「もはや○○ではない」

タイトルの○○に「平成」を代入して発話してみる。

「それは昭和っぽい」と言いたくなる場面に遭遇することがここ数日に何度かあった。でも、それが「今現在=コンテンポラリー」から見たときの「今よりひとつ前の時代の出来事・感覚・発想」=中古品、というニュアンスになるのは嫌なのです。

1990〜2010年を一括りの時代とまとめることは、1989年と2011年が「節目」と言いたくなる出来事のあった年号と言えそうですから、それほど無理なことではないかもしれない。(「失われた20年」なるものと重なりますし。)

そしてこの世紀転換期に名前を付けるとしたら、「平成的」という言葉がひとつの候補として浮かぶ。

(あるいは、「平成」が長く栄えることを願う思いから、そして長く続いた昭和を前期(敗戦まで)と後期(戦後)に分ける言い方があるのに倣って、「平成前期」とするのが、穏当ではあるでしょうか。)

そのような下準備をして、さらにその先の「来るべき元号」の近未来から振り返ったときに、「2つ前」の時代としての「昭和」はどのように見えるか。

濫用してはいけない思考実験だとは思いますが、歴史にifはない、の代償として、歴史から未来へ視線を馳せる補助線を得るのは、おそらくNGではないはずですし、「平成」が既に20年以上続いて、「コンテンポラリー」と自明視できない厚味があることを、改めて自覚する契機としたい。

(「平成[前期]に活躍した学者たちの言うことは hogehoge だ」、「昭和ヒトケタ生まれの父が死んだ年に、平成[前期]の音楽ホールを出入り禁止になった」等々の用例を思いつく。)