だいたいこんな感じ、デフレ成熟社会に「形容詞のインフレ」は似合わないしね

ろくに聴けてないのに高いプライドを背景に高邁な精神論を語る、というのは、かつては「旧制高校的教養主義」と言われてオトコの専売特許だったわけだが、今はこういうところも男女同権になったらしい。根性論みたいのにウンザリするところから職業音楽評論家というのが出現したはずなのだが、ニンゲンは進歩しないね。賽の河原。

どっちにせよあと2回ある「まだ途中」なんだし、災害が起きる度に「未曾有」とか「かつてない」とか「史上初めて」とか大仰な形容詞をつけないと気が済まないセンセーショナリズムみたいなのは、読んでて悪酔いしそうに気分悪くなるから、やめてほしいよね。言葉のアル中。今時のまともな文化・芸術ジャーナリズムは、もう、そんなのやらないよ。

変な楽譜なんだから、ちゃんとした人がそれなりの覚悟で弾いたら、それなりにびっくりすることが起きるのは当たり前です。そんな心構えもなしに音楽会やってるのか、あんたらは。そら、平和ボケじゃ。

ここで先走ってそんな大騒ぎしとったら、トゥーランガリラとかワルキューレとか青ひげとか、どないするつもりやねん。

  • (1) 「最初の2小節は p をキープして次の2小節で f まで猛然とクレッシェンド。ただしテンポ/スピードは一切緩めず、むしろ前のめりに煽る感じにしたい。2小節でクレッシェンドといっても、和音が4つあるだけで、これがまた鳴りにくく、つかみにくいポジションなので、確実に求める効果を得るのは至難の業。さて、どうするか。」……ベートーヴェンは長い演奏伝統があり、別にわざわざ難しい道を選択しなくても、慣習的に代替え案でやり過ごすことが常態化しているのだけれど(ケンプなんかの世代だと、そういうお気楽ノンビリをベースに時々頑張るところが「緩急自在」と言われたりした、そんな時代があったのだ……)、この人は、ほぼ自主的に、全編びっしりといつでも一番ハードルの高い解法を選ぶので、演奏難度としてはリストか何かのヴィルトゥオーソ曲を弾いてるのと同じことになる。なんちゅうことか、と呆れてしまうけれども、この人は、たぶん誰のどの曲を弾くときでもこういう風に一番難しい選択肢を自分に課して来たのでしょう。凄いことではあるけれど、まあこれは、今時のピアノやヴァイオリンのソリストであれば、みんなそうなのでしょう。これくらいやらないと、「悲愴」を今更人前で弾いたり、レコーディングする意味はない、みたいな意地があるのだと思う。
  • (2) (1)のクレッシェンドもそうだけれど、基本的にA地点からB地点まで行くときには常に一切無駄のない最短距離で一直線。これは、ベートーヴェンだからそうなのか、この人のスタイル、ポリシーなのかはよくわからない。構成がシンプルな曲でこれをやると演奏が単純になるけれど、ベートーヴェンの譜面は、読み込めば細かく様々な「キュー」を設定できるので、個々の表現(処理)は直線的でも、その膨大な組み合わせで全体はとんでもなく複雑な回路図のようになる。まあ、よくこんなことを毎回やるものだと思います。壮観。
  • (3) (2)のマクロ版のような感じで、「熱情」の再現部へ入るところとか、ここが曲中で一番の山場だと見極めたときには、あらゆる困難をものともしない緊急総員配備になる。巨大な飛行機がジェット噴射で飛び立つみたいなことになって、たぶん、このスイッチが入ったときの凄み、そしてどの箇所でこの「最終兵器」を投入するかの見極めと踏ん切りの良さが、この人の演奏の最大の特徴ではないかと思う。1つの演奏会で、たいてい必ず一度はこれがあって、よっしゃあ、キターって感じがする。これが始まると、思わず座り直してしまう。
  • (4) 「悲愴」のGraveとか、op.7の緩徐楽章とか、音が途切れても音楽がつながっていなければならないところが今回の前半の2曲にはあって、こういうのは、どういう流れを作らねばならないか、譜面が読めたうえで、しかし頭でわかっていても実際に舞台上でちゃんと気持ちがつながっていないとどうにもならない。こういうところを弾ききったのは立派だと思う。ベートーヴェンらしいしっかりした響きを作る、ということとともに、こういう風に「情に流されるのではなく意志で切り開いていく音楽」をそろそろやりたいし、やっておかねばならないし、いまならできる、というのが、ひょっとすると、ベートーヴェン・チクルスに挑戦しようと考えたときの具体的な目標のひとつだったりしたんじゃないだろうか。音楽史的に、ハイドンの緩徐楽章にこういうのの萌芽みたいのがあって、こらえ性のないモーツァルトにはほとんどこういうタイプの曲がなくて、ハイドン弟子のベートーヴェンが大規模開発したのがその後のドイツ音楽に受け継がれた、そういう由緒正しい系譜のある表現の型だと思う。(op.7の緩徐楽章にはErwin Ratzに素晴らしい分析があって、こういう表現の型が、C. P. E. バッハの神経過敏な多感様式からシェーンベルク一派の表出までを想像的につないでいる。)今回は、いよいよこれに挑戦することになったわけで、演奏者が「没入する」と言ったのだとしたら、そのことを指していたのではないか。op.7がこれだけできたんだったら、ひょっとすると、ハンマークラヴィア、いけるかもしれない、と思った。
  • (5) その他:サウンドの仕上がりの良さ、タッチ・トーンを滑らかに整えたり、どんなに強い箇所でも、会場のサイズにぴったり合わせて、音をきれいに収めるのは、センスとか天性という言葉を使いたくなってしまうこの人の性格なんだろうと思う。舞台上で他人に不快感を与えない柔軟な「耳」が備わっている。その一方で、op.54とか聴いていると、ベートーヴェンのことを「なんだか常に不機嫌で、ゴツゴツして、ぶつくさ言ってる短気でキレやすいオッサン」と内心で思いながら弾いているような気がする。解釈の個性という点では、これが一番面白かった。あと、この人は、op.7みたいに終楽章がロンドで気持ちを解放するタイプの曲(チクルスをこういう風に終わらせるやり方が、次の世代のシューベルトのソナタのお手本になった)は、最後まで油断せずに「高難度」を追い求める姿勢を崩さないので、イマイチ楽しめない。「熱情」のように、細かい動きを全部捕捉して、拍を細分化した精細度の限界への挑戦ということにして、実際の速度以上にスリリングに駆け抜けるほうが得意みたい(京響とのコンチェルトの終楽章もそうだったし)。こういうところは、良くも悪くも「若い」と感じる。

以上

(こんな感じに数千文字相当に色々考えたのを工夫して800字に詰め込んでるのが新聞・雑誌の短冊型の公演評だと思ったら、多少は読んで面白くなるんじゃないかしら。うちのホールのことが書いてある、とか、誉めてるか貶してるか、とか、そういう情報しか取得しないような文章の読み方はつまらんよ。原則「自分がすべて」で、他人の言葉を入れる容量が脳内に存在しないんだったら、しょうがないけど。

8回の続き物企画だったのだから、途中から入ってきた人のことを考えるなら、連載や連続ドラマの「これまでのあらすじ」的な情報を出して、これまでとこれからを繋く、というやり方はなかったか。全部聴いてる人も、最初の頃のことは徐々に記憶が薄れてくるし、何がどういう順番だったか、だんだん、ゴチャゴチャしてくるし。もう手遅れかとは思うが。)