批評の世界へようこそ

[以下の文章は、あなたがどう考えるか、を問う形式で書かれています。他の誰か、究極的には「みんな」がどう考えるか、が知りたいアンケート調査ではありません。あなたはどう思うんですか?が批評である、という前提です。もし、私が「みんなの考え」を知りたいときは、仮に「みんな」という観念が実在するのだとしたら、定義上、「みんな」の中には私も含まれますから、わざわざ、あなたに相手を限定して問いかける形式を採用しない。「みんな」の中にまぎれこむことは、批評ではない。]

秋のシーズンがはじまって(この時期の来日公演は、先方からするとシーズン直前=ヴァカンスの最後の旅なのかもしれないが)、いよいよ今年はヴェルディとワーグナーの年、を実感できる9月、なのかもしれない。

  • 「作品自体の持つ力」というのは芸術批評のクリシェ。何を指すのか判然としない言葉を安易に使うと、文が死ぬ。苦しくても、意味のわかる言葉に言い換えるべき。言葉と思考はそうやって鍛えられる。
  • 冒頭で「歌手、演奏、演出、装置どれも気持ちのいい」と書いているにもかかわらず、その後の本論では、音楽(聞こえたもの)についての記述が冒頭のひとつの段落に押し込められて、そのあとは、「見たもの」「見えたもの」をめぐる記述が続く。冒頭の総括が文章全体の構成と対応していないわけだが、このバランスは意図的なのか。実際に書き終えてみると、結局この公演で私の思考を強く活性化させたのは、主として視覚面であった、というのであれば、冒頭の総論が、その認識に添って書き直されるべきではなかったか。推敲は重要です。
  • 関連して、「音楽面」に対する評価が、詰め切れていないように見える。「アンサンブルで聴かせる」ことが「この作品では重要なのかも」は、上述の「作品自体の持つ力」と書き手が呼ぶ何かを敷衍していると読めなくはないし、「難しい箇所もさすがに楽々と通過していく」は技術の評価として、あってもおかしくない。だが、「それぞれの役にうまくはまって」で想定されるそれぞれの「役柄」とはどのようなものなのか。「作品自体」が求めている(と書き手が想定する)キャラクターに合っている、の意味なのか。しかし今回はタイトルロールの設定に大胆な解釈が加えられていたことがそのあとで指摘されるので、そうなると、この公演における演技は、もはや「役にうまくはまって」という常道的な語彙に収まらない領域に踏み込んでいたのではないか、と思えるのだが……。
  • この書き手は「音楽面」については「作品自体」にいかに忠実であるか、という(やや観念的で実態の曖昧な)評価基準しか持ち合わせず、「視覚面」についてのみ生き生きと考察を展開できる人物であるかのように見えてしまう。書き手が本当にそういう人物なのかどうかは知らないが、少なくともこの文章は「音楽面」と「視覚面」を分離する構成でまとめられており、そのことが、前項の齟齬をもたらしたのではないか。
  • しかしながら残念なことに、「役柄」は音楽と演技の相互作用で立ち現れるし、そのように舞台上に出現した「役柄」の行動の総体としてしか、舞台の「作品」は存立しない。「音楽」を高度な技術で譜面の指示通りにやってくれたら、あとは「演出」のほうで面白くかざりつけるのでお任せ下さい、というわけにはいかない。
  • そして今回の舞台が、そのように「音楽」と「演出」を整然と分けており、観客を刺激したのはもっぱら「演出」の飾り付けの力であったのだとすれば、そのような「音楽」と「演出」の分業を書き手がどう思ったか、そこを予め考察して自分なりの態度を決めておかないと、破綻のない論旨を維持するのが難しくなるのではないだろうか。「音楽」が穏当で「演出」が攻めるタイプの舞台が、「作品自体の持つ力」を「クリアに見せる」地点に到達するのは、それが実現していたとすれば相当なアクロバットであり、その理路をつかまえるには、別の言葉と書き方が要る。

私はこの演出家の別の演目を前に見て、この人は、正直、あまり耳が良くなくて、でもヴィジュアルを大胆に展開する力が抜群にあり、そのアンバランスが特徴だと思ったのだが、今回はどうだったのだろう。