除霊祈願

もうだんだんめんどくさくなってきたのであっさり書きますが……、

楽譜が「ここはさらっと流しておいてください」というような感じに書いてある箇所を、事件はその先に起きるのだから、そのとおりさらっと弾くのは、年齢にそぐわない背伸びをしたオトナのふり、ではなく、単にガッついていない聡明な態度なのだと私は思う。

そして、そのあといよいよ大変な事件の現場にさしかかったときに、さすがにまだ余裕がなくて、ちょっと苦労しながらアタフタしてしまったとしても、そこまでの聡明さや、溌剌とした煌めきの痕跡のようなものを踏まえたら、「今はまだ大変だろうけど、今度は頑張ってくださいね」でいいんじゃないか、と思ったりする。人生長いんだし……。

そこには、「小娘のくせに大それたことに挑戦して生意気な」とでもいうようなプチ・マッチョが悪く作用しているのではないだろうか?

      • -

あるいは、「伴奏」=ソロに付けるor歌手に付ける、という鍵盤楽器の弾き方というのは確実に存在するし、そういう弾き方がちゃんとできる人は確かにいて、きれいに付けてくれているのを聴くのは本当に気持ちがいいものだけれど、それは、単に「伴奏が上手い」ということではダメなのか?

ものを誉めるときに、誉めるべき対象を必ず舞台の中央へ引っ張り出して、スポットライトを煌々と浴びせかけて、表彰状を授与するように麗々しい概念(「伴奏のようにみせて、実はピアノが歌を操っているのである」とか、「単なる伴奏ではなく、真の音楽がそこにある」等々)を冠する、というセンセーショナルなレトリックは、言葉が自動化されてしまって音楽の現実を取り逃がす危険があるんじゃないだろうか。

視界の中央ではないところにあるゆえにいい、という物事だってあるんじゃないかと思うのだが……。

(個人的には、この種の時代錯誤的な事大主義を「岡田暁生の呪縛」と呼ぶことにしています。どんなことがあっても、あらゆる手段を使ってでも相手をやりこめたい、と心を決めたときには、「岡田暁生」を自分のなかに降霊させると、テンションがあがって効果的なこともありますけどね(笑)。)