あいだに2つ別の話が挟まってしまいましたが、1985〜95年の10年間がどうしてあんなにとっちらかった感じだったのか、というお話のつづきとして想定していたことを書きます。
『知の欺瞞』という本が出て、ポストモダンの思想はなかったことになってしまったり、90年代からこちら側の話をするときに80年代は飛ばしてしまっても大丈夫な感じに世の中のいろいろな文脈が配置されているような気がしないでもないのですが、
音楽のことを考えるときに、日本のあちこちに「クラシック音楽専用ホール」というのが出来たのは、何だったのだろうと最近よく考えるのです。
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「クラシック音楽専用ホール」の特徴はいくつかあって、多目的ホールとの一番の違いは緞帳がない(=劇場ではない、もちろんプロセニアムもない)ということだと思いますが、あと、パイプオルガンが見た目の点でも舞台のアクセントになっていたりするようです。
で、ホールの「音響」を重視した設計だ、ということですよね。
でも、4月に新しいフェスティバルホールが出来て、ちょっと考え込んでしまいました。
とても不思議な響き方のするホールで、舞台前方で歌手が歌うと、その声だけがピンポイントでクリアに客席に届いて、まるでマイクロフォンを通したような感じになって、そうかと思うと、舞台全体に楽団が展開すると、やっぱり「遠い」感じに聞こえますから、確かに空間が広大なんだな、ということはわかる。
おそらく音響を設計するうえで、相当色々な「技」が投入されているんだろうと思うのですが、ここまで来ると、もう、「ナマ音」にこだわらないで、いっそPA入れたほうが話が早いんじゃないか、と思えてくる。ちょうどオリンピックなんかのスポーツの最先端が考えられるかぎりの「科学的トレーニング」や各種グッズを導入して、アスリートさんはその競技に特化したサイボーグ同然の肉体に仕上がっているのに、ドーピングだけはダメ、と言うのに近い感じがするのです。
結局、「音楽専用ホール」ということで「残響」等々の音響設計をやりはじめると、レコーディングで様々なエフェクトを入れたり、録音後に編集するのと同じことになっている気がするんですよね。
私たちはそういうのを「込み」にして音楽を聴いているし、演奏する側もそのつもりで弾くノウハウをこの30年で蓄積して上手く対応できるようになってきたんで、一定の安定平衡状態にたどりついてはいるわけですが、海外から演奏家や演奏団体がやってくると、この人たちは、ここまでお膳立ての整った場所じゃなくても面白く聴かせられるんだろうな、と思うことがある。きれいに響くから、そういうところで演奏するのが嫌じゃないだろうとは思うのですが、これはきっと、もっと違う面がある音楽・演奏なんだろう、と思うことがあるわけです。
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で、新しいフェスティバルホールは、実はホール側が想定した音響設計の細々した工夫をすっとばしてガツンと弾いちゃったほうが、かえってストレートに伝わる演奏になるみたいなんですよね。広い空間ですから。
ひょっとすると、これからは、再びそういう時代になっていくんじゃないか。どこで弾こうが確実にお客さんを納得させるのがいい演奏だ、みたいなタフな話になっていくのではないかという気がして、そうなったときに、「音楽専用ホール」は意味と役割が変わって行くんじゃないかと思う。
そういう展開を想定したときに、それじゃあ「音楽専用ホール」というのは何だったのか、過去の一時代の価値観として振り返ることになるのかなあ、という気がします。
具体的なことを言い出すと色々面倒ですが、「音楽専用ホール」がもてはやされた時代というのは、「音楽とは(美しい)サウンドのことだ」という風に、音楽をかぎりなく透明な「純粋聴覚体験」とでも呼ぶべき理想に向けて再編成しながら楽しもうとした時代だったのかなあ、と思う。CDのデジタルサウンド時代のライブ演奏とはそういうものであった。「純粋で混じりけのないもの」というイメージを生成するために最先端の技術を投入する感じ。
でも、そういう時代はもう終わりつつあるような気がするんですよね。
かなり大きな話ですけれど。
ひょっとしたら、「「残響」の誕生」で新書一冊分くらいのお話になるかもね。