ルーティーンへの敬意

括弧の意味論

括弧の意味論

昨日ご紹介した木村大治『括弧の意味論』(読了)で(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120719/p1)、著者が括弧問題を考える試金石にしている素材は、斉藤十一の『週刊新潮』(斉藤十一に注目しているところも、吉田秀和経由でこの人のことを知ったばかりである私(詳細は→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110725/p1からどうぞ)にとっては共感度が高い!)とともに、浅田彰『構造と力』に代表される80年代のニュー・アカ現象。

編集者斎藤十一

編集者斎藤十一

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

この1983年刊行の本は、今もまだ現役商品なんですね。浅田彰本人がいつまでたっても少年に見えるのと匹敵する特異現象じゃないでしょうか? 装丁もなにもかも同じままだなんて……。

経済学のこれといった業績があるわけじゃない人が京大で助手から助教授へ昇格したり(教授にはなれなかったが)、シュールレアリズムの詩のような文章を書く人がAA研の助手から、(東大教養の助手にはなれなかったが)中央大の教授になったりする現象は、その頃、大学院へ進んで研究者になろうかと考えていた人々にとって、心穏やかではない出来事だったのは間違いなく、そのこだわりがこの本の底流にあるような気がします。

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今から思えば、浅田彰は丹下健三の腹心だった浅田孝の甥で、中沢新一の「ぼくの叔父さん」は網野善彦なのですから、この二人は突然変異の特異例というところがあったのでしょう。本気でニュー・アカ現象とは何だったのか、を総括しようとしたら、この二人ではなく、当時「1/Fの揺らぎ」とか言っていて、のちに『知の欺瞞』で一掃されてしまったような、いわば、ニュー・アカにおける有象無象(失礼)な方々がその後どうしていらっしゃるのか、を追いかけなければいけないんでしょうね。

そういう今では名前が残っていないのかもしれない方々を出現させた時代の風向きがあって、この人が浮かび上がるのはしょうがないよな、と思わせるブリリアントな個人がいて、そうして、括弧の「穴」を確信犯的に過剰投与するスキルがあった。そういう複合現象だったのかもしれません。

括弧の「穴」を使いすぎないフラットな文章が書きたいものです。

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暑くなってくると、議論が白熱したりするものなのかもしれないのですが、最近よく、ルーティーンは大事だ、と思います。

直接的に考えているのは、ここ数年の関西のオーケストラの定期演奏会の曲目。

毎回毎回、ちゃんと話題性が用意してあって、出ずっぱり感がありすぎるのではないか、と危惧しています。そのうち息切れするんじゃないか、切り札を連打しつづけるチキンレースから、どこが、どういう風に降りるのだろう、と、内心ハラハラしているのです。

定期演奏会の半分くらいはチャイコフスキー、ベートーヴェン、ドヴォルザークで、そうかと思うと、次の回には、どかんとトゥーランガリラがあったり、何だか知らない20世紀後半の問題作があったり、とか、そういう、ざっくりしたプログラミングへそのうち移行するときが来るんじゃないのかな、と思っています。

だって、2000年代のはじめごろまで、コンサートの組み方はとても「大味」だったですよね。

「またチャイコフスキーのピアノ協奏曲か」と思って会場へ行ったら、舞台上にはアンティークのニューヨーク・スタインウェイがデンと置いてあって、上野真が信じられない鮮やかな演奏をして、何だこれは、と不意打ちでビックリさせられる@大阪シンフォニカー定期演奏会、とか。

その演奏会のことは、他には何も記憶に残っていないけれど、これを聴けたんだから、まあいいか、というようなもんです。

バックラッシュだ、とか、「昔は良かった」式の守旧派だ、という大げさなことでなく、ついこの間までそうだったのであって、今のハイテンションを365日維持しつづけるプログラミングのほうが異常なのだと思います。

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クライバー(息子)が素晴らしくはあるけれども、毎日こればっかりでは無理だ、と思わせられるところがあって、あの人には、ルーティーンがなさすぎたんですよね。そういう、押しまくるだけではないオッサン臭い生き延び方を、あれだけパパの遺産を大切にしたカルロスくんは、遂に学ぶことができなかった……。

昨夜は、ベートーヴェンのピアノソナタを全部弾く、という計画を立てた小菅優のリサイタルに行って、なるほど、こういうトーンでやるんだったら悪くない、いける、と頼もしく思ったのでした。

「良い意味でのルーティーン」という境地があるはずなんですよ。(小菅優の演奏がルーティーンだった、という意味ではないのですが……。このあたりの細かいことは批評で書きます。東京公演はこれからみたいなので、気になる人は会場へどうぞ。)

そして、「普通でないところは凄いのだけれど、普通のところがダメ」というのは、藝の世界では「生硬で未成熟」と言われる。実年齢とは関係なく、いわば藝の年齢として、「まだまだ青い」ことになるみたいなんですよね。もちろん、青い果実の鮮度、というのはかけがえがないわけですが、かけがえのないものばかりを追い求めていると、最後は、「生きることとは死ぬことだ」というところへ行ってしまいかねないわけで……。

(日本近代文学は、近松の心中ものをそのような徳川時代の「藝術」として「発見」したわけですが、そういう解釈でよかったのか、というのは複雑な問題であるらしく。参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120716/p1

心中天網島 [DVD]

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まあそれが永遠のハイティーンな「文化としての青春」(日本のクラシック音楽のご近所で言えば例えば「ブラバン」(敢えて俗称、ご容赦!)にはそんなイメージがつきまとっていますよね、関係者が「それだけじゃない」と主張されるのは重々承知していますが)なわけですが、最近のわたくしは、「文化としての中年」にこそ興味津々なのです。

戦後という時代についても、あれは本当に「中年/老年なき藝術運動」だったのか?というところを、ゆっくりひとつずつ確かめてみたいと思っている。そういう風にまとめると、話がうますぎるかもしれませんが、なんとなくきれいにオチがつくのかな、という気がしています。

官僚・役人・公務員というのも、改革の手足というより、きっちりルーティーンができるということところがプライドなのであろうと思われますし……。