『日本の翻訳論 アンソロジーと解題』

日本の翻訳論―アンソロジーと解題

日本の翻訳論―アンソロジーと解題

日本の近代詩がどうして七五調で改行という形式になったのか知りたくて、春に少し調べたときに(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140412/p2)見つけていた本ですが、後ろのほうに、太田龍男「スーパー・イムポーズにおける日本語の貧困」(1939)というのが取り上げられていた。弁士の活躍で人気を博した無声映画に比べると、トーキーの字幕スーパーはもっと頑張らねばならない、というような話。

今では日本のオペラ上演に字幕は必須。専門家がいて、専門の会社まであったりしますが、1986年の藤原歌劇団「仮面舞踏会」が日本で最初の原語字幕つきだったとされているので、まだ30年弱の歴史しかない上演形態ではあります(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130901/p1)。

DVDなどの映像コンテンツの日本語版の発売が予告より遅れることがしばしばあるのは、おそらく字幕制作が大変だからだと思うのですが、本当に映像・演出にぴったり来る字幕を用意しようとすると舞台上演でも映像コンテンツでも、こり始めると切りが無い分野だと思われ、舞台がダブルキャストだったりすると、それぞれで微妙にタイミングなんかが変わってきそうですし、それだけ苦労があるのに舞台は本番が1、2回、映像コンテンツも、映画に比べたら全然売れないのでしょうから、縁の下のものすごい力持ちですよね。

で、映画は1930年代から字幕スーパーに取り組んでいる大先輩。字幕翻訳に関する文献の紹介もあるので、いつかこのあたりの話で何かやる必要が出てきたときのために書き留めておきます。

(えっと、こんなタイミングでドサクサまぎれに書くのがいいのか悪いのか、という余談ですが、春先のコルンゴルトのびわ湖vs新国対決、様々な角度から色々な人が感想を書いてましたが、字幕については、びわ湖(蔵原順子訳)のほうが、新国(広瀬大介訳)より、目に入った瞬間に意味がわかる言葉選びと、音楽との合わせ方で、一日の長があったかな、と、わたくしは思いました。

ドイツ文学者や音楽学者によるオペラ台本の翻訳は、レコード、CDの歌詞対訳で既に長い歴史がある職種だと思いますが、たぶん、舞台の字幕装置と映像コンテンツ(VHS、LDからDVD、Blue-Ray)の出現で、求められるものが変わってきつつあるかもしれない気がします。

対訳は、原語と並べて照合する形式なので単語レベルでの対応、文法的な正確さをあまり外れられないと思うのですが、舞台や映像コンテンツの字幕は、舞台の流れに合わせた字配りと、状況にぴったり寄り添う言葉選びですよね、

映画にはオペラを継承している一面がある、ということが、映画音楽論で注目されるようになってきましたが、字幕業界的には、オペラの字幕が映画の字幕スーパーの経験とスキルから学ぶことが色々あるかもしれません。

そして何が同じで、どこにオペラ独特のノウハウが入ってくるのか、台詞劇や映画の演技術とオペラの演技術の違いと連動するところがありそう。

DVDやBlue-Rayは、仕様で文字の出し方にそれほどヴァラエティをもたせられないのかもしれませんが、舞台の字幕装置は、表示のOn/Offのタイミングだけでなく、じわじわ文字を出す/消す、ぱっと出す/消す、みたいなこともできると聞きます。Allegro con brio の字幕と、Adagio espressivo の字幕、緊迫したシェーナと平穏なアリアと、退場前の拍手を誘発するカバレッタの字幕、みたいなことがあり得そうです。

そしてさらに、常に1行or2行ずつでなく、キーワードを目立たせる割り方とか、この単語は音楽のここのタイミングと合わせて出せるようにしたほうが効果的だろう、とか、考え始めると、もう、演出の領域ですよね。

オペラの字幕は、研究者が結構本気で取り組んでいい分野なのかもしれない。)

[とはいえ、舞台装置の操作や照明・字幕などの裏方さんは、このあいだのびわ湖のアカデミーのときは全員リハーサル室の同じ空間にいたから、歌手の呼吸を直接感じながらの作業がある程度まで可能だったみたいですが、実際の大劇場では、周りから遮断されたブースや制御盤にスタンバイして、舞台監督や助手さんのキュー出しだけが頼りだったりするわけですから、職人芸ですよねえ。そういうのも含めての劇場なんだなあ、と改めて思います。]