「一国の首都」に住まない音楽家の生活と意見

http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2012-07-15

体調不良というのは、意志と関係なく肉体を襲いますから、意味を求めようとしても文字通り「無意味」ですが、それとは別に、大植英次さんは、1978年に桐朋学園を脱出して渡米して以来、ずっと、「一国の首都」となっている都市とは違うところで仕事を続けている人だ、ということになるようですね。(師匠のバーンスタインも、まるで「摩天楼のニューヨークの息子」みたいなイメージだけれども、ウクライナからマサチューセッツへ移住したユダヤ人一家の出身でボストンあたりと縁が深そう。)

なもんだから、つい、人が死ぬことを考え続けた世紀末的な作品を5年越しで西日本の街のお客さんに届けた直後の首都のコンサートがキャンセルになったことは、できすぎた偶然だと思いたくなってしまいますが、

大阪のファンは、バイロイト出演が1年だけでおしまいになってしまった2004年以来、次から次へと彼の元へ舞い込んでくる、いかにも特定の「意味付け」や「レッテル張り」の誘惑、決定的な「烙印」が押されてしまいそうな事態を、いやいや、そういうことじゃないから、と振り払いつづけて、朝比奈隆と好対照に「中折れ」感覚満点なこの人と9年間おつきあいしてきたわけで、東京の皆さまにも、たまにはこういう種類の人付き合いの楽しみを経験していただきたい。

そのほうが話が早いような種類の「物語」「烙印」をやりすごして待っていると、お互いが試し試された末の何か、みたいな感じで、そのうちひょっこり十倍返しするのが、大植英次という人なのだと思います。

(常にハラハラさせられ通しなので大変ではありますが、音楽家というのは、そういう「ナマモノ」なのでしょう。

最近、大植さんが9年間を振り返るときに、「自分も大阪へ来て変わった」という一言を添えるのが常で、大フィルも変わり大植さんも変わった、どちらか一方通行ではなかったんだ、ということが、私は一番大事なことだったのではないかと思っております。色々あったけれども、そういう風に言える関係なんだったら、よかったんじゃないかな、と。

「東京へお帰しします」発言は、確かにちょっとミスリーディングでしたが、ニュアンスとしては、こういうタイプの面白い音楽家さんとのおつきあいを、東京の皆さんもたまにはやってみてくださいよ、という気持ちを、多少含んでいるつもりだったような気がするのです。>やくぺん先生)

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ところで、ふと思ったのですが、「一国の首都」(東京に限らず、外国の有名都市も含む)とほとんど縁のないまま生活する音楽家が幸せに天寿を全うすることのできる生活設計、マネジメント・プランというのが、今の日本にちゃんとあるのでしょうか?

(他所の国で、そういうのが上手く回っている事例とか、色々あったりなかったりするのでしょうけれど。)

梶本音楽事務所は、もともと野口幸助さんが関響(大フィル)へ移ったときにそのノレンを引き継いではじまったそうですから、朝比奈隆さんの時代には、そのあたりをわかったうえで色々なことが采配されていたのだろうと思いますが、代替わりして、今では、大阪には事務所もないんですよね。

アンリ4世が勅令を発したところ、という世界史の暗記項目くらいでしか知らなかった街の音楽祭を、日本ではカジモトさんが請け負って日本各地に株分けしておりますが、この集配システムは、「首都」と「地方都市」がリンクしているとはいっても、「一国の首都」とほとんど縁のないまま生活する音楽家が幸せに天寿を全うすることができる生活設計、というのとは、またちょっと違うんだろうなあ、という気がします。

京都の都道府県庁所在地ですらない町の名前を冠したアンサンブルが、まだ日本では全然知られていなかった頃のフランスの音楽祭には出たけれども、株分けされた東京のほうは、一回出たきりであったりしておりますし、

大阪の市長さんがおそらく「藝能のあるべき姿」のお手本のひとつと考えているのであろう吉本興業とか、そういうところも、ある時期から思い切ってビジネスの主力が東京寄りにシフトして、そのせいで最近はバッシングを受けたりもするわけですが、

一方わたくしは、そこらのオッサン、オバハンみたいにしか見えない人たちが、舞台に上がったときだけは、なんや知らんけれども凄い、という形(いってみれば大栗裕というオッサンがそうだったのですから、強力な我田引水です^^;;)、そういう種類の技芸保持者が「地方タレント」という分類になってしまうマネジメント・プランは、この先、何かと不都合を生じるんじゃないかと思うんですよね。

(たとえば狂言の茂山家が「お豆腐狂言」ということを言っているのは、そのあたりの強い自覚があるゆえ、という風にも見える。そういう着地点が要るだろうと思うんです。)

大植英次と気長につきあってみる、というのは、東京が「首都なんだけれども、あたかも首都ではないかのようなフリをする」という倒錯プレイのきっかけになるかもしれず、ひょっとすると、発想をシャッフルする何かのきっかけになるんじゃないでしょうか。