分析哲学と「できるだけまっすぐな物差し」の寓話

クレタ島のウソツキ、とか、アキレスと亀、とか、日常性の哲学を標榜する方々はたとえ話がお好きなので、マネをしてみましょう。

「できるだけまっすぐな物差しを作るべし」

そう考えた職人がいて、彼の一族ではこれが家訓として代々受け継がれていたとしてみましょうか。

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この一族はものすごく真面目にこの家訓を受け止めて、徹底的に考え抜きました。以下、仮に彼らを「物差し一族」と呼ぶことにします。

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「できるだけまっすぐな物差しを作るべし」
の家訓は、職人としての腕を磨くことに貢献して、今では、「ものづくりは、物差しにはじまり、物差しに終わる」などと言われているようです。物差しに適した秘伝の素材が開発されたり、それを一切歪みなく仕上げる技とノウハウが積み重ねられ、「物差し一族」の製品は国際的なブランドになっています。

一方、一族のなかには、職人稼業から足を洗った分家がある。彼らは、ユークリッドというギリシアの哲学者の教説を仕入れて、「まっすぐ」とはすなわち、点と点とを最短距離で結ぶことであるとする。この「定義」を忘れないことが重要であり、実際にそれを「作る」ことは副次的だとこの分家は考える。この分家のなかでも過激な者たちはプラトンの洞窟の比喩をもちだし、「まっすぐ」は観念(イデア)であるとして、「まっすぐ」を奉る祭壇を作って、これを祖霊とともに崇拝しているのだとか……。

他方で、行動力のある分家の者たちは、今もその「まっすぐな物差し」をどこまでも延ばし続けているらしい。すなわち、働いて得た金で少しずつ土地を買い、そこへ「まっすぐな物差し」を作り足す。今ではその物差しは、隣国との国境を越え、さらにその隣国を越え、海を越える橋となり、山を貫くトンネルとなり、この分家は、交通・物流・通信のインフラを支配する国際企業になっているらしい。

ただし、このように物差しをどこまでの延長するためには、各方面との膨大な折衝が必要であることは言うまでもない。そしてその時に彼らの助けとなったのが、家訓に含まれる「できるだけ」の語であった。敵対する国へ入ることはできないし、どうやっても架橋できない海がある。彼らの作る「できるだけまっすぐな物差し」が、ときには大きく迂回して歪曲し、川のこちら側と向こう側の間でしばしば途切れていることは、政治における本音と建て前の使い分けの好例として、しばしば引き合いに出されるところであると言う。

さらに冒険心溢れる一派は大気圏を越えるに至った。地上を這うようにして延長された物差しは、いかにまっすぐに見えようとも曲がっている。この一派の祖は、「それでも地球は丸い」と言い放ち、一族の他の者たちと袂を分かったと伝えられている。宇宙に「まっすぐな物差し」を設置するにはどうすればよいか。そもそも、宇宙空間において「まっすぐ」とは何を意味するのか。彼らは今も、宇宙科学の最前線で挌闘を続けている。一説によると、はやぶさがイトカワへ到達することができた裏には、この「物差し一族宇宙科学分派」の助言があったとか、なかったとか……。

かくして、世界のあらゆる領域に「物差し一族」の末裔が暗躍するに至った。そしてそのとき、神はその子をこの世界へ使わした。その名は「分析哲学」。あまりにも分派しすぎた選ばれし民、「物差し一族」を再びひとつにたばねる、われらが救い主である。

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ある者は、救い主様が生娘の腹からお生まれになったと言い、ある者は、お生まれになったとたんにすっくと立ち、天と地を指差された言うのだが、そのような伝説はどうでもよろしい。

長じて、救い主様は、「はじめに言葉ありき」とおっしゃいました。

できるだけまっすぐな物差しを作るべし、と言いますが、「できるだけ」とは何なのでしょう、「まっすぐ」とは何なのでしょう、「物差しとは」、「作る」とは、「べし」とはいったい何なのでしょう?

救い主に従う者は、口々に彼らの思うところを答えました。すると救い主様は、優しく微笑んでお答えになりました。「あなたたちは、言葉で言葉を説明しようとしています。でもそれは、泥のついた布を泥水ですすぐこと、血で血を洗い流そうとすることではないでしょうか。新しい言葉を作りなさい。そして、森羅万象をその言葉で記しなさい。そうすれば、神は自ずから「まっすぐな物差し」をお授けになるでしょう。」

一族のおろかなる者が、救い主に尋ねました。

「我らが偉大なる救い主よ、わたしたちは、長い間、苦しい暮らしに耐えてきました。できるだけまっすぐな物差しを作るべし、と、ただそれだけを唱え続けてきました。神は、このうえさらに、新たな試練をお与えになるのでしょうか? できるだけまっすぐな物差しを作ることに、いったい何ほどの意味があるのでしょうか?」

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救い主は言いました。

あなたは今、いったい何ほどの意味があるのでしょうか?と言いました。でも、「意味」とはいったい何なのでしょう。意味が「ある」とはどういうことなのでしょう。「何ほどの」はどのように測ることができるのでしょう。ますそのことを、あなたは知らねばなりません。あなたは、あなたが使う言葉を心の鏡に映し、その有様をつぶさに知らねばなりません。神は神の言葉で話し。人は人の言葉で話します。そして神の国を知るためには、なによりもまず、神の言葉で話さなければならないのです。

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救い主に従う選ばれた者たちは、以来、「神の言葉」を話す祝福された民になった。

人の言葉を話し、神の言葉を解さぬ我々は、彼らの行く末を知るよしもない。

[付記]

分析哲学な方々の口調は、しばしば、コンピュータのハッカーさんの語り口に似ている、と私には思えることがあります。

論理学と、言語哲学や日常性の哲学(プラグマティズム)、そして、認知と知能への自然科学的なアプローチ、これらの交点に花を咲かせているのが分析哲学だと思いますが、この予め設計されたというより、成り行きで「発明・発見」されてしまった感じが、数学の計算(アルゴリズム)論と通信技術と暗号解読や情報理論の合流したコンピュータ業界と同型なのかなあ、などと思ってしまいます。

(ひょっとすると、チョムスキーの言語理論にも、似たようなところがあったりするのかも。フロイトの精神分析とシェンカー理論が流行るのにも相通じるところがありそうですね。)

何やら、新大陸へ移住したピューリタンの国は、ものごとをこういう風に編成していく癖があるようで、なかでも、大学へ立てこもっている分析哲学は、ピューリタンの移民国家が作り上げた日常性のスコラ哲学、という雰囲気が最も顕著であるように思うのです。

コンピュータ・プログラミングを知らなくても各種ガジェットや応用ソフトウェアを便利に利用できるわけだから、「分析哲学」様から使えるパーツを拾って活用させてもらえばいいのかもしれないのですが、

わたしは疑り深いので、どうにも、この「神学っぽさ」が気になるのです。

いかにも若い者(冒険心と、疑うことを知らないピュアな心がないまぜになった人々)をたぶらかしそうな教団という感じがするんですよね……。

東京が耶蘇風の分析哲学で行くんだったら、京都は、仏教に根差す「縁起哲学」(仮称、内容はまだ何もない)を構想して、脱アングロ・サクソンの可能性を模索する、とか。そういうことをしても、罰は当たらないのではないか、と思ったりする。

教団のなかで特別な言葉を交わすのは「信教の自由」だと思いますが、そのうち、泥水で泥をすすぎ、血で血を洗う生活のなかでそれなりの知恵を育んでいるかもしれない領域へ介入して、21世紀の異端審問をはじめるのではないか、と、そのあたりの攻撃性を警戒してしまうのです。

信仰や哲学は、たいてい二代目か三代目になると政治利用されちゃいますから……。そのあたりの安全装置を「分析哲学」は装填しているのかどうか。そこが知りたい。

(と、いわゆる「安全神話」を総点検しようと人々が言わざるを得なかった年の終わりに、分析哲学の「ストレス・テスト」(←首相が代替わりして、はやくも忘れ去られた言葉なのか?)を提唱する一口話でございます。)