自由がモラルであるような言説と利子率がマイナスな世界とアート・カルチャーの隔離

[ゴチャゴチャした話なので、小見出しを追加]

本来の「市場原理主義者」[……]にとっては、「市場原理」とは物理法則のように現実的な力、それに逆らいうるのは国家権力くらいであり、しかもそれさえ長くは続かない、それほどの力であるのだが、エセ「市場原理主義者」としての「構造改革主義者」にとって「市場原理」とは、なかなか現実化しない、はかなくも美しい「理想」なのではなかろうか。それが指し示す競争的均衡、パレード最適のユートピアは、誰かがずるをしたり怠けたりすれば、あっという間に堀り崩されてしまう。だからそれこそ場合によっては、国家権力を用いてでも人の尻を蹴飛ばし、その美しい理想に向けて駆り立てるべきなのだ、と。要するに「構造改革主義者」は倫理としての「市場原理」を奉じるモラリストたちなのである。(189頁)

ここまで読んだ。俄にコメントを思いつかないけれど、味わい深いお言葉、と思えてならない。「改革」は、ヤンキー魂をくすぐる性質を備えていたんだ、ライオンハートの人とか、維新の人とか!

経済学という教養 (ちくま文庫)

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マイナスの利子率 - もし金融が本当に自由市場だとしたら

で、それとは別に、金融というのは不思議な世界で、預金というのは、銀行に投資先をお任せした、元本保証でローリスク・ローリターンな預金者から銀行への貸し付けと見ることができて、それはまあそうだろうと普通にわかるわけですが……、

さらにその先で、そうやって世の中をぐるぐる回っている「お金」も一種の商品だと考えた場合、不況だと「お金という商品」も価値が目減りして、貸し付けの利子率がマイナスになる状況(色をつけて渡さないと誰もお金を借りてくれない=受け取ってくれないような状況)が理論的にはありうるはずだ、と考えることができるみたい。

銀行にお金を預けておくとどんどん目減りしていったり、人にお金を貸すと、貸したより少ない額しか戻ってこない、とか、そういう状況ですね。

現実にそういう状況を引き起こそうとすると、人はお金を銀行に預けるのをやめて「タンス貯金」する守銭奴になっちゃうから、利子・金利はゼロのところで足切りされてそれ以下にはならないはずで(下方硬直性という言葉をこういうときに使うらしい)、マイナスの利子率というのはあくまで理論上の想定らしいのだけれども……、

でも、お金が、ただ持ってるだけだと見る見る価値が減っていく生鮮食料品のような商品であるSF的世界を想像してみると、少しでも目減り率が少ないようにお金を使うのが得だ、という相対優位な自由市場が動き出して、案外世の中は活気づくかもしれない。利子率がマイナスになるところまでもっていってはじめて、「物理法則のように現実的」で、国家権力ですらその前に屈服せざるをえない「市場原理」が真の力を発揮して、何らかの均衡へたどり着く、そういう考え方があるのかもしれません。

(……と、銀行だってつぶれていいはずだ、とか、不良債権どうするんだ、とかがホットだった10年前頃、切実に想像されていたのですね。)

芸術・文化の「構造改革」?

そういうSF的状況まで考えていいんだとしたら、文化・ゲージツが原則儲からない事業だからといって、遠慮しなくてもいいんじゃないか、とちょっと元気が出て来そうです。経済学が、利子率がマイナスの投資、という行為ですら、現実に起きうる事態として理論的に取り込みうるのだとしたら、文化・ゲージツという「金食い虫」で「儲からない」活動が、社会の足を引っ張る日陰者と肩身の狭い思いをしないで済む理論的な位置づけがあり得るのではないか。

文化・ゲージツが儲からないのは見かけ以上に人がたくさん関わる人力の営みで、お金とともに取り扱いがややこしい「人間」という商品が関わるからだと思うので、ここまでの話と一緒にしてはいけないのだとは思いますが、さしあたり、文化・ゲージツが、独自の領域として自前の理論武装をするのではなく、通常の経済活動のマネをして「採算部門」になりうるフリをするのは、実は筋が悪いかもしれない。

例えば、お客様に対して「元本保証」をしようとすると、なんだか堅苦しく窮屈で、信用第一の金融業じゃないんだから、という感じになって、どうにも本気で盛り上がらなくなってしまう。

しかも、「元本保証」でお客様には決して損はさせません、という建て前を崩さない感じで興行を営むのに加えて、「構造改革」な気分に乗って、「私たちは、私たちの理想でありユートピアであるところの「市場原理」の優良プレイヤーなのです」「世界を安全でスポーティーな競争のコロシアムへ変えるのです」「私たちに逆らうものはすべて醜い守旧派か、さもなければ悪の枢軸、これは聖戦、神は堅きとりでなのです」と言わんばかりのメッセージを発することになると、あまりにも息苦しい。たぶん、そういう役を演じるのは、演じる当人が自分で自分の首を絞めてどんどん苦しくなっていくんだろうなあ、と思う。

芸術・文化の「隔離」は「構造改革」と相性が良い

しかし、実際はむしろ逆の流れがあるように見える。

文化・ゲージツを特別扱いする言説、「文化・ゲージツはリアル・ワールドのロジックから離れてもいいんです、現実に倦み疲れた人々のための心の避難所なのです」という立場が根強くて、おそらくこの立場は、それなら文化・ゲージツを「効率的に」隔離しよう、という割り切った考え方を介して、案外「改革」と仲良く手を組みやすいんだと思うのです。

文化・ゲージツを、社会の必要経費として予め計上すれば済むだけのこと、この一手間をかけて、文化・ゲージツを隔離して、やりたい人に勝手にやらせておきましょう、というわけで、文化・ゲージツをとりこむのは案外簡単なことかもしれない。近衛秀麿の下からの大政翼賛、とか、フランスの「現代」はボナパルティズムとともに始まった、とか、過去の事例もありますし……。「構造改革」を叫ぶ武闘派ヤンキーの傘下に入ると、菩提樹の下で冬の旅の疲れを癒すように、甘美な夢に耽溺しつづけることができるかもしれないわけです。

皇紀・万博・オリンピック―皇室ブランドと経済発展 (中公新書)

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音楽の「現代」が始まったとき―第二帝政下の音楽家たち (中公新書)

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事実、今ではさすが「自由市場」だけあって、下は「ヤンキーはファンシーだ」説から、ジェントリフィケーション、ゲートの中にお金持ちが立てこもる都市構想まで多様なニーズに応じて品揃えが豊富になっている。「構造改革」の流れにのっかりつつ、社会の必要経費として自ら進んで「隔離」してもらう、というのが、たぶん現状では、文化・ゲージツが一番手っ取り早く生き伸びる道なんだろうと思います。(総力戦下で美しい戦闘機を作る、というのは、反時代的というより、時代の王道かもしれません。)

夢を見る人、見ない人

ヤンキーな「改革」と文化・芸術の「夢」の相性がいい、という事情がすっきり見えにくいのは、「改革」陣営が文化・芸術を恫喝的に手なずける、という手法を基本にしており、実態としては庇護するくせに、言葉の上では、「本来きみたちも自助努力すべきなのだ」というモラルを叫び続けていること、そして文化・芸術の側が、実際にはそんなことは不可能なのに、「わたしたちは「元本保証」をモットーとする市場の優良プレイヤーです」と表向きには言い続けねばならないところへ追い込まれていることによるのだと思う。

でも、芸術・文化の経済の話をもっとおおっぴらに、建て前抜きでやってもいいんじゃないだろうか?

とりあえず、自由市場と厚生・公共を分けて両立させる考え方があるように、ハイリスク・ハイリターンで利益率マイナスがあり得る「文化・芸術第一部門」(芸術・文化が自分たちのいわば「精進」のためにやる部門)と、「元本保証」に下方硬直して心の癒しを求める「文化・芸術第二部門」(「改革」ムードなご時世を安全に生き延びるための看板)を分けてはどうか。

今はまだ「第一部門」と「第二部門」を分ける呼び名がないけれど、賢い当事者は、そのあたりを切り分けて運用して、現実は既にそういう方向へ動きつつあるような気がする。そこがマネジメントの先端なんじゃないだろうか。

(創作者や実演家は、マネジメントや言論人が「看板倒れ」なのか、「夢」の看板を掲げつつ冷静に現実を見つめている人なのか、そこを見ているような気がします。渦中の当事者ほど冷静で、その周辺に騒々しい渦が取り巻いている。興行の世界は昔からそういう構造になっていると思うのですが、そこのところは、特段「改革」されることなく、今も昔もそのままだし、それでいいんじゃないか。ゴチャゴチャした部分を整理すると、結局、そういう認識にたどりつきそうな気がします。)