分析・編集・反復

20世紀の「シリアス」(ほぼ「アート/アーティフィシャル」と同義)と形容される音楽から、それを「シリアス」であるという設定でプレゼンテーションするコンテクスチュアルな技術を取り去ると、音を音楽として構成する「それ自体で閉じた」技法は、音・音楽のパラメータ分析(無調・十二音技法、セリエリズムやスペクトル楽派がその代表か)、既存素材の編集(新古典主義やコラージュ、モンタージュ)、反復(ミニマリズム)くらいしかないような気がする。過去のアートとの連続性を確保したり、外部の「シリアス」ではない音・音楽たちとのつながりを確保しながら音を操作しようとすると、この3つの手法くらいしか出てこないということかと思う。

無調表現主義と新古典主義・折衷主義とミニマリズムは、20世紀のオペラの三大手法でもありますね。

(偶然性は、「作品」を根本から疑う理念ではないかと期待されて、いまだにジョン・ケージは神話的な名前だけれど、「管理された偶然性」はほぼ断片の反復のヴァリアントだし、ケージ派の偶然性は、楽譜や奏者の意図以外のどこかから、所定の記号処理やルール設定で音・音楽のパラメータを読み出すわけだから、実はパラメータ分析の変種だと思う。)

分析と編集は、それぞれシェーンベルク、ストラヴィンスキーというビッグネームと結びついて20世紀の初めからその姿勢が鮮明で、一方、反復だけで音楽を作るミニマル・ミュージックが脚光を浴びたのは1960年代だから、反復・ミニマリズムは戦後の新動向のような感じがあり、なおかつ、民族音楽との結びつきが指摘されたりするけれど、あのトリップ感が成り立つのは厳格なBPM(メトロノーム)があってこそですよね。

厳格なBPMを実現するビートを鳴らし続けることでリズム(反復)に関心を集める、というのは、本当に民族音楽由来なのだろうか? 打楽器(ドラム)が一定のリズム・パターンを反復してノリを作る、というのは、むしろ、20世紀の都会のダンス・ミュージックに固有の手法のような気がするのですがどうなんでしょう?

(少なくとも西欧では、和声的調性が成立して以後、ダンスのステップは、音を打つことではなく、ハーモニーの変化と関連づけられるようになって久しく、特定の楽器がビートを打ち続けることは、マーチにおいてすら、あまりなかったように思う。そして20世紀の新しいダンスのビートを打ち続ける手法は「黒人の太鼓」と認識されていたのではないかと思うのだけれど、だとしたら、ミニマル・ミュージックのBPMは、わざわざ民族音楽と言わなくても、既にジャズによって西欧・北米=北半球の音楽シーンにインストール済みの体験だったことになってしまいそうなのですが……。

ミニマリズムの起源が気になります。ここをうまく説明できると、音楽の20世紀の「短さ」がはっきりすると思うのです。)