- 作者: 馬飼野元宏
- 出版社/メーカー: シンコーミュージック
- 発売日: 2014/06/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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1970年前後というか昭和40年代半ばの私らが物心ついた頃は「フォーク歌謡」全盛期だったんだな、ということがわかった。
ニューミュージックから振り返ると、圧倒的に「サウンドが貧しい」わけですけれども、子どもですから、テレビの四角い箱の中から流れてくる「うた」というのはこういうものなんだ、と受け止めていたような気がします。
ほとんど白鍵だけ、みたいな音階をなぞる言葉に慎ましいギター伴奏が添えられたものが普通にある世界。
それは、子どもでもすぐにマネできそうに見えるから、それなりの利点があったと思うのですが(当時はニューファミリー向けの「日曜大工」というのも流行ってましたよね、アニメやマンガにも、犬小屋を作ろうとして失敗するドジなお父さんが出てきたりしたような気がする、Do It yourself)、
少し下の世代になると、ニューミュージック(ユーミンとかオフコースとか井上陽水とか、ということでいいのでしょうか)から記憶がスタートして、そうすると、商業的に成功しうる音楽は、必ず、容易に分節(耳コピー)できない「サウンド」でお化粧が施されているものだ、という認識がすり込まれていたりするのだろうか?
どこを入り口にしたとしても、そのうち、世の中にはいろんな音、いろんな「うた」があるとわかってくるから、世代は大したことじゃないとは思いますが、
オペラがポリフォニックにゴテゴテしたのじゃない「サウンドの貧弱な音楽」としてスタートしたんだ、という風にフィレンツェのカメラータの意義を重視する歴史の語り方は、オルフェウスをシンガーソングライターの元祖とイメージしているところがあって、フォーク的オペラ観なのかもしれませんね。
最近は、その前にも後にも歌あり踊りありの様々な祝祭行事があって、カメラータの潔いモノディー様式の音楽劇は、そのなかの、ちょっと毛色の変わった趣向、くらいに相対化して捉えられつつあるように思いますが、
だとしたら、
「サウンドが貧弱だと何を楽しんでいいのかわからず、すぐに退屈してしまう人」
というのは、今も昔もいたんでしょうね。
隅から隅まで、そういう人が退屈しないようにびっちりお化粧が施されているのは、これもまた息苦しいわけですが。