集団が一斉に歌うのは難しい

「歌うことを強制される」ことは、いわゆる「君が代」問題にとって、本当にそこまで重大な争点なのかどうか……。

君が代のすべて

君が代のすべて

  • アーティスト: 国歌,納所文子,本郷小学校生徒,木下保,前場コウ,陸軍戸山学校軍楽隊,宮内省楽部,海軍軍楽隊,伯林フィルハーモニック管弦楽団,宮城道雄,海上自衛隊東京音楽隊
  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 2000/12/06
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あるときある場所にそれなりの数の人が集まって一斉に同じ行動をする意味や理由や効果は色々あると思いますが、「君が代」問題と呼ばれることのある案件は、歌が絡むので、日頃さほど耳目を集めることのない音楽研究者にとって、数少ない「目立てるネタである」であるらしい。

そして問題が解決すると話が終わってしまうので、ああでもない、こうでもない、と話をかき混ぜるのが、ネタを長持ちさせるコツであるらしい。

だから、モグラ叩きのように手をかえ品をかえなされるであろう「話題作り」につきあっても仕方がないと思いますが、

あるときある場所にそれなりの数の人が集まって一斉に同じ行動をするのは大変です。そして「一斉に同じ行動」を達成する上で、「強制力」の果たす役割や有効性は極めて限定的なのではないか、という漠然とした予感があります。

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CGが一般化する前の映画では、エキストラを大量に動員するスペクタクル作品がありましたが、

見世物として使える品質の「一斉に同じ行動」を実現するのは、ギャラを払って雇われた人たちが、最初からそのことを目的とした集まっている場合であっても相当難儀なことで、悲喜こもごもの撮影悲話の温床になっている印象があります。

「圧倒的なシーン」を実現しているとされる映画もありますが、それは、映画というメディアの性質上、ある特定のポジション・アングルに据えたカメラを通して見た場合に「圧倒的」であるような行動が少なくとも一回なされた、ということで、他の視点から見た場合にその集団一斉行動が「圧倒的」だったかどうかはよくわからない。そもそも、本当に集団が一斉に行動したのわけではなく、何らかのトリックが仕掛けられていることもありそうです。

「強制力」以外の数多くの要因が複合してはじめて、映画における「一斉に同じ行動をする集団」の映像が私たちの元へ届くのだと思います。

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集団の一斉行動というと、しばしば反射的に全体主義国家を連想して、ナチスのオリンピックとか、北朝鮮のマスゲームを引き合いに出すことがあったわけですが、私たちの多くはそうしたイベントをリーフェンシュタールの映画(またもや映画です)とか、プロパガンダ放送を通して「見た」だけで、それ以上のことはあまりよくわかりません。

全体主義国家の集団一斉行動は「強制」であり、宗教コミュニティのそれは「信仰」(個人の自発性という言い方をしていいのかどうかはそれぞれの宗教の教義次第)によるとされますが、どちらも、本当にそれだけなのか……。

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集団の一斉行動では、主催者の「命令」と参集者の「内発」が素通しで通じ合うことはむしろ稀で、実現には、たとえばあくまでひとつの視点でこれが決定的と言うわけではありませんが、「技術」が様々に介在するのではないかと思います。

いわゆる「3.11」以後、クラシック演奏会では、しばしば、演奏に先立って黙祷が捧げられるようになりました。

こうしたクラシック・コンサートにおける黙祷を演奏会批評の対象として論評するのは不謹慎ですが、コンサートで黙祷をリードするのは興行のプロである主催者や、舞台で生活費を稼ぐ指揮者・演奏家ですから、「形」と「誠心誠意」を保ちながらも、彼らの本業のパフォーマンスがそうであるように、毎回、進め方は色々です。

不埒な感想であることを承知のうえで、「またか……」等々、音楽研究者が「君が代」問題と関連づけてつぶやくのと同質の思いを誘発させてしまいかねない段取りで物事が進む演奏会もあるし、あれよあれよという間にわたくしを含むお客様が起立して、沈黙を捧げることになった演奏会もあります。本腰を入れて考えを巡らせば、そこに、時間を差配する音楽家ならではの「技術」を探ることが不可能ではないかもしれません。

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学校が新入生を迎え入れたり、修了生を送り出す儀式をもっぱら「強制力」によって進めようと目論む人がいるとしたら、それは、ちょっと考えただけでも無謀だと思います。学校という場に無謀な強制力を発動させる何らかの構造的な欠陥があって、そこに巻き込まれて傷ついた人がいるのだとしたら、やりきれないことです。集団の一斉行動を企画するのは、相当難しいことへの挑戦なのだと冷静に準備した方がいいと思います。

(宗教儀礼を見ても、プロテスタントのように会衆が全員で一斉に歌う宗派もあれば、カトリックのミサのようにもっぱら聖歌隊が歌う宗派もある。日本の仏教には、会衆が法要で読経する宗派もあれば、通常のお葬式がそうであるように、出家僧侶だけが読経する儀礼もある。そして儀礼の次第は常に綿密にメンテナンスされ続けているようです。)

集団の一斉行動がやや強引かもしれないやり方で行われてしまうことへの説明として、近代国家の成り立ちをめぐる考察などと結びつけながら、強制力の行使を目的とする集団(軍隊であるとか、いわゆる「規律訓練」であるとか)を引き合いにだして批判するのが定番で、これは鉄板に盛り上がる「話題」でありつづけてきたわけですが、本当に「強制」が問題の核心なのでしょうか?

生きた儀礼の分析は、それほどすっきり簡単ではないと思うのですが……。

聴衆をつくる―音楽批評の解体文法

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(そして様々な学会の仕切り役として引っ張りだこの増田聡さんが同時に「君が代」問題の広告塔でもあるのだとしたら、「君が代」問題をめぐる思索の深まりが日々の業務へフィードバックされて、逆に、日々の業務のなかで生じるデリケートな諸問題を腕力突破ではないやり方で調整・解決する実務のノウハウが「君が代」問題の繊細な取り扱いへ反映される、というような回路を作るのが、生産的ではないだろうか。

「君が代」問題の核心は「強制力」である、と言い募ることは、そのような円滑な循環をかえって阻害し、結果的には、日々の業務においても周囲を悪循環へ巻き込んで当惑させる不吉な兆候でなければいいのだが……。

キミには、鳴門教育大学教育学部の助手としての憤懣を「研究助手というフィールドを参与観察した結果の報告」として学会で唐突に発表し、周囲を当惑させた前科があるのだから……。)

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そしてそのように思想と行動が合った状態を、「地位の一貫性が高い」と言うらしいじゃないですか。これからは「中国化」ですよ!