オーケストラの失敗学とピアニストの耳

[短い追記あり]

以下、誰に言うともなく……。

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[なお、以下、一般的な話が続きますが、時節柄、大フィルのマーラー5番で金管のミスが続発した(らしい)件について一言だけ書きますと、夏休み前のこの時期に2日間の練習でいきなりこの曲をやるのは普通のことではないし、普通じゃないことに挑戦したら、良くも悪くも普通でないことが起きた、ということのように見える。

万全に準備した定期で「運命」や「未完成」をやったら2日間ともミスが続出、というのであればオーケストラの未来と基本能力を憂う人が出ても仕方がないかもしれないけれど、

(あるいは数万円のチケットで売り出された「世紀のピアニスト」の演奏がボロボロだったら、率先して良くなかったと発言した人を勇気ある行動として語り継ぎたくなるかもしれないけれども(ただし私はベートーヴェンのイ長調ソナタを弾くホロヴィッツは素晴らしかったと思うし、あのときの「音楽展望」にもそのことはちゃんと書いてある):http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3232_all.html

シーズンオフ直前に慌ただしくやったマーラーの件は、色々な事情で「いける」と判断したのでしょうが、やっぱりちょっとキツかったなあ、でもまあ全体としては頑張ったんじゃないの、というようなところへ収まりそうな企画・マネジメントの問題だと思われ、まあ、そういうこともあるんじゃないんですかね。

オーケストラって、ちょとやそっと周囲を嗅ぎ回るようなことをしても、簡単に「証拠はすべて出揃った、君たちの問題点はこれだ!ドーン」みたいなことが言える単純なシステムじゃなさそうですよ。そこが面白いところでもあるし、停年で辞めた人のあとの補充が好待遇なこともあって成功した公立のオーケストラと、あれもこれもやりくりしている民間のオーケストラでは「家庭の事情」が違いすぎるし。]

通常、プロが音楽批評を書くとき、ミスや事故は無視します。

ミスや事故を無視する大前提は、

人前で演奏する以上、誰よりもミスを避けたいと思い、また実際にミスをして最も傷つくのは当人なのだから、仮にもプロとして公演でミスをしてしまうのは、好きでやっているはずがないし、避けようと思えば避けることのできた怠惰や練習不足である可能性はむしろ少ないのではないか。理由は様々であるにしても、原因を分析すればやむを得ないことであったという結論に至る可能性が高いと推定するのが合理的であろう

と思うからです。

そしてミスが多発する場合は、通常、ミストーン以外の部分にも同じ原因に基づくと思われる問題が顕在化します。そしてそうだとしたら、「問題の大元」を指摘するほうが話が早いし、思考の節約、紙面の節約ですから、結果的に、ミスと事故については書かずに済みます。

それに、(あくまでプロとして書く場合にはそのような覚悟で臨む、という意味であって、一般のファンの皆さんが憂さ晴らしに様々な意見を発することを制約するものではないですが)ミスを細かくあげつらう文章を発表してしまうと、「この人は現象面・枝葉末節にとらわれて、物事を全体として、構造的・分析的に捉える能力が乏しい人なのだ」と思われかねず、要するに「この書き手はバカだ」と烙印を押される危険大ですから、そういうことはしたくない。

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また、ミストーンをあげつらうことは、個人を特定して攻撃することになります。

もし、ミスや事故があくまでも現象面にすぎず、大元の原因でない(かもしれない)のだとしたら、それを直接指摘することから得られる前向きの効果は少ないと思われますから、それにもかかわらず、わざわざ個人を特定して攻撃することは、生産的な批判というより、特定の個人を過剰に萎縮させるイジメに近い効果を持ってしまう可能性が高い。

人目に触れる文章を書く人間で、そのようなイジメの危険に無自覚な人間は、端的に「鈍感である」という風に分類されてしまうでしょうから、鈍感であると見られることをよしとしない人間は、そういうことを書きません。

要するにそれは、吃音の人に向かって、毎日会うたびに、その口真似をしてみせる。等々というのに近い効果を持ってしまう。もし、その症状が本人の意識や心がけで改善できるのであれば、相手の不心得を指摘する苦言になるかもしれないけれど、本当にそれが「意識」や「心がけ」でどうにかなる問題なのかどうか……。

それは、大げさに言えば他者に対する想像力の問題であって、そのような意味で、ミストーンをあげつらう発言を公にするかどうか、というのは、その発話者が他者に対してどの程度鈍感さであり、繊細であるか、というデリケートな問題と関わってくると考えられます。

そして、鈍感であったり無遠慮であると思われても、これだけは言っておかねばならない、と決意して発言するためには、最初に戻って、なぜミスや事故が発生したのか、ということに対する分析や洞察が伴っている必要があると思われます。

(繰り返しますが、これはあくまで、プロが売文する場合、という話です。一般の音楽好きがコンサートへ行って、ミストーンを聞きつけて、「ヘタクソ」「帰れ!」と野次を飛ばすのは、ありえないことではない憂さ晴らしですから、好きにやれば宜しい。「今行ったのは誰だ、こっちへ降りて来やがれ」と反論されたり、野次を快く思わない周囲の人から、「黙れ」とポカンと殴られる、みたいなことが起きるのも、素晴らしき生きたコミュニケーションであると思われますので、あっちこっちで、どんどんコンサートホールを活性化させてください。マーラーがシェーンベルクだかベルクだかの初演を巡って他の客とケンカをした、という、往年の「熱い客席」が21世紀の日本に出現するきっかけになるのだとしたら、ミストーンが音楽の活性化の役にたって、浮かばれるというものです。(^^))

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前置きはこれくらいにして、では、どうして、ミストーンが目立つ演奏がときとして行われてしまうのか、具体的に考えてみましょう。

(1) そのプレイヤーが満足な演奏ができないほど能力の低い人である場合

私は特定の組織に正規メンバーとして雇用された経験がないので伝聞や想像ですが、どこの会社でも、「あの人はしょうがないんだよ」というような人がひとりくらいは諸般の事情で雇われているらしいですから、オーケストラのような大所帯では同様なことがあったとしても不思議ではない……のかもしれません。

でも、通常、まともな会社だったら、本当に仕事のできない人は、そのことが外部にバレると会社自体のイメージダウンですから、どうにか事態が表面化しないようにしますよね。組織の根幹に関わるような仕事から外すとか、外部と接触することがないような部署に回すとか、周りに万全のサポートができるスタッフを付けるとか……。

オーケストラだって同じだと思うのです。

そして人前にでる仕事ですから、通常、自分の能力がどれくらいであるかということは当人がよくわかっているはずで、わざわざ自分のヘタクソぶりを公然とさらすようなことはしない。

一般論としてまとめると、確かにどこの団体にもダメな人はいるかもしれないけれど、たいていそういう人は、人目に付かないようにおとなしく陰に隠れているものであって、コンサートの本番で誰の目にもつくようなところで大ポカをやらかしたりはしない。そもそも、そんな重要な役目は、ダメな人のところには回ってこないものだと思います。

だから、コンサートで目立つミストーンがあった → こいつはヘタクソな奏者である、と即断するのが正解である可能性は低いと考えたほうがいい。

(本番で堂々と鳴り響くミストーンは、野球という今はもう流行らないのかもしれない球技にたとえれば、四番バッターが堂々と空振りしているのに近いんじゃないでしょうか。)

大正末や昭和初期のオーケストラだったら、平気でとんでもない演奏をするツワモノがいたかもしれませんが、21世紀の日本のプロのオーケストラで、その可能性は極めて低いと思います。

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では、それなりに弾ける/吹ける人、しかも、大事なパートを負かされるほどに信頼される人が、どうして目立つミストーンをしてしまうのか?

(2) 多少のミストーンが出ても仕方がないほど高度なことが要求されてしまう状況がある

と考えるのが、現状では最も妥当性が大きいのではないか、と私は考えています。

(一時期よく言われた「失敗学」とか、そういう方面に近い物の見方が、音楽演奏にも有効だと思うのです。)

ピッチとタイミングの微調整、音色への配慮、他の楽器とのバランス等々、演奏者が考えるべきことは膨大にあって、なおかつ、現在のオーケストラ演奏では、音が塊として混濁することが嫌われて、個々のパートをガラス張りに分離して響かせる傾向が(ほぼカラヤン以後と言ってよいかと思いますが、特に日本では)極端なくらい進んでいます。

しかも、(ある意味では斉藤秀雄の(悪)影響で)指揮者が非常に(過剰に)きっちり振るので、タイミング・アンサンブルの精度がとんでもないことになっていて、なおかつ、ある時期までの「日本人は機械のように正確だけれども、音楽性に乏しい」とする批判への反動なのか、指揮者が細かく色々なことを仕掛けますから、演奏者は絶えず気が抜けない。(いわば、秒単位でダイアグラムが決まっている日本の鉄道みたいなもんです。)

そういう状況のなかで、責任感が強くて、きっちり要求に応じようとする人(パートのリーダーを任されるような人)ほど、過剰なリクエストに応じきれないところが出てくる。というような悪循環が生じるのではないか?

敢えて名指しにして申し訳ないですけれど、たとえば大植英次という指揮者は、全体として数多くの画期的な成果を大阪フィルにもたらしたけれども、彼の音楽作りは、とりわけ管楽器の音を細く痩せたものにしてしまう危険を伴っていると私には思えます。

あれは、何人かの奏者が落っこちてもしょうがないタイプの音楽だと思います。薄氷を踏むようにして上手くいったときの効果は絶大ですが……。

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そして私は、大植英次自身も、そのあたりの現状を、たぶんわかっているのではないかと想像しています。つまり、自分が楽譜を読んで勉強をすればするほど、どんどん演奏不可能なイマジネーションが膨らんでしまって、それをどのように演奏へ落とし込んでいけばいいのか、自分でも「答え」が見つからないところで試行錯誤しているところじゃないか、と思うんですよ。

ざっくり言うと、たくさん「勉強」する時間ができちゃって、しかも、音楽監督ラスト・イヤーあたりから、大フィルの大看板になっちゃったものだから、自分のやりたい曲だけをやらせてもらえて、しかも、ソリストなしで、大曲を1つだけ、みたいなデカいプログラムが多くて、なおさら、とことん準備することができて、「できるはずだ」とどんどん膨らむイマジネーションと、そんなの無理でっせ、という現実の折り合いを付けるのが難しくなりつつあるように、私には見えます。

チャイコフスキー・シリーズあたりからそういう感じがあって、2011年度後半から今年度にかけての大植英次のコンサートで、私は「掛け値なしに大植英次が素晴らしかった」と思ったことは実はないんですよね……。実際に事故が起きたり、ハラハラする場面があったし、それでもやりおおせたのは、大フィルとの9年間の蓄積があって、オーケストラが猛然とくらいついて着地点をみつけたからではないかと思っています。どこかへ飛んでいってしまいそうな風船を絶対に見失わないように追いかける日々であった、と私は理解しています。たとえば、大阪での「春の祭典」の初日と二日目がどれだけ違う演奏だったか……。

大植英次が単体で素晴らしかった、というより、「大植・大フィル」というユニットが、毎回、目の離せないスリリングなものであった、ということだったと思うのです。

(そういう意味で、現時点で総括というか俯瞰的なまとめ方をするとしたら……、

それぞれの楽器にギリギリのことが求められて、音が外れちゃったり、自分たちの音でなくなる瞬間があったとしても、指揮者がそっちへ行きたいという方向へいけるところまで付いていってやろう、ということでやっているのが大植・大フィル。

「君たちにはもっと潜在能力があるんだから、持ち味をアピールしなさい」といって、アゲアゲに金管を響かせて、そういう音が出てくること前提で選曲して演奏を組み立てて、注目を集めているのが大阪交響楽団。←最近では、ややブラスが威張りすぎているのでは?と思う瞬間がないではないかも?!

そして指揮者がどんなことを求めても、まだ若くてキャパが足りないので他にやりようがなくて、なんとなくブワっと吹いちゃうので指揮者がそっちへ歩み寄らざるをえないのが兵庫のPAC。

みたいに言えるのではないでしょうか。

結果的に、あとの二者は、それぞれの実力に違いはあるにしてもブラスの皆さんが気持ちよくのびのび吹かせてもらえる環境があって、大フィルは、ブラス・セクションに相当な負荷がかかる状態が続いているので、現象面(ミスの数とか)だけを見て、どっちが上手い/下手とは言えないだろうと私は思っております。)

(3) ピアニストの耳

オーケストラは、(ちょうど今年の前期は、神戸女学院でも大阪音大でもそういう内容の話ができる授業を担当させてもらったのですが)木管・金管・弦(そしてちょっとだけ打楽器)の混成部隊で、それぞれの楽器は、調べれば調べるほど、歴史的にも社会的・身分的にも来歴が様々で、楽器の構造の上でも多種多様です。ホルンやトランペットが気持ちよく吹けるピッチ・音律やタイミングと、弦楽器が幸せになれる音楽作りは随分違うし、フルートとオーボエは、隣同士で音域もかなりの部分が重なり合いますが、楽器の徳性は全然違うし、クラリネットはほぼフランス革命頃からの新参者で、ファゴットとかコントラバスとか、どうしてオーケストラに定着したのかよくわからない不思議な来歴と特性をもった楽器ですよね。

で、指揮者というのは、今では楽器を担当せず、音を出しませんが、バロックから古典派の初め頃には、しばしば、鍵盤楽器というさらにまた性質の異なる楽器を片手にアンサンブルをリードする場合があったことが知られています。

ところが、鍵盤楽器というのは、調律ひとつ考えても、各種古典調律を採用するにせよ、平均律を採用するにせよ、これまた、妥協の産物による摩訶不思議なものです。鍵盤楽器の席からオーケストラを統率する、というのは、合理的な基準によって混成部隊を統率するというよりも、わけのわからないカオスに、さらなるカオスを掛け合わすことで毒を以て毒を制するようなすさまじい状況であるように思うのです。

(発音原理だって、鍵盤楽器は、弦や管とは全然違いますし。)

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現在の日本では、こうしたオーケストラの成り立ちと部分的には共通点をもちながら、ピアノの向こうに「西洋合理主義」を見てしまった洋楽受容の在り方とか、絶対音感教育という昭和の風習などの経緯もあって、ピアニストが指揮者になるケースが多いようです。

そして私は、有能であるとされる指揮者における「ピアニストの耳」の功罪、というのが、今、相当にあるのではないか、という風に思っています。

物心つく頃から身に付いてしまっている「ピアノの音」で音楽を捉えてしまって、オーケストラを、まるでピアノを弾いているかのように制御してしまっているとしか思えない演奏をする現役指揮者も実在しますし……。

大植さんは、おそらく異常に耳の良い人で、それはほぼ間違いなくピアノと親しむなかで育まれたのだろうけれども、ただし彼の場合、あくまで想像ですが、「C音」の鍵盤を叩けば「C」の音がする、というようなことではなく、「C音」に還元できないなんともいえない響きがする、ということを聴きとるような耳をしていて、だからその応用で、色々な楽器、オーケストラを聴いたときにも、色々なものがそこから聞こえて、そういう経験を積むことによって万華鏡のような音(が聞こえる耳)を持つに至って、おそらくそれが、今日までのキャリアの「核」と言えるようなものなのだろうと思います。

だから本当は、もっと色々な音、というか、そうした様々な音を発する多種多様な人間どもがうごめく場所に留まり続けて、いままでやったことのないジャンルに挑戦したほうがいいんだろうと思うのです。

原点に戻って自分を見つめ直す、とか、自宅でひたすらピアノを弾く、とかいうのは、おそらく、あまりカラダ(というか耳)によろしくない。

ピアノで育んだ「地金」があんまり露骨に出てしまうと、(ピアノと違って、弦楽器には運弓、管楽器には呼吸という、絶対に無視することのできない条件がありますから)オーケストラとの関係がおかしくなるのではないか。

そういう風に引き籠もらないやり方で、ちょっとしたきっかけがあれば、持ち前の能力を最大化しつつ、周囲のミスや事故を誘発してしまわない落としどころが必ず見つかるはずだと思うんですよね。

そしてそこへたどりつくにはもうちょっと時間がかかりそうな気配なので、今は、あまり細かいことはいわずに、生暖かく見守りたい、と思うのです。

(あくまで、すべてはわたくしの勝手な「想像」。わたくしが独り合点に、これで色々なことの説明がつきそうだ、と勝手に納得しているに過ぎませんから、「ミストーンする奏者は即刻クビにすればすべて解決」というグランドリセットな意見と、どちらがどう、という風に優劣を決めることができるようなものではないですが。)

[追記]

私見では、演奏会には本当に色々な楽しみ方があって、決め打ちで「こうでなければ」と思ってしまうと勿体ないと常々思っております。

他の団体の人事が動きそうな気配のないところで、今年の大阪フィルはショーウィンドウのように色々な指揮者が入れ替わり立ち替わり登場するわけで、それこそオーケストラの適応力みたいなものを見るには絶好の機会である、と言えるんじゃないでしょうか。

たとえば、尾高さんとヴィンシャーマンの間に挟まれてあまり話題にならなかったイオン・マリンのブラームスとか、色々いぢってはいるのだけれどもあくまで陽性のサウンドで、こういうやり方もあるんだ、と私はとても面白かったですけど……。