「遅さ」について(仮)

『映像論序説』が面白い。

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

でも、本当に少しずつしか読み進めることができていません。そして、ゆっくりとしか読めないところが、この本の最大の特徴なのではないか、という気がしております。

関連して、tempoというイタリア語を「速さ」の意味で理解しがちであることは、もしかしたら、とても重大な誤訳なのではないか、音楽にも「遅さ」の魅力と快楽というものがあるのではないか、と思ったりしているのですが、

そしてさらに関連して、「○○である」と「○○ではない」を峻別し、「○○がある」と「○○がない」をくっきり線引きすることでスピードを稼ぐのは、かなりマズいのではないか?

(言語的にも be と not be の間に、can (not) be / should (not) be .... といったモーダルなグラデーションがあるはずなのに、あるいは、「ある」と「ない」が「存在する/しない」の問題ではなく、「現前するpresent/しないabsent」(=存在するが不在である等々)である事例をどうするか、とか色々ありますし、

このあたりは、「遅さ」や「躊躇い」の話であるとともに -- 唐突に話が飛びますけれども -- オペラといった劇場の機微の話とどこかでつながってくるのではないか(音が聞こえているけれども舞台上にpresentではないBandaの効果とか)、そしてそもそも、性急に断言する奴にオペラがわかるのか?(←暴言)

などと粗雑にあれこれ考えを巡らしつつあるのですが……、)

これも、前のエントリー同様、現在、複数の仕事が重なって大変なことになっておりますので、もしかすると、あとで書き足すかもしれない仮設エントリーとさせていただきます。