ついでに

[随時追記]

プロのくせに聴きもせずに批判するのはいかがなものかと思います。白石さんがプログラム・ノートを書かれている大フィルの冒険心のなさこそ問題です。

という貴重なご意見をいただいて、ちょうどいい機会なので申し添えますが、大フィルの定期のプログラム・ノートは、同じ人間がいつまでも書いて、ネタが無理矢理になっていくようではお客様に申し訳ないと思いましたので、2年経ったところでこちらから降りました。(先方から「クビだ」と言われると精神的なダメージが大きそうなので、気配を探りつつ、こちらから。振り返れば、当人は「ばらの騎士」が書いていて一番面白かったかな、と思っています。絶対に岡田暁生とは違った風に書いてやるぞとテンション上がりましたし、本番の演奏も素晴らしかったですし。)

今期の定期は、毎回、もっと立派な先生方がご執筆しています。

(大フィルさんに、「次の東京定期は吉田秀和先生に寄稿してもらいましょうよ」と無謀なことを言ったら、その月末にご本人が亡くなられたので、世の中には、言っていいことと言ってはいけないことがあるのだと猛省しました。)

先の文章は、大フィル様がせっかく色々新しいことをやろうとしているところに、わたくしが「そんなことやっちゃって本当に大丈夫なの?」という目線で書いているので、甘口というのとは違うのではなかろうか、と当人は思っております。

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そして、いずみシンフォニエッタ大阪に関しましては、行きもせずに書く、というより、「行かない理由」という、ほぼ絶対に売り物にならない種類の作文をだらだら書いているわけで、いわば、10年間一方的にモーションをかけ続けているのにまったく振り向いてくれない相手に、それでも言葉を投げかけ続けるストーカーみたいなものだと思います。

気色の悪い粘着クンがいると、掃きだめに鶴、で、いずみホールの美しさが際だつであろう。20世紀の変態的な作品に挑戦する団体なのですから、周囲に、そういうひねくれたアングルで物を云う人間が出現するのも、ある程度仕方がないのではなかろうか、ということで。長大な自虐ネタだと思っていただければよろしいかと存じます。

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色々な考え方があるとは思うのですが、よほど酔狂な人でなければ、「維新」だの「グランドリセット」だのというような大変化なしのマイナーチェンジの積み重ねで済ませられるんだったら、そのほうが平穏無事でいい、と思うわけじゃないですか。

そして大きな団体の重要な人事異動というのは、それだけでも大変に消耗する事態なわけですから、だったらそれ以外のところに追加で過剰な負荷がかからないほうがいいんだろうなあ、と思うし、逆に、客観的な状況を考えればこの程度のことで何かが劇的に変化することは構造上ありえない、というような局面で妙にうわついてザワザワしてしまうと、腰を据えて取り組まなければならないポイントがかえって見えなくなってしまいそうな気がするのだけれども大丈夫なのだろうかと心配になる。

特定の団体に甘口で、特定の団体に辛口であるというようなことではなくて、周辺一帯で何が起きているのか、はっきりわかるように余分なものを取り去りながら見ていくと、こういうことになるんじゃないか、ということだと思うんですけどね。

そのようなことでは面白くない、という立場の方が色々なものを投げ入れるということは、当然常にあり得ることなんだろうとは思いますが。

少なくとも私個人は、そういうドサクサにまぎれて、ちゃっかりなにか得をする、ということができるほど器用じゃないし、そんな知恵があったら、こんな仕事はしていません。

何かが積み上がっていく感じにならないのは、あの人この人がそこにデンといるのがデカい、というのはほぼ間違いないと思うのだけれども、じゃあ代わりがいるかというとそういうものでもないみたいなので、だったら他でコツコツと、徒労感のないようなやり方を、ない知恵絞ってひねり出すしかない。そして大フィルなんて、朝比奈隆で50年以上やってきたわけじゃないですか。そしてようやく新しい展開が開けたといっても、まだ10年。いずみシンフォニエッタができてからの年数よりも短いわけです。そんなに性急に「冒険」とか言っても、普通に考えたら、そんな単純なもんじゃないでしょう。……と私は思うのですけれど。

根気の要る話なんですよ。

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そしてさらに言うと。

根気よく10年20年とあれこれ続けた先に出てくるものが、

(1) 演奏するのが肌の黄色い極東の人々ではあるけれども、鳴っている音とその効果は、録音や映像で知っているヨーロッパのどこかの街の人々の演奏と見まがうほどである

ということになるか、それとも、

(2) 使っている楽器や楽譜や演奏スタイルの骨格は西洋人から伝来したものを踏襲しているはずなのだけれども、やっていることは随分違ったことであるなあ

ということになるか、というと、私は後者の可能性が高いだろうと思っています。(今でも十分そういうところがあるし。)

そうしてそのうえで、「どうしてこうなっちゃんだろう」という来歴をごまかしなく認識し、「本場のものとは違うけど、これはこれでアリだよね」と納得するには、もうちょっと時間と根気が要りそうだなあ、と思っています。

私は、「国際人・大植英次が大阪の古くさいオーケストラを刷新するべく孤軍奮闘して、その姿が素晴らしい」とか、「大阪の音楽家の最良の部分を結集したアンサンブルは世界中どこへもっていっても、その高度な技術水準が称讃を浴びるであろう」とか、というストーリーは、今もまだそのような物語のほうが一般に受け入れられやすい状況があって、そうであってほしいという願いによって人々が地元のクラシック音楽を応援する、という形を簡単に崩すわけにはいかないとは思うけれども、でも、それは、音楽家という高度の技芸保持者たちが身にまとっている「世を忍ぶ仮の姿」、一種の方便だと思うんです。

夢を売りつつ、もうちょっと別の事柄が動いているし、そっちのほうを見失ってはいけない。そういう夢・幻想とは別の風に動いている物事をちゃんと見て、肯定してあげないと、やっている当事者が夢と現実の間で人格乖離してしまうと思うんですよね。音楽監督ラスト・イヤーの大植英次がそうであったように(……ああ、言ってしまった、でも、できないことはできないんだし、ない袖は振れないのだから、そこを「できる」と言われたり、まして、「すごいすごい、できてるじゃん」と言われ続けたらおかしくなりますよ、指揮者だってオーケストラだって……、だから、ちゃんと立てるところに着地させてあげないといけないのだと私は思う、たぶん本当は2011年度末でビタリと形を決めて退任したかったのであろう人に一年粘って延長してもらって大々的なグランド・フィナーレ興行をやりとげたのだから(←ってもちろん誰かの言質を取ったわけではなく、あれこれ想像するとたぶんこの説明が一番矛盾が少ないだろうなあ、と勝手に思っているだけですが)、オーケストラのほうも、今は絞りに絞って稼ぐのではなく、(大阪市の騒々しいアレがなかったら)落ち着いて色々メンテランスする巡り合わせのはずだと思うのです)。

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

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