「Batti, batti、私をぶって」(作曲家の「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」について)

第一四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

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私は日本国籍を有する日本国民です。このページを今お読みいただいている方がどうなのか。わたくしと同じく日本国民でいらっしゃる方も、そうでない方もいらっしゃるかと思いますが、少なくとも私が「国籍」を有している国は、国の基本となる約束事のひとつとして、上のような条文を含む憲法を採用しております。

憲法は国とその構成員との約束事だと思われますから、上の条文は、能動態へ言い換えると、

「日本国は、国民を人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別しない。」

という意味だと思われます。原文には「法の下に」の但し書きが付いていますから、「法が及ぶ範囲においては、そうである(国民を差別しない)」ということになりそうです。

国民相互の私人間の行動には、いわゆる「公共の福祉」に反しないかぎり最大限の自由が認められているはずですが、他方で、「法が及ぶ」範囲では、「平等」(差別をしない)という原則が有効ですから、このような規定を掲げることによって、(そして具体的細目については、憲法に反しない法令等を設けることによって)「平等」で差別をしない社会を実現できるはずである。そのような方針をこの条文から読み取ってよいのだろうと、私は認識しております。

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一方、音楽というのは、「法の下=法が及ぶ」範囲ではない私人間の自由な営みとして、おそらく「公共の福祉」に反していないとの判断の下にであると思われるのですが、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係」と結びつけた格付けが公然となされる領域であるようです。

「○○のプレイは黒人ならでは、真っ黒だ」

等々ということが言われたりします。

そしてこのように音楽家の営みにその出生地(日本国憲法の言葉遣いに倣えば「門地」)の特性が影を落とすものである(それは歓迎すべきことである)という考え方は、藝術は天才の所業である、という18世紀以後、次第に幅をきかせるようになった考え方と連動していたようです。

「今日では「藝術」とされている営みが、まだ職人的な技術であると見られていた時代には、雇い主ならびに享受者(両者はしばしば重なっている)の意向が第一であり、画家や音楽家や作家は、どこの生まれであろうと、「郷に入れば郷に従え」であった。しかし、藝術家が「個人」として個体識別され、その「天才」が云々されるようになったとき、とりわけ、「天才」の現れ方において、その個体に唯一無二の「個性」が重視されるようになったときに、「天才」に恵まれた個体の出生地が、「個性」と不可分な土壌として、論評・関心の対象になった。」

と、おおよそ、このように説明するのが通説になっているようです。そして、

「ショパンは、亡命先のパリにおいても、ポーランドというその出自を忘れることなく、その「個性」を開花させており、一方、マイヤベーアは、なんらかの天分を授かったかもしれないけれども、イタリアへ行き、次にパリへ行きするうちに作風が折衷的となり、いわば「発育不全」な二流で終わってしまった。」

19世紀半ばには、たとえば、このような論調があったようです。(ダールハウスがシューマンの批評からこのように要約できる発言を引用していたのを読んだ記憶があります。)

勘の良い方なら、ご理解いただけるかと思いますが、このように作曲家の「門地」を問題にする議論は、一方で民族性やナショナリズムを藝術の領域に招き入れる回路であると同時に、「国際人(コスモポリタン)」や「流れ者」を蔑視する風潮に棹さす危険を孕んでいます。マイヤベーアやメンデルスゾーンをめぐる19世紀から20世紀前半の議論では、かれらの「折衷的」な音楽様式が、いかにも「ユダヤ人的」(故郷を失った民族、というイメージを背負わされた人々としての)とされることがあったようです。

18世紀末以後、ドイツのユダヤ人の間で、自ら進んでドイツ人へ「同化」する動きがあったようですが、それは、こうした、のちの反ユダヤ主義の温床のひとつにもなった風潮を背景にして考えるべきことなのだろうと、私は理解しています。

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中東欧の音楽家が西ヨーロッパへ進出する場合にも、同化とナショナリズムの狭間での葛藤は少なからずあったようです。たとえば、ドヴォルザークは、「ご当地もの」のスラヴ舞曲が大ヒットする一方で、自作が「ボヘミア的で当地になじまない」としてウィーンのフィルハーモニー演奏会から演奏を拒否されたこともあったらしく、彼のいくつかの過剰にブラームス風な器楽作品は、ドイツ音楽へ「同化」しようとする試みだったのではないか、と私は考えています。(ドヴォルザークが「ボヘミア流」に開き直ったのはかなり遅く、アメリカへ渡る直前だったのではないかと私は思っています。)

また、チャイコフスキーの音楽には、理想化され美化された西ヨーロッパへの憧れと、バラキレフから吹き込まれたナショナリズムの間を揺れるようなところがありますが、そもそも彼が師事したアントン・ルビンシュタインはドイツ系ユダヤ人で、「私はロシアではドイツ人だと言われ、ドイツではロシア人だと言われ、世界中どこでもユダヤ人だと言われる」(New Groveで見かけた記述だと思うのですが、記憶が曖昧で、言い回しは不正確かも、すみません)と自嘲していたのだとか。チャイコフスキーの周囲に渦巻いていた問題は、単純に「西欧vsスラヴ」と割り切れるものではなかったように思われます。

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そしてマーラーです。

マーラーは、何が彼の「地声」なのか、ということを言うのが極めて難しい音楽家ではないか、という気がします。オペラ劇場の指揮者として、様々な役を「演じる」(演じさせる)立場にいた人ですが、それなのに、オペラや交響詩を書くのではなく歌曲と交響曲に固執するのは、なんだか正統派ドイツ人を「偽装」するかのようですし、彼の音楽を聴くと、「偽装」しつつ必ずその偽装が破綻して、そこから魑魅魍魎のように無数の声が湧き出てくるような作りになっているように思います。そんなことをすれば、いかにも「折衷的」で「ユダヤ人的」だと言われるに決まっているわけですが、それをわかったうえで、言いたい奴は言え、と、開き直って、自ら傷口に塩を擦り込んでいる感じがします。

そんなマーラーが、カトリック聖典とゲーテの「ファウスト」という、神聖ローマ帝国ならびに新生プロイセン帝国(いわば大ドイツ主義と小ドイツ主義)それぞれの精神的支柱と言えそうなテクストを用いた超大作に続いて、「大地の歌」では、究極の偽装・コスプレと言うべき異国趣味の中国ものに手を出したわけで、およそ「地声」が響くはずのない音楽に実存を賭ける凄みのようなものをこの作品から受け取るべきなのかなあ、と私は思っています。

先の大阪フィルの曲目解説では、「ウィーンのユダヤ人マーラーが作曲した中国の歌」と書きましたが、そこで言いたかったのは、これがキメラ状の作品だ、ということでした。別に、「ウィーン的なもの」+「ユダヤ的なもの」+「中国」という足し算でこの作品をすべて解析できる、と考えていたわけではなく、そのことは、前後の文脈や、あとの曲そのものの解説から読み取ることができるのではないかと考えておりました。

それから、「ウィーンの」というのは、とりあえずウィーンを拠点にしている時期にこの曲を書いた、という程度の意味です。正確には、ウィーンのポストを退くことが確定的になってから書き始めており、しかも、実際の作曲をした夏の別荘はチロル地方にあったそうですから、ウィーンで作曲したわけではないですが、今回は、前プロがウィーン近郊で19世紀始め(ということは「大地の歌」が書かれたほぼ100年前)に作曲されたシューベルトの交響曲ですし、「マーラーとウィーン」という文脈で書いたのがそういう趣旨だということは、割合はっきりわかる文章になっているように思います。

しかし、みんな忙しいのですから、うだうだと言い訳するのはもうやめましょう。(^^)

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マーラーのキメラ状の音楽は、どこかしらロールシャッハ・テストのようなところがあって、あまりにも多義的・多文脈的であるがゆえに、見る人が無意識のうちに自らのこだわりを投影した図柄を読み取ってしまうところがあるのかもしれません。「移入」を誘発しやすい音楽、という気がします。

わたくしの場合はどうかと言いますと、学生時代に長らくシューベルトの研究をしており、彼の10代の作品の曲目解説を書くのは、こういう仕事を始めた駆け出しの頃に弦楽四重奏曲全曲のライナーノートを書いて以来のことでした。ですので、今回シューベルトの若い頃のことを書くことができるのが、嬉しくもあり、甘酸っぱい懐かしさを感じながらのお仕事になりました。

ひょっとすると、そういう私情ゆえに、マーラーをウィーンに過剰に引き寄せる形で「移入」していたかもしれませんね。

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今月の大フィル定期演奏会は、シュトゥッツマン来日キャンセルというショッキングなニュースで幕を開けることになってしまったわけですが、

この事態への大フィルさんの対応、そして本番の演奏はほぼ完璧といっていいくらい最善を尽くされていて、終わってみれば、大成功だったのではないかと思います。

でも、ということは、「シュトゥッツマン来ないのかよ、ゴラァ!」と振り上げた拳がターゲットを失って中空を舞うことになってしまったとも言えるわけで、^^;;

そのように目標を失い、意識の領域からは排除され、下意識へと追いやられることになってしまった潜在的な怒りの矛先として、代役を踏まえた書き換えが間に合わずに印刷されてしまった「今月の聴きどころ」のオマヌケな文章は、格好のものであろうかと思います。

幸いなことに、わたくしがシューベルトの勉強をしていた頃というのは、岡田暁生に罵声を浴びせられるわ、このままやっても芽が出そうにないなあ、という不安に苛まれるわ、何年もつきあっていた彼女に振られるわ、しかも研究対象のシューベルトの後期というのは陰々滅々とした世界ですし、おそらくわたくしの人生のなかで、もっとも自己嫌悪の風土に浸りきっていた時期であったように思います。

それに、ザッヘル・マゾッホもオーストリアの人!

マゾッホとサド (晶文社クラシックス)

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マーラーとシューベルトに関する鈍重な作文をみなさまの攻撃衝動の格好の標的としてご利用いただき、わたくしが、心の傷にギリギリと食い込んでくる責め言葉の刃を喜悦とともに受け入れる、といったマゾヒスティックな状況を久々に反復・現出させるのも悪くないかもしれない気がしておりますので、皆さまの不満のはけ口として、存分にご利用いただければ幸いでございます。

モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」全2幕/ハーディング指揮 [DVD]

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「ぶってよマゼット、ねえ、もっと」(←不気味だから、やめなさい。)

でも、こういうのを含めてのウィーンなのだろうなあ、と思います。

(「ドン・ジョヴァンニ」の初演地はプラハですが、間もなくウィーンでも上演されていますし、ダ・ポンテと組んでウィーンで上演した「フィガロ」に続く作品ということが意識されていたと思われますし、いずれにせよ、モーツァルトの出生地ザルツブルクは、この一連の仕事に特段の役割を果たしていません。作曲者のファザコンが「ドン・ッジョヴァンニ」に影を落としているのではないか、という心理主義的な解釈があるにせよ……。

そしてモーツァルトがプラハでの人気を利用した面があり、そのことが、プラハの人々のハートをつかみ、「モーツァルトはプラハの作曲家だ!」という言い方がプラハにはあるようですが……。)