- (a) 「人間は死ぬ」
- (b) 「ソクラテスは人間だ」
- (c) 「ゆえにソクラテスは死ぬ」
が古典的な三段論法。
一方、今ここで提出されつつある「集合知」っぽい議論は、次のような形態になっている。
- (a') 増田聡が「人間は死ぬ」と言った
- (b') 辻大介が「ソクラテスは人間だ」と言った
- (c') 再び増田聡が「ゆえにソクラテスは死ぬ」と言った
果たして、このセッションは「真」なのだろうか?
この「集合知」っぽいセッションから私が(そしておそらくこのセッションのギャラリーが)事後的に悟ったことがある。それは、
「古典的な三段論法が「真」と認定されるのは、一連の発話が同一の発話者によって連続して行われると暗黙に想定する状況においてであった」
ということだ。
(ソクラテス/プラトン的な「対話」では、やや事情は異なるが、上の(a')〜(c')のセッションは、増田と辻の対話としてなされたわけでもない第三の事態なので、「対話」問題については、ここでは検討しない。)
依然として、(a')〜(c')の「」の中身をこの発話を受信した者が自らの責任においてつなぎあわせた発言は「真」である。
しかしそれでは、(a')〜(c')においては、何が起きているのであろうか。
おそらく一連のセッションは、
- (d') ○○は××に対して、(a')〜(c')の「」の中身は真である、と言った
を付け加えなければ閉じないと思われるわけだが、その場合、「真」を認定する○○とは何であり、「それは真である」との認定を受ける××とは何なのだろうか。集合知的な意味における「みんな」なのか、ピープル?衆生?
「好きなもの研究」にはこれが足りない、これを足しなさい、という指示が複数の発話者から寄ってたかってなされる「リンチ」はオッケーであり、一方、「好きなもの研究」に足りないものを補うのは、依然として「好きなもの研究」を行った当事者であり続けなければならないという非対称性は、何人もの審査員に申請者が単独で対応する光景に似ているわけだが、その制度=「知の教団」の試練、は何を担保に成立しているのだろうか?
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……要するに、なんでこんな20世紀に逆戻りしたような抑圧が2013年の大学教員の間に復活してんだよ!って話だ。
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論証の不可欠な工程のひとつである(b')を自力で案出できなかったにもかかわらず、平然と(c')の「オチ」を自らの手番としてゲットする発話者に対しては、集合知の意味での「みんな」と重なりそうで重ならない「世間」の慣用句として、「虎の威を借る狐」というのもあり、さらに、狐には狐の人生があるとも言えるわけだが、だとすれば、「狐の弁明」が、「ソクラテスの弁明」とは別になされねば、システム・エラー、提出書類の不備となろう。