無責任の牢獄について

必要があって、書誌学と言うのもおおげさな文献検索・引用のイロハをまとめた古いエントリーを見直していたところで、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20060611

こういう文章に遭遇。

だから、ジャズについても、古典を知れば、それだけ世界は広がるだろう。が、人生の時間は有限である。「あれもこれも」というわけにはいかない。そして、自分の場合には、「お勉強はクラシックだけで十分」という意識もある。ジャズはもっと無責任に楽しみたいのだ。

いきなりモダン ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

いやそうじゃなくて(苦笑)、と思ってしまったのでした。

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大久保さんは、「クラシック音楽」の場合であっても、「人生は有限だ」とばかりに極力「お勉強」をせずに済ませようとする人なのですから、

  • ジャズ = 気に入ったものをランダムに楽しみたい「趣味」
  • クラシック = しかるべき「型」に沿った「お勉強」

という二分法が大久保さんのなかに成立しているとは思えなくて、

おそらく鍵になるのは「無責任」という言葉。

どのようなジャンルに取り組むのであれ、極力「責任」を負うことは可能な限り回避したい、ということなんじゃないのかなあ、と思います。

つまり、

  • 実人生 = 行動・発言に「責任」を負わねばならない必然の領域
  • 音楽 = 「無責任」に遊び、楽しむ自由の領域

という暗黙の大前提があるのかなあ、と思えてなりません。

(やや古くさいドイツ観念論の「必然の領域(実業・生活)vs自由の領域(藝術)」という区別に似ていますが、ドイツ観念論が教養市民の間で機能したときには、実業家が芸術家に対して、「お金のことは我々がなんとかするから、キミは好きなようにやりなさい」と言ってあげるような関係が想定されていたと思われますから、藝術家は、実業家に雇われているわけではないけれど、「無責任」に何をやってもいいわけでもない。

この特殊な関係性を考察するべく、今日のいわゆる「藝術鑑賞」論の土台になるような教養市民の藝術論が花開くわけではありますが、

むしろ、「無責任」な趣味の楽しみという態度は、藝術であればアナーキーであっても良しとされた、というか、アナーキーな騒動を起こすのが藝術だ、「藝術は爆発だ」という20世紀風の藝術観が、外面からは全くわからない個々の鑑賞者の「脳内」に押しこめられて辛うじて、心の自由・想像力の自由として細々と生き延びようとする姿に見えます。

音楽を個々人が「無責任」に、自由気まま好きなときに好きなものを好きな場所で楽しむ、それでいい、それがいい、という考え方は、音楽が個人向け商品として流通していないと成立しないし、逆に言うと、そのような考え方は、そのようなタイプの「個人向け商品としての音楽」を従来のものに対抗して促進するイデオロギーであるように思います。

善し悪しの判断はしませんが、少なくともアドルノ大先生に叱責されそうなタイプの音楽聴だ、ということは言えそうですね。もちろん、今更こういう文脈でアドルノを出してきてもしょうがないわけですが。)

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー (292))

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー (292))

ところが、「クラシック音楽」は、何の因果かそれに関連する事柄を実人生で「仕事」としてやる立場になってしまっているので、そうそう「無責任」を決め込むわけにもいかない。

でも、「責任」などという散文的な概念を音楽という「自由の領域」へ持ち込むのは嫌なので、これを「お勉強」と言い換えてみる。

そうして、仕事抜きで最近興味をもちはじめた「ジャズ」については、「責任」の魔の手が及ばないように、「お勉強」から隔離して、ランダムで手当たり次第の快楽に身を任せる。

そういうことを言っているような気がします。

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このような意味での「趣味」と「お勉強」の区別は、「お勉強」の成績次第でそれが「仕事」につながっていくような学歴社会では、「趣味」と「仕事」の区別と読みかえることができますから、音楽(のある領域)を「仕事」にしてしまった者の生き方の一つの類型として、わりあい一般性があるのだろうと思います。

つまり、多くの人にとっては「趣味」であるような領域を「仕事」としている人間にとっては、ドイツ観念論(19世紀教養市民の生活道徳になったような)の言う

実人生(必然) vs 芸術(自由)

という図式は、大仰でしっくり来ないし、

そうかといって、20世紀の中間層サラリーマン社会で言われる

仕事(契約の範囲内で有責) vs 趣味(私人の楽しみの範囲内であれば免責)

の区別では、主体の自由の領域を積極的に擁護できないから、それで、

  • 趣味の音楽 = ランダムで野放図
  • 仕事の音楽 = 「型」と「お勉強」

という区別が案出された、ということなのだろうと、私には思われます。

(たまたま今はクラシック音楽関係の仕事をしているので、クラシック音楽=「型」と「お勉強」、になっているけれど、たとえば岡田暁生はジャズの「型」を習い始めているようだし、先日、サントリーのコンサートで(まあ、よくも恥ずかしげもなく、と傍目には思ったけれども)披露していたボサノバのピアノ演奏は、とっても「お勉強」風でした。つまり、「型」と「お勉強」は、クラシック音楽という特定のジャンルの特性ではなく、それが「仕事」になれば、どのジャンルの音楽においても「型」と「お勉強」が発動してしまう。そう考えた方が、彼らの生態の実情に合っていると思われます。

[補足:そういえば、最近では「学校」でジャズを勉強した女子ジャズ奏者がご活躍みたいです。

http://www.tbsradio.jp/denpa/2012/09/742012916part-2.html

岡田暁生一派といえば、クラシック音楽が「お勉強」になって小粒になった、と嘆くのを得意技としているので知られますが、ジャズの「お勉強」も嘆かわしいのでしょうか?]

さてしかし、一見すると、これでは、仕事の音楽がツマラナイものだと言っているかのようにも見えますが、そうではありません。

なんといっても、大久保さんは和声や対位法の「お勉強」に無上の悦びを覚える方ですし、

厳格対位法 第2版 パリ音楽院の方式による

厳格対位法 第2版 パリ音楽院の方式による

大久保さんが絶賛するので立ち読みしてみたら、従来の対位法教科書との比較一覧、というのは、要するに、何が禁則とされ、何が禁則ではないとされているか、という○×の「採点基準」の一覧表でした。なるほど、採点基準がはっきりしているわけですから、この先生の授業を採る学生にとっては「親切」なのかもしれないけれど、それだけの話。

21世紀の日本では、岡田暁生が音楽を聴く「型」を指南する本が、「次世代は君に託す」と言わんばかりに吉田秀和から賞を授かるのですから、それは、決して、趣味のランダムや野放図に比べて、悦びが劣るものではない、と位置づけられていると考えられます。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

他にも最近は、「脳トレ」の音楽版、という感じに、よくわかる楽典、楽譜の読み方、といった本がいくつも出ていますよね。音楽についても、○×で採点できる「お勉強」がちょっとしたブームなのでしょうか……。

「無責任でありたい」という願望が強く、何かに「責任を負う」ことをネガティヴに捉えている気配は感じられますが、大久保さんにおける「お勉強」という概念は、「責任」が発生していながらそのことを自覚せずにすむ変換装置のようなものであり、このような「お勉強」概念を装填することで、彼らの主観としては、「責任」を自覚しない生活が達成されているのだと思います。

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私自身がどう捉えているかというと、「仕事」で音楽に関わっていると、もちろん無責任なことはできませんが、自分の責任範囲がどこまでで、今自分はどのような種類の責任を負っているのか、ということを個別に精査しながら生きていると、あるとき不意に、「自由裁量」でやれる真空地帯のような領域がぽっかり空いていることを発見することがあります。

また逆に、「仕事抜き」で周遊しているときに、不意にその向こう側に蠢く「力」のようなものを感知して、これは野放図・好き勝手ではいられないな、と身が引き締まる思いにとらわれることがあります。

考えてみれば、「責任/無責任」の区別というのは、他者との人間関係ですから、私が一方的に他者から押しつけられるわけでもなければ、私が他者へ一方的に押しつけることができるものでもない。そして他者との関係は、制度や領域として相対的に安定していることもあれば、その有り様が絶えず揺らいでいる場合もある。

そして私は、「生活vs藝術」とか、「趣味vs仕事」とか、「ジャズvsクラシック」とか、決め打ちでここはこうだ、と断言することに興味が薄く、

そもそも、何かの「責任を負う」ことが必ずしも厭わしいとは思えないし、仮に、「そんなことに責任を負いたくない」と思ったときは、全力で関係各方面と交渉すればいいと考えているので、自身の主観の視野から「責任」概念を消し去る空気清浄機のようなものを必要とはしていません。

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概念化とは当該現象の「死」である、という言い方がありますが、色々なことを決め打ちにして、その決め打ちに自らが絡め取られる、といった、精神の緩やかな死への欲動が、私には薄いのかもしれませんね。

東アジアは、豊かな自然に恵まれた地域であるがゆえに、自然と同化したい仙人願望があり、道教の桃源郷(マーラーの「大地の歌」は、これを西洋流の厭世観に変換して受容した例だと思う)とか、密教や修験道の即身成仏(かなり厳しい修行が前提になるけれど)とか、熊野の補陀落渡海(御詠歌の観音巡礼はこれと山岳信仰が混じり合っているらしい)とか、緩やかな死の欲動を肯定的に表象する系譜がありますが、

(そして大栗裕の晩年になるにつれて益々顕在化する「山」への思いは、俗世を忘れて大いなる自然に抱かれたい、ということだったように思いますが、)

私にとって、当面、音楽は、もっと「ジタバタ」する人間の営みだし、それは必ずしも、「あれもこれも」と欲張っているわけでもない、と思うんですよね。

「責任を負える範囲で負う」という態度は、それを忌み嫌う人が妄想するほど不自由ではなく、それほど恐ろしいことではないと思う。