ラトヴィアの「カルメン」

ビゼー:歌劇《カルメン》 (メトロポリタン歌劇場) [DVD]

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ボローニャ歌劇場の「カルメン」、東京公演があと1回あるようですが、これは、ラトヴィア出身のエリーナ・ガランチャが上のDVDのメトに出るより前にラトヴィア国立オペラでやったときのプロダクションをボローニャが買った、ということのようですね。

検索したら、林田直樹さんがラトヴィアを取材したときの記事がありました。(ブログの最新記事で、今回の「カルメン」の感想もあり。)

http://linden.weblogs.jp/blog/2010/08/%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%93%E3%82%A2%E5%A0%B1%E5%91%8A.html

人口200万強の国の国立歌劇場。公式サイトで、内部の360度ビューを見ることができるようになっています。平戸間に並んでいる椅子は一列22席なので、それほど大きな舞台ではなさそうです。

http://www.opera.lv/en/about-us/galerija/

ラトヴィアから世界の大舞台へ羽ばたこうとしている歌手が「カルメン」に初めて挑戦する場として母国の劇場を選んだ、というのはとてもいい話ですし、幕が開いて、目の前にあの舞台がドーンと広がったら、客席との一体感は特別なものだっただろうと思います。

舞台を見上げるというのではなくて、旧ソ連時代にはラトヴィアもこんなだったよなあ、というように、舞台と客席が同じ目線でつながっている感覚が、このプロダクションの肝かもしれませんね。

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ボローニャに持ってきたときに、主要キャストはスルグラーゼをはじめとするビジュアル系で固めたわけですが、これは、もはやラトヴィアにおけるような「同じ目線」を客席に期待できない前提で、舞台を映画のように完結した世界にまとめてしまう狙いだったのかなあ、と思います。大時代的なヒーロー、ヒロインのお話ではなくて、今時の普通の若者のドラマという感じ。

でも、そうしたら、日本へ持っていくとなったときにホセもミカエラもエスカミーリョも交替することになって。公式発表はともかく、野次馬的に眺めると、ロック・バンドのメンバーが、とんがった連中であるがゆえにワガママを言い出したかのようにも見えてしまいますね。^^;;

私が見たのはびわ湖ホールの大きな舞台で、来日早々の初日。「たぶん、こういうことを狙っているのだろう」と想像しながら、でも、実際に見えて、聞こえているものの印象はそこからズレていたりして、焦点が合わない感じがつきまとっていましたが、19日の最終回は4回目ですから、もうちょっと整理されているでしょうか。

同じ劇場、同じキャストであっても、お芝居は公演を重ねるごとに少しずつ変化していくものですが、最近のように、国際規模で複数の劇場が共同制作したり、ある劇場のプロダクションを他が買ったりしないとオペラが成り立たない状態だと、なかなか大変そうですね。

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ドイツの音楽劇のように「作品」としての統一感を重視している演目の場合は、どこへ持っていっても通用する鉄板のグローバル商品を作りやすくて、そのあたりが、ワーグナーやモーツァルトで始まった「読み替え・新演出」路線の強みなのでしょう。

ヤナーチェク:歌劇《死者の家から》 [DVD]

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たとえばシェロー、ブーレーズが久々に組んだ国際共同制作のヤナーチェクは、ワーグナーやモーツァルトではなく、読み替えというのとも違いますが、本当に、どこへ持っていっても通用しそうな舞台だと思います。こういうのが今のオペラの一方の極点なんでしょうね。

ジャガルス演出の「カルメン」は、こうしてラトヴィアからボローニャ、びわ湖、東京と流れてきたわけですが、上演する場に応じて微調整しないと上手く機能しないところがあるプロダクションかもしれませんね。だからダメだというのではなくて、ナマモノっぽいところではあるでしょうか。

今回、ドラマの不在の守護神のようにあちこちに登場するチェ・ゲバラ。日本でカルメンだったら見に行こう、と思うお客さんは、どういう風に受け止めるものなのでしょう。というか、90年代のキューバにおけるチェ・ゲバラの位置づけというのは、結局、どういう感じだったのか?


どうでもいいのですが、この状況は、その結果殺されることになったとしても、ネトレプコではなくガランチャへ行くだろう、と思わないでもない(←バカ)。