ナイーヴな日本の私

岡田[暁生]「僕は今日は、ナイーヴだといわれることをもうあまり気にせずに、話ができればと思っております。むしろできるだけナイーヴになりたい、と」

アルテス Vol.1

アルテス Vol.1

  • 作者: 坂本龍一,片山杜秀,吉岡洋,佐々木敦,大石始,石田昌隆,三上敏視,輪島裕介,川崎弘二,毛利嘉孝,谷口文和,山崎春美,長谷川町蔵,三井徹,加藤典洋,岡田暁生,椎名亮輔,高橋悠治,ピーター・バラカン,大友良英,三輪眞弘
  • 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
  • 発売日: 2011/11/25
  • メディア: 雑誌
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たしかにナイーヴではあるのだけれど、彼が「3.11芸術の運命」という鼎談で表白しているのは、ナイーヴな善意やナイーヴな警鐘ではなく、ナイーヴなナルシシズム(浅田彰の言いそうなことはボクだっていくらでも言えるんだ!とマスコミの風俗にからめてポストモダニズムを批判する、というような……でも、それ、みんな気づいてますから)だと思う。片山杜秀が「12.8」と重ね合わせて受け止めようとしている「3.11の事変」に、岡田暁生は酔っているのではないか。深呼吸して、落ち着こう。

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ポストモダニズム批判が、岡田暁生の手にかかるとどうにもきな臭い感じになる。「汗くさいオヤジ臭」と言い出すときの、ホモソーシャルでマッチョな感じのせいだろうか。

先をパラパラと拾い読みすると、輪島さんのカタコト歌謡論と、川崎さんの武満徹の電子音楽論が並んでいて、戦前の変なガイジンvs戦後の結核で死と向き合う武満徹、当世風の軽い文体vs端正な近代言文一致体で、ものすごい落差に衝撃を受けました。

どちらも先が楽しみ。

ただ、ちょっとだけ心配なのは、「横のものを縦にするハイカラ」という日本語洋楽のカタコト性は、レコード歌謡が嚆矢というよりも、前にちょっと書きましたが、

音楽取調掛の学校唱歌で五線譜に歌詞が横書きされているのは、純然たる左から右への横書き印刷物のかなり早い例のひとつであるようです。そして歌の楽譜というものは、表紙から何から全部の日本語が「横書き」が標準ですが、これは、明治の出版物としては突出してハイカラなことだったみたいです。

最近読んだ本三冊(学問がやってしまったことへの羞恥心を取り戻すために) - 仕事の日記(はてな)

たぶん、明治の学校唱歌がカタコト歌謡の元祖、ということになるんじゃないかという気がします。つまり、そもそもドレミの西洋音階にのせて日本語を歌うということそれ自体が「カタコト」だったのだろうと思います。

(ひょっとすると、連載の先のほうでこの話が出てくるのかもしれず、ネタを割るようなことになってしまっていると申し訳ないのですが……。

でも、日本語のオペラというのにつきあっていると、人はどうやって「カタコト」性を処理してきたか、葛藤や開き直りの歴史に気づかざるを得ないですし……。浅草オペラは、たぶんバタ臭い。それに、武智鉄二が仕掛けた狂言風の台詞まわしの音楽喜劇(「赤い陣羽織」)や大阪言葉のイントネーションのオペラ化(「夫婦善哉」)は、「カタコト」の違和感と、古典芸能の語りに現代人が感じる違和感とを掛け合わせたところに、チープないかがわしさスレスレのアヴァンギャルドが発生すると見込んだのであろうと思うので……。

シリアスな洋楽は「バタ臭い」もので、昭和のレコード歌謡は「ハイカラ」。この微妙な差異が重要、というようなことになるのでしょうか。)

横書き登場―日本語表記の近代 (岩波新書 新赤版 (863))

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