「したり顔」について

したり‐がお〔‐がほ〕【したり顔】
[名・形動]うまくやったという顔つき。得意そうなさま。得意顔。「―で話す」

したりがお【したり顔】の意味 - goo国語辞書

[追記:大学の先生がブログの相手をするとは珍しいこともあると思っていたら、何やら「君が代」をめぐる事件報道があって、彼は今、主観的には、「君が代」評論家として売り込む大事なとき(?)であるらしい。テレビがないので知りませんでしたが(笑)。友だち・嫉妬といったウェットな言葉を持ち出す「いい人」マーケティングだな。周囲は別にたぶらかされているわけではなく、あまりに見え透いているから、逆になんとなく通ってしまい、結果的に本人が懲りずに同じままであるという何十周目かの堂々巡りが、こうしてまた繰り返される(のか?)]

おそらく、下のリンク先のエントリー、とりわけその追記に対してだと思うのですが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120311/p1

増田聡様から、間接的にではありますが「したり顔である」という趣旨のコメントを頂戴しました。

私は、自分の書いた文章の意図が上手く伝わっていないと考えたので、蛇足とは思いましたが、できるだけ事実を書き連ねる形を保って補足をしようと考えました。

それが、「うまくやったという顔つき」であると増田様に受け取られたのは、おそらく増田様が、対人関係において、「言葉そのものではなく、その裏にある欲望を探るべきだ」とお考えであるがゆえの勇み足であると思われます。つまり、

  • (1) 私の補足をお読みになり、
  • (2) 私が何を書こうとしたか、という狙いをご理解いただき、

ここまでは私がそのように意図した書いたことが伝わったわけですが、

ひきつづいて、増田様は、

  • (3) 当初自分が読み違えていたことを「しまった」等とお考えになった、

のではないかと想像します。そしてここで、先述の「言葉そのものではなく、その裏にある欲望を探るべきだ」という増田様の日頃からの考え癖が発動して、

  • (4) オレに「しまった」と思わせることが、白石の「欲望」であるに違いない

と推論されたのだと、私は僭越ながら推理します。そのような経路を仮定しなければ、「白石がしたり顔である」という判断に至ることができないと思われるからです。

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おそらくここで、増田様は2つの「考えすぎ」に陥っていらっしゃるように思います。

第1に、「人は欲望とは別の何かに駆動されて作文もしくはコミュニケーションを行う場合がある」ということ。

そして第2に、「読者としての反応を遡行的に反転させることによって書き手の欲望を探り当てるという方法、つまり、自身の内面に映った像の陰画として外界を表象するという方法論は、万全ではない」ということです。

第1の論点は、「人はなぜ書くか」「テクストとは何か」という問いとして、人文学が長年取り組んできた問題に関わります。欲望の発現ではないテクストをどう読むか、というトレーニングは、人文学の基礎のひとつとして大学教育課程で当然なされる科目のひとつであり続けているはずです。

そして第2の論点は、認識論の初歩のアポリアであり、哲学上、様々な対案が提出されていることは周知のことですし、音楽学のように対象を限定して取り扱う領域では、仮説的であることを引き受けた上で、外界の事物を取り扱う実証的な手順と方法が積み重ねられていることは言うまでもありません。

人文学の基礎の身に付いていない方が現在のお仕事をしていらっしゃるのは何故か、などということになりますと、何かと不都合があろうかと思いますし、同じ研究室で学んだ者として、「あの研究室は何だ」ということになるのはあまり嬉しいことではありません。

内部の人間は、あの頃の阪大音楽学は様々な混乱があり不作だったと知っているので、今更驚くことではありませんが、研究室の恥を公衆の面前でさらすのは止めて欲しいです。

もう一人前の大学の先生なのですから、自重してください。

「マスダさんらしくて、いいじゃないすか」と慕う弟分がいるかもしれないので、無理かもしれない、というか、無理なんだろうなあ、大変だなあ、と、半分諦めてはいますけれど。

でも、一方的に言われっぱなしではかなわんので、以上、あまり非生産的な言い合いならないように気をつけながら、最低限の反撃をさせていただきました。

[付記:わたくしは、学校・大学は油断すると在籍資格を剥奪されてそこから排除される可能性が基底にある場であると認識しており、もしかすると「友人・友愛」と呼ぶことができるかもしれない関係が副次的・暫定的に生まれたことがあるかもしれませんが、少なくとも私の通った学校・大学が、友人・友愛を育む場として設計されていると認識したことはありませんし(友人・友愛を育む可能性を秘めた場は他にいくらもある)、それを優先的に求めて通ったことは、残念ながら小学校以来ありません。

そういえば、友人・友愛の場ではない制度にそれを求めて集まる人がいる居心地の悪さを感じていたなあ、ということを今思い出しました。友人・友愛が、このように副次的に・何かに寄生する形でしか生じ得ないものであるとする前提に立てば、あるいは副次的に派生したものへ他と異なる特別な質を見いだし人は愛着を覚えるものであるという立場に立てば、同じ経験を別様に解釈しなおすことが可能なのかもしれませんが、それは、友人・友愛(に似たもの)の押しつけではないだろうか。]