無題

どういう風の吹き回しか知らないけれども浮かれる人々。

[12/6 追記あり]

今回の大会パンフレットはシンプルながら、サントリー学芸賞受賞者が広告担当で自分の本を褒め讃える広告を自分で手配したという羞恥プレイが売りのひとつ

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下品。

yskwjm 今まで講義では細川周平師匠がウォーラーステインを援用した「19世紀西欧的世界音楽システム」概念から話を起こしてたんだけど、「ヨーロッパ覇権以前の世界音楽システム」(少なくともその議論可能性)を考えんといかんよなー、でもどうやって、とか思った。民族音楽学者の皆さん、出番ですよ。

自分の疑問は自分で解く。(まずは、みんなに誉めてもらった新書で明らかに手薄であった明治の演歌師の話から。)

あくまで一般論として、主催者が事前に無闇に内輪で躁状態になっている行事は、通常ロクなものではないとしたものだが……。

[追記]

収支を合わせるためには一定の観客動員が必要であり、そのためには、学会にセンセーショナリズムを導入するのもやむを得ない、という意味に受け取ることができる反論を間接的に受信したので再反論。

  • (1) 今回の有料運営される大会に関してはひとまずそのような立論が成り立つとして、それでは、これまでに別の学会の入場無料の催しで、どうようにセンセーショナルな前宣伝を行った前例は、どのように理解すればいいのだろうか?
  • (2) もしかすると、今回の有料興行での「興行成績」を成功事例として他の学会にも導入することが目論まれているのであろうか? たとえば、現在無料で開催されている催しについても、「コンテンツ力」を上げて観客動員をアップして、しかるべきタイミングで有料化に踏み切り、学会の「興行成績向上」に役立てたい、という見通しがあるのだろうか?
  • (3) かりに(2)の推論が妥当であるとすると、それは、直接的には、一般に学会という団体が「営利目的ではない」ことによって身に帯びている特性や、様々な恩恵を手放すことになると思われるし、大局的に見ると、このように、「営利」の発想を従来それと無縁であった領域へ徹底的に拡張することは、グローバリズムそのものであると思うのだが、それでよろしいか?
  • (4) そして(3)の断定が妥当であるとすると、当該「大会実行委員長」氏の日頃の口癖である「グローバル人材」育成路線への呪詛の言葉と、整合しないように思われるのだが、これは、どのように理解すればいいのだろうか? つまり、こちらでは「グローバル人材」を呪っている人間が、いざ当事者になると「グローバリズム」を推進している、という二枚舌な絵図に見えるわけだが……。
  • (5) (4)に関して、おそらく整合的な説明(言い訳)は、グローバリズムを「私は積極的に推進しているわけではなく、“いやいややっている”に過ぎないのだ」というものではないかと思われるのだが、それでよろしいか?

(実は、「グローバル人材推進」に加担するのが嫌である理由は、実は「趣旨に賛同しないから」という以上に、たくさん書類を書くのが辛い(内容が何であるを問わず)ということに過ぎないのではないか、という気がしないでもなく、そうであれば、彼にグローバリズムやグローバル人材育成論という議論の「内容」に関してここで何かを言っても無益かもしれないのですが、とりあえず、ひととおり書きます。)

私見では、グローバリズムなり「グローバル人材育成の推進」なり、という事態の成否は、そこに積極的に賛同する人の数ではなく、いやいやであろうが消極的であろうが、それを邪魔しないで見過ごしてもらえるか否か、にかかっているように思われます。

どのようなムーヴメントであれ、その中核となる「活動家」の数など、たかが知れています。通常、でかいことをやろうとする人、いわゆる「ヘゲモニー」を握ろうとする人は、他者の賛成or反対という言明ではなく、自分のやることを邪魔する人間かそうではないか、というところを見ているのではないでしょうか。そして、口では愚痴をいいつつ、どんどん流されていく「弱い環」な人材こそが、「期待される人物像」なのであろうと思われます。

(そして、やや議論に飛躍があるかもしれませんが、「ロック」というのは、それがどのようなメッセージを発しているか、というのとは別に、社会のどこに「弱い環」な人材がいるか、ということをあぶり出す。そのような性質をもつからこそ、20世紀後半に、ロックは、いわゆる「反体制」な方々にとっても、「体制」な方々にとっても重要だった。そういうことなのではないかという気がするのですが、これは別の話。閑話休題。)

      • -

とはいえ、もちろん、当該実行委員長氏は、ロックの専門家であり、発話というものは「記述レヴェル」とは別の「遂行」の水準をつかまえなければどうにもならない、ということを先刻ご承知な方ですから、こうした諸々は釈迦に説法であろうと思われます。

今私が考えているのは、申し訳ないことですけれども、自分が所属していない学会の行事の成否はどちらでも良くて、「この人が、自分の所属している学会で同じことをやるようになったら嫌だ」「そうならないように、気をつけて事態の推移を見守ろう」ということに過ぎません。

ご本人も、「会員を“数”としか見ないような思考に慣れてしまう自分が嫌だ」という意味の発言をしていらっしゃるので、責任ある役職が回ってこないようにするほうが、本人の意志にかなうはず。嫌だというなら、やらせない。それでいいはずですよね。

[余談]

ついでにもうひとつ。

これは、上の作文をしているうちに不意に思いついたことなのですが、わたくしが、当該実行委員長氏の発言にしばしば苛立つのは、ひょっとすると、彼が「オーダーメイドの議論」をする習慣を身につけていないことを残念に思うからなのかもしれません。

たとえば、彼の今回の宣伝文句は、対象となる人物を「サントリー学芸賞受賞者」にして学会の「広告担当」である、というように一般名詞の組み合わせで描写・特定しており、彼の行為の面白さは、「自分の本を褒め讃える広告を自分で手配した」という自己撞着的な、いわばアルゴリズム的な構造に見いだされています。

回文を面白がる、という点にもあらわれるように、彼の関心は、常に、一般名詞を組み合わせる構造、として発話されます。言葉がすべて「既製品」なのです。

実際には、特定の個人・個体の特定の行為や思考が指示され、そのような特定個体の特定行為・思考に関する発話が、特定の文脈におけるパフォーマンスとして機能することが言外に想定されているとしか思えないにもかかわらず、です。

それは、どこかしら、漢字の「音」で和歌を記述した万葉の時代の人々や、漢文体や雅文で恋愛小説を綴る明治の人々を連想させます。「男もすなる日記を女」もやる(という言い訳で男が仮名を使う)文化が育んだ言語を採用して発話しているのだから、もっと別の言いようがあるだろう、と思うのに、この一般性と実存を乖離させ続けようとする「こだわり」ないし「こわばり」は何なのだろう、といつも、そこが謎なのです。

彼の発話のなかにそれらしきものを探すと、「社会科学とはそういうものだ」という物言いが見つかりますが、実際の社会科学は必ずしもそうではないし、むしろ、社会科学のパロディに仮住まいすることで、彼自身が抱えている何かが辛うじて安定している、というように見えます。

文学部というところは、確かにしばしば、この種の、独自の言葉遣いの仮面をかぶりつづける人がいるところではあります。

外国文学の院生が海外へ留学して、日本人相手であっても絶対に現地語しか使わない、とか、あらゆる事柄を自分が学んでいる学科のタームの組み合わせで語る人とか……。

中島敦殺人事件

中島敦殺人事件

東京の大学院生同士が学術用語を交わしながらセックスする。非常に恥ずかしい。

そういうのは思春期の過敏な自意識が患うハシカのようなもので、通常は、そのうち環境が変化したり、別の語り方・書き方を習得することで症状が消えるものですが、

彼は、ずっとそのままなんですよね。

何なのでしょう。

言葉を変えると、アイデンティティが危機に陥るのではないかと過剰に怖がっているのでしょうか。

リミックスの論者として世に出た人なので、自らの言葉が既製品のリミックスであり続けねばならぬ、それが彼の社会的なペルソナだ、ということなのでしょうか。

それもひとつの人生ではあるのでしょうか。

まるでデーモン小暮閣下を相手にしているみたいで、だんだん面倒臭くなるんですけど。

(「5歳から大阪に住んでいるのにまともな関西弁がしゃべれないお前が言うな」という批判は甘んじて受けますが。^^;;)