儀を重んじて、我慢強い気風がある。大文字・小文字を厳格に区別した上で要素数の多い文字集合を使用するのはその現れである。これに対して、地域βの人々は、概して気が短く、場当たり的に物事を処理する。大文字・小文字の区別にこだわらず、使用する文字集合の要素数が少ないことからも、こうした気質が裏付けられるであろう。」などと書かれたりする。

あるいは、地域βに広く普及している宗教で「3」という数字に重要な意味が与えられていると判明して、「三文字集合」に宗教的な解釈が施され、「地域βの三文字文明」という呼称が一般化して、学校教科書にも記載されるようになる。さらには、これと対抗するかのように、地域αの宗教が調査されて、やや強引であるとの異論を押し切る形で、地域αを「五文字文明」と呼ぶ論客が次第に増えていく……。

文字集合の仮説的な分類に過ぎなかったものが文明論へとフレームアップしていくわけです。

文明の生態史観 (中公文庫)

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さらにお伽噺を続けます。

そもそもの集合1における例外的な「X」や、集合2における「Q」の欠落はどうなってしまったのか、集合6における「Z」の重複の処遇はどうなってしまったのか、と心配になりますが、こうした例外も一定の役割を演じることになるみたいです。

たとえば、地域βが、新たに三文字集合の発見された地域γと「三文字同盟」を締結して、地域αと全面戦争に突入する。そして「五文字」vs「三文字」という枠組みを疑った学者は「非国民」として生命を危険にさらされ、実際に公職を追われる事態が起きたりする。例外を認めるかどうか、「五」vs「三」という枠組みを受け入れるかどうか、ということが政治問題になり、学問がそこへ巻き込まれる暗黒時代です。

レッドパージ・ハリウッド―赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝

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一方、反戦・反政府地下組織の間では、「3」でも「5」でもない、四文字の暗号が同志の符丁になるといったエピソードを織り込みつつ長かった泥沼の戦争が終わると、平和と新秩序のシンボルとして、国際文字集合研究所が設立されて、文字集合の要素数を固定しない「可変長主義」が試験的に試みられる。

しかも、これまで例外とみなされてきた「X」の付加、「Q」の欠落、「Z」の重複という3つの事実が戦後世代の継承すべき先駆的な原理として熱心に研究されて、付加・欠落・重複の三原則にもとづく文字集合操作の可能性が様々に議論され、文字集合の大胆な編集を打ち出す前衛グループ「XQZer」(エクスキューザーと読む←今勝手に決めた読み方だが)が脚光を浴びる。

ゴダール的方法

ゴダール的方法

ゴダールを分析するならこういうアプローチになるだろうとは思いますが、フィルム(1秒24コマ)ではなく、DVDから「個人として楽しむ目的で」リッピングした動画(1秒24フレームではないので、この本のように、各ショットの長さをコマ数ではなく「およそ何秒」と記述するしかない)を素材とする研究に学位が授与される、というのは学問的厳密さと日本国の法制度の観点からどうなのか(笑)。

ゴダール的な電光石火(2時間の映画を撮るくらいなら、その時間でもう一本映画を撮ったほうがいい)に、高度情報社会の電光石火(50年代以来の伝統があるエリート大学人のサブカルチャーとしての誇り高きハッキング文化)で対抗するのは、煎じ詰めると、スイス生まれのブルジョワのずうずうしさに、日本の学歴社会の頂点へ登り詰めた男の子に周囲が黙認するワガママが拮抗しうるか、という泥仕合になってしまいそうな気がします。

それは結果的に、ゴダールくんはボクと同類(ただし親近感はどこかヴァーチャルで、「ジャン=リュック」とファーストネームで呼ぶ感じではなさそうに見える)、と著者が対象へ甘えていることになりはしないか。それでいいのか、ということがいずれ問われるのではないでしょうか。

あるいは、考え得るあらゆる操作を網羅した「総可変長主義」を提唱する人物が時代の寵児となり、高等数学を援用する者、確率論の導入、コンピュータを用いた文字集合の自動生成など、百花繚乱。知識人たちは、これこそが学問と知性に依拠する未来の文化への道であるとして、可変長主義を歓迎するが、世間一般では、「わけがわからない」と敬遠され、相変わらず従来の「五文字集合」や「三文字集合」が使われ続ける。

……ここまで来ると、「20世紀音楽史」になぞらえたお話になりすぎて、わたくしの想像力がいかに貧困であるか、恥をさらすだけになるのでもう止めますが、^^;;

(ここから先は、発想を変えて、各集合における文字の並びから「B.A.C.H.」とか「A.S.C.H.」とか「D.S.C.H.」などのアナグラムを読み取り、意味の次元という底なし沼へ分け入るべきなのかもしれませんし……。

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

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あるいは、根本的な前提として、文字集合をabc....xyzという順序に並べ替える処理を自明の前提としてしまっているけれども、本当にそれでいいのか、ということが検討されていない。いわば「アルファベット中心主義」である、という批判を免れないかもしれませんから(苦笑)。)

日本音楽の再発見 (平凡社ライブラリー)

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「西洋中心主義」を糾弾し、音楽における「文化相対主義」を高らかに宣言する日本語の民族音楽学の啓蒙書が何かあるはずだと探してみたのですが、大学の日常の研究指導や学会討論で何度となく口にされていた割には、そうした主張を正面切って展開する範例的な書物が、実は見当たらないことに気づき、愕然としました。

当時はアジア・環太平洋の調査にジャブジャブ助成金が出る文化人類学バブルで先生方は日々の仕事に忙しく、理論的な著作をまとめる時間や余裕がなかったということでしょうか。

1980年代に阪大音楽学の学生を責め苛んだ、あの「文化相対主義」イデオロギーとは何だったのか?

文化人類学への招待 (岩波新書)

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山口昌男の講演会を大江健三郎が聴講する、そんな時代でした……。たぶんこのあたりが、武満徹もそこへ関わることになる雑誌『へるめす』の原点か? サントリー音楽財団も『ポリフォーン』という立派な雑誌を出していましたね。
文化の否定性

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そして青木保の本は、通俗化した相対主義への批判であるらしかったのだけれど、当時読んで、ちょっと論旨を取りにくい本だと思った記憶がある。
無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に (岩波現代文庫)

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結局、この人が偉かったということだと思うのですが、川田順造の影響を受けたと思われる日本の音楽人類学の方々は、お書きになる文章が妙に「文学的」で、討論へ開かれていない感じがあったように思います。

構造人類学が文学趣味でラッピングされて音楽研究へ入ってくるという現象は、何だったのでしょう?

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

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文化人類学の文学趣味は、日本に文化人類学が「渡来」したときに、紀貫之以来の紀行文学の伝統がその受け皿になった、というような「文化触変」の枠組みで理解すればいいのでしょうか?
平安京 音の宇宙―サウンドスケープへの旅 (平凡社ライブラリー (508))

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そういえば、中川先生は京大文学部を卒業して大学院から阪大音楽学でしたが、阪大文学部は、共通一次(共通テスト)導入以後、このクラスの国立大学では珍しく、二次試験は数学がなく、国語・英語のみ。世間で小論文入試が流行るより前から、国語の入試問題に自由度の高い小論文が課されていたんですよね。私は「作文」が苦手だったのですが、阪大文学部は、文章を書くのが得意な人を歓迎する「文系」度の高いところだったのかもしれませんね。

(受験技術的に言えば、二次試験で点差があまりつかないので、共通一次の比重が大きく、結果的には、マークシート試験で平均的に点数を取る穏健な優等生タイプの人も多かった。「作文一発」タイプと平均点が高いタイプは、教室でも、一目でわかるくらい、はっきりキャラが違っていたような気がします。特に私が受験した年は、蓋を開けてみると、この年だけなぜか志願者が少なく、競争率は2倍以下。共通一次が一定の得点以上であれば余裕で合格可能で、なおかつ、「作文力」による一発逆転も可能な状態になっていました。二極分化がはっきりした学年だったような気がします。私はどっちだったのだろう……。

私の通っていた高校は、一・二年生の間は文系・理系のクラス分けがなく、物理は明確に「嫌い」で(力学のきめ細やかな計算式を解説されても、「ホンマかいな」と実感が沸かなかった^^;;)、数学は異常に優秀なベテランの先生が多く(府立高校でも当時はまだ○○高校勤続何十年が許されていて、まるで歴史のある私立学校みたいだった……)、割合好きだった記憶がありますが……。(所詮は高校数学ですから複雑なパズルみたいなものですが。)

そして高校の卒業生名簿を旧制中学まで遡ると川端康成、大宅荘一、松下眞一、井上究一郎の名前が載っていますが、特に戦後は毎年何百人もの卒業生が出ているわけですから、一般論として、それ自体は名簿上の抽象的な事柄で、あの人も私も同じ日本国籍である、というのとあまり変わらない薄い縁であるような気がします。川端も大宅も、究一郎個人訳プルーストも、まともに読んだことはないですし、(特に60年代末の学園紛争以後は)「愛校精神」を鼓舞したりしないリベラルを校風としている感じだったようですし(=「管理教育」が言われる直前の時代)。

わたくしは高校も大学も「ヌルイ」環境で生きてきて、だから、音楽学の世界で「効率的な出世を目指す大学人」とか、「イデオロギッシュな相対主義」を目の当たりにして、こういう人が本当の本当に実在するのだ、と驚いたのかもしれません。その驚きをどうすればきれいに説明できるのか、ということをずっと考えているのかもしれません。

こういう感覚が、江川卓事件(「空白の一日」といって今の若い人に通じるのか?)をきっかけにして「新人類」と呼ばれたのも今は昔……。)

ともかく私は、歴史にせよ文学・芸術学にせよ、社会科学にせよ、データを直接取り扱う分野は、ほぼ、工学・エンジニアリングだと思ってしまうのです。

こういう発想は、工学部が2つもある大学で14年も過ごしてしまったバイアスなのでしょうか?

この種の舞台裏が見えないように仕上げて出荷された製品の「ユーザー・エクスペリエンス」は確かに大切なのですけれど、そこを特権化して、そこへ立てこもられてしまうと、同じテーブルで話をする糸口が見つからなくなる気がするんですよね。

監獄の誕生―監視と処罰

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そうならないために、しかるべくインターフェイスをデザインしましょう、「ユーザー」と「エンジニア」の間での安全・快適なコミュニケーションを実現するのが、「規律訓練型」に代わる「環境管理型」の新たな将来性ある統治モデルです、ということになっていて、

大筋では、それは悪くない話かもしれないと思って色々勉強しているつもりなのですが、

功を焦ったせいなのか例外処理が稚拙だったり、話題性のある目新しさ優先になる事例をみると、そこは本筋じゃないだろうに、勿体ないと思ってしまうのです。

でも、理屈ではなくそういう部分への偏愛があったりするらしく、迂闊に指摘すると拗ねられたりする。^^;;

私は独身なので子育ての経験はありませんし、特定の個人と師弟関係を取り結んだ経験もないので、実感としてはわからないのですが、人を育てる、あるいは、勝手に育つのを見守りつつ「環境管理」というのは、きっと色々大変なのでしょうね。

(そして、おこちゃまユーザへの対応という点においても、エンジニアリングの世界には、人文学や社会科学を凌駕するノウハウが実は蓄積されていたりするのではないかと秘かに思っているのですが、そこまで言うと、工学を美化しすぎでしょうか?)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

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P. S.
シンフォニーやオペラや「歌」にはもっと様々な見方、接し方、楽しみ方があると思いますが、私は音をめぐるヒトの営みを「music」の語でとらえるときには、この種の知的操作が絡んでいるような気がします。というか、この種の操作こそが「音楽」のコアであると思ってしまうのです。

(そしてこれは、「音楽」に関わる人なら誰でもどこかでこうしたコアに触れているだろうという意味であって、知的操作が露出しているとされることが多いバッハのような音楽家だけが偉いわけじゃない。バッハの「偉大さ」という言説は、エンジニア内部の評価とは別のレイヤーで流通している、ほぼ「ウェブ2.0」と同格の営業用バズワードだろうと思っています。)

[付記]

誰に答えるともなく……。

  • (1) 「創造create」の語を神=絶対者の業と考えずに、ほぼ「作る( = build? make? compose?)」と同義、もしくは、もったいぶった、いわば「作る」の雅語として使う
  • (2) 「創造create」の語を人間の所業については原則として一切用いない
  • (3) 「創造create」の語を神から授かった天才の所業の意味で用いる

日本語では(1)が多数派で、ただし、翻訳語としての語源を意識するような、いわば「知識人」(自称か?)の間では、(2)の節度を保つ立場があり、「知識人」の間でも、今では(3)は少数派なのではないか。そして(2)と(3)の分かれ目は、「天才」概念を信奉するかどうか、なのでしょうね。

私は、モーツァルトについてであっても「創造」の語は使わない気がします。

一方、「アート=藝術」は人間の技・藝だと考えるので、特に最近はこの言葉を使うことに抵抗感がなくなりつつあります。アーチストとアルチザンの区別は、歴史的・制度的なものでしかない気がしており、藝や技を身につけた人が文脈に応じて呼び分けられているだけのことではないかと思っています。要するに、私は「天才」概念へのこだわりが薄いです。

「創造」の語の使用に気を遣うのは、自分が一神教(絶対者)を信仰しているわけではなく、そういう方が「創造」の語をお使いになることを妨げる気はもちろんありません。私のほうでは、「創造」という言葉を使わなくても当面不便を感じておりませんので、という感じでしょうか。

なんとも凡庸な態度ですが……。

あと、藝術において持って生まれた気質を重視するかどうか、に関しては、「持って生まれた気質」として、その個体に固有とされる性質(いわゆる個性characteristics)を重視するのか、それとも、広く人類一般が備えているとされる性質(いわゆる自然=本性nature)を重視するかで、19世紀が18世紀と区別されるのだ、と学んだ記憶があり、なんだか懐かしい。

(ダールハウスがしきりにそういうことを書いていた。対象を「世界にひとつだけの花」と讃えるロマン主義と、「あなたもわたしもみんな花なのです」と啓蒙する古典主義は、トポロジカルには同一である、と。)

マールプルク読解では、そのあたりの話がアップデートされることになるのだろうか?