インドネシア考: オカルトとニューサイエンスを東アジアが架橋する

インドネシア1967

大栗裕は関西テレビの「インドネシヤ」という連続番組の音楽を1967年に担当していて、このほど、これがドキュメンタリー番組だったとわかったのだが、しかしなぜ1967年だったのか?

……と調べたら、政治・経済情勢のようですね。

スカルノ退陣を見据えて、インドネシアはスハルトのもとで1967年にこうなった。

スカルノ体制から引き継いだ累積債務の処理について検討する IGGI (Inter-Governmental Group on Indonesia) が1966年に結成され、以後、この債権国グループと世界銀行を中心として、インドネシアへの経済援助を討議する枠組みが形成された[35]。1967年2月にIMFへ再加盟、同年4月には世界銀行にも再加盟した。

インドネシアの歴史 - Wikipedia

その後の日本と関係が深そうなトピックとしては、

インドネシアは1967年に外国投資法(Law NO.1/1967 on Foreign Investment)を制定しました。

インドネシア投資調整庁 BKPM 日本事務所

日本企業の東南アジア進出がこのあたりからなのかなあ、と思ったのですが、あっているのでしょうか?

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で、インドネシアといえばケチャ、ガムランだが、きっとそういう「文化」への関心は、政治・経済のうえに乗っかっていそうですねえ……。

1972(昭和47年)42歳
12月、ヤニス・クセナキス、ベッツィー・ジョラス、モーリス・フルーレなど、フランスの音楽家たちとともに、インドネシアのジャワ島とバリ島へ旅行。

ショット・ミュージック株式会社|武満徹 略歴

武満徹がこのタイミングでインドネシアへ行ったのは、「なんだか臭いなあ」と前から思っていたのです。

もちろん、以前、小沼純一が追っていたように、ヨーロッパはヨーロッパで、「1889年革命100年パリ万博のドビュッシー」だけでなく、20世紀前半にも様々な事情で音楽家たちがインドネシアに関心を寄せているけれど(プーランクが有名か)、

戦後日本の文化人とインドネシアは、阪大音楽学もかつてはガムランだったわけだし、ちょっと気になる。

(案外いろいろなところと絡む大栗裕である。)

杉本清

先に書いた「インドネシヤ」の件(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150915/p2)、テープに添えられた局スタッフの記載を信じるならば、海外取材番組「インドネシア」30分番組が少なくとも3回分制作・放送されたようなので、なかなか力が入っている印象を受ける。

で、「ナレーション:杉本」と書かれており、なるほど声はあの人だ。関西テレビ入社7年目の杉本清がインドネシアを語っている。

競馬中継が土曜午後のレギュラー番組として定着して、この人がメインで進行するようになる数年前のことみたい。

インドネシア1979

井上ひさしが『日本語教室』(2011年)に、「大江健三郎さんや武満徹さんたちとバリ島に行ったことがあります」(149頁)と書いているが、

日本語教室 (新潮新書)

日本語教室 (新潮新書)

小谷野敦の『江藤淳と大江健三郎』(2015年)では、大江健三郎と井上ひさしが1979年8月はじめにインドネシアに行ったときのメンバーに武満徹は入っていないし、苦労してバリ島に到着した飛行機内で大江が言ったとされる言葉も、大江自身が高橋康也の弔辞で披露した話(シェークスピア「テンペスト」の引用)は、井上の申告(「見よ! あれがバリの灯だ」)と食い違う。

江藤淳と大江健三郎: 戦後日本の政治と文学 (単行本)

江藤淳と大江健三郎: 戦後日本の政治と文学 (単行本)

ショット社が掲載している武満徹年譜の1979年は、

1979(昭和54年)49歳
5月、東ドイツ芸術アカデミー名誉会員。

ショット・ミュージック株式会社|武満徹 略歴

とあるだけで、武満がこの年バリに行ったかどうか、よくわからない。(行ったとしたら1972年以来二度目になるのかもしれないが。そしてこの年ではなく、別の機会に井上ひさしとバリへ行ったのかもしれないが。)

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とりあえず、中村雄二郎『魔女ランダ考』第1章の注1(私が持っている同時代ライブラリー版では85頁)に、1979年8月と1980年3月のバリ行きのメンバーが記載されている。

  • 1979年8月 井上ひさし、大江健三郎、清水徹、高橋康也、中村雄二郎、原広司、吉田喜重、渡辺守章(山口一信と西村六郎が同行)
  • 1980年3月 市川浩、多木浩二、中村雄二郎、前田愛

メンバーは小谷野の本と一致して、武満はいない。大江の友人で日航勤務の西村六郎の斡旋であるらしく、1967年の政変から12年経って、日本→インドネシア航路が着々と整備されつつあったことが推察される。

魔女ランダ考―演劇的知とはなにか (岩波現代文庫)

魔女ランダ考―演劇的知とはなにか (岩波現代文庫)

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『魔女ランダ考』に収録された論考それぞれの初出は単行本(1983年刊)には出ていないが、1979年のバリ、というと、同年に西村朗が「ケチャ」を発表している偶然が、私にはちょっと気になる。

西村のケチャ Kechak for 6 Percussions は、1979年作曲、1979年11月11日、パーカッション・グループ72の委嘱作として初演され、翌年NHKで放送されて、ユネスコ国際作曲家会議(IRC)最優秀作品、ということになるらしい。

光の雅歌―西村朗の音楽

光の雅歌―西村朗の音楽

沼野雄司のインタビューでの受け答えによると、西村朗は、東京芸大1年のときに小泉文夫の授業を受けて民族音楽に傾倒したらしいので、一浪して入学した1973年、ちょうど武満がインドネシアに行ったあとくらいの時期に、小泉文夫経由でケチャ、ガムランに出会っていたことになる。

一方で、芸能山城組(当初は学生コーラス「ハトの会」)は1970年前後から小泉文夫と接触して、

1973年、バリ島に初の調査。1974年に「芸能山城組」に改名。

芸能山城組 - Wikipedia

ということなので、西村は、70年代にインドネシア芸能を日本で仕掛けた人たちの近くにいて、当然その動きを知っており、事態の推移・分析を十分にやったうえで、満を持して1979年に「ケチャ」を投下、という流れになりそうだ。

小泉文夫は1983年に死んでしまったが、芸能山城組は、

1986年に、バリのガムランや日本のお経など、さまざまな民族音楽や唱法を取り入れた「輪廻交響楽」発表。これを聴いた大友克洋から楽曲の借用を要請されたのをきっかけに、『AKIRA』のすべての音楽を担当し、1988年に「Symphonic Suite AKIRA」として発表。1990年に「翠星交響楽」発表。その後も世界各地の民族音楽の研究と発表を続けている。

芸能山城組 - Wikipedia

ということになる。

(a) AKIRA世代(たぶん1970年前後以後生まれ)のワールドミュージック観と、(b) 1970年代に小泉文夫と「世界の音楽」がじわじわ来ているのを子どものころに眺めながら育った世代(私たち)と、(c) これらの動きに現場の若手としてコミットした世代(西村や山城)と、(d) 同時期を旅行会社や公的機関の斡旋で観光したオジサンたち(「へるめす」な人々)。

どうやら、これらが重層的に折り重なって、「80年代ニッポンとインドネシア」は、一筋縄ではいかない感じがある。

AKIRA 〈Blu-ray〉

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ちなみに、1980年代に阪大助手をしながらガムラン・アンサンブルの中心メンバーだった中川真の父、中川正文は京都女子大学こどもの劇場で1970年代から影絵芝居(ワヤンと無縁だとは考えにくい)に取り組んでおり、京女の同僚の大栗裕が作曲した作品もある。

そして大栗裕が顧問として指導、指揮していた京都女子大学マンドリンクラブ(現京都女子大学マンドリン・オーケストラ)の定期演奏会のメンバー表をみると、第11回(1975年)から第18回大栗裕先生追悼演奏会(1982年)まで、8年続けて「Percussion(賛助出演) 中川真」の記載がある。

大栗裕のマンドリン・オーケストラの作品・編曲でティンパニーをはじめとする打楽器が入るのは、この時期の京女のための作品だけなので(関学の曲は打楽器なしでFl、Clが入る)、打楽器は中川真の参加が前提であったと考えられる。1951年生まれで西村朗の2歳上の中川真が24歳から31歳までの8年で、これは、彼が京大から阪大へ移り、院生・助手として阪大音楽学研究室に在籍していた時期と、ほぼ重なる。

70〜80年代がサブカルの時代なのだとしたら、どこで何が起きていたのか、こういう風な「水面下の動き」(大学生や大学院生たちの)を含めて、ひとつずつピースを集めて、ジグソーパズルを埋めていくしかなさそうだ。

インドネシア1986

日本とインドネシア/ガムランの追跡、まだ続きます。

映画「AKIRA」を初めて全部観て、AKIRAというのは、ジャケットの絵のバイク少年(金田ですか?)のことじゃないのをようやく理解した、というくらいに、これまでずっと縁がなかったわけだが、オカルト(ひとまず宗教と言ってよいのか)とニューサイエンスをつなぐ想像力の領域にアクセスしているようなところがあって、ドラマにおけるオカルトと科学の結節点、AKIRAな感じのパワーが覚醒したり、それを科学者がラボで観察している場面のライトモチーフがガムラン音楽なんですね。

雑駁に図式化すると、オカルトとニューサイエンスをアジアが架橋することになっている。

AKIRAは海外でも評価が高かったとされていて、実際に、1991/92年にドイツにいたときに、マンガ好きのドイツ人男子学生が留学生の寮に来て、我々日本人相手にAKIRAの素晴らしさを熱く語っていたけれど、アジアの想像力、いわば、イエローマジックと受け止められていた面があったんじゃないだろうか。

思えば、「2001年宇宙の旅」では、スターチャイルドへの進化のバックにリゲティが鳴っていたわけで、トランシルヴァニアには「欧州のなかのアジア系」というイメージがあるわけだから、SF映画の想像力の構図として、イエローマジックが超常現象とサイエンスをつなぐAKIRAのセッティングは、斬新というより、オーソドックス/正統派だったのかもしれない。

一方、9年後のエヴァンゲリオンはキリスト教異端とニューサイエンスを掛け合わせて、「アジア」は消えているが、そのかわり、ラブコメタッチのところにJ-POPテイストの音が鳴る。アジアン・ポップス/ジャパニメーションは、イエローマジックの後継なんですね。

(そしてオカルティックなニューサイエンスと、ソフィスティケートされたエロス(含む、ロリコン)は、「アジア」に寄せる世界市場の需要にぴったりはまる。そういえば、欧米におけるガムラン受容は、20世紀のはじめの段階で既にゲイ・カルチャーと結びついていたらしいが……。)

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ということで、1986年の日本のサブカルチャーの先端におけるインドネシアは、(遂に決定的に)オカルトやニューサイエンスと結合したらしいのだが、

私がそこで思うのは、ニューアカデミズムである。

ニューアカ的なものが「ポモ/カルスタ/ポスコロ」と俗称されるに至る流れで注目されるのは、主として、人文系・文芸文化批評系の言動(2016年現在ではその末裔の方々がSNSに生息しているような)だけれど、

80年代のニューアカデミズムとされる動きのなかには、ニューサイエンスが入っていたわけですよね。ゲーデル/エッシャー/バッハとか、フラクタル、F分の1のゆらぎとか、DNAの分子生物学、エイズと疫学とか。

70年代のオカルトが「ニューアカ」の看板を掲げた80年代のニューサイエンスに吸い寄せられて、90年代の新興宗教(オウムの理系幹部)であるとか、ついこの間のSTAPまでつながっているんだろうと思う。

(STAPは「理系」の案件、ニセ・ベートーヴェンはひとまず「文系」の案件かもしれないけれど、「聾の聴覚的想像力」というのは、オカルト/ニューサイエンスがどこかに含有されているように思います。長髪の風貌は、ロック風であるともいえるし、教祖風でもあったわけだし。)

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考えてみれば、東大には宗教学があり京大には仏教学があるが、阪大には宗教学も仏教学もない。(そもそも戦前には人文社会科学がまったくなかった。)大学のキャンパスでおおっぴらに宗教と科学が遭遇する回路を日本の近代国家が用意したのは、東京と京都、現在の首都とかつての首都だけだったということだ。

五木寛之は「宗教都市・大阪」なんていうことを言っているし、中沢新一のアースダイバー大阪編も「大阪の霊力」みたいなものを暗示して、大阪人をおだてるわけだが、都市の近代的な装備として制度化されていないから、大阪の宗教は民間信仰や新興宗教ということになっていく。

大阪やその他の都市は、もしかしたら都市機能の大事な装備かもしれない宗教の取り扱いに関しては、「G」と「L」という話がでてくる前から、とっくの昔に「G」にはなり得ない風に設計されているのかもしれません。宗教と科学を結ぶ回路は、「G」と「L」を分類しようがしまいが、東京と京都が独占し続けており、その状態は少なくとも100年間ずっとそうだったわけです。

(Akiraやエヴァには一種の陰謀史観が入っていて、「上層部」の悪巧みに現場の科学者が操られるが、実は、上層部が掌握し、隠しているのは「叡智」ではなく「オカルティックなパワー」なんですよね。日本のサブカルチャーが描く管理社会は、血も涙もない知性による非人間的な支配ではない。啓蒙され、近代化された「終わりなき日常」をリセットするボタンがどこかにある。国家の中枢のエリートだけが、その秘密のボタンのありかを知っている。ということで、これは、「宗教」が隠されていることを暗示する世界観なのかもしれませんね。)

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さて、そして、そんな「宗教なき阪大」でガムランのリーダーになった中川真は京大美学から大学院で阪大にやってきた人で、実家は奈良の寺だ。

90年代オウムの「科学技術省」の人は阪大からスカウトされていたし、

ゼロ年代のポピュラー音楽論のアイドルだったのかもしれない増田聡先生は、東大でなんとなくオカルトにレヴィナスとかやっていた教祖・内田にあっさり帰依して、もはや脱会は不可能っぽい感じに見える。

たぶん阪大なんぞにいると、宗教・オカルト・ニューサイエンスへの免疫がつかないんだと思う。

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今も「先端的な研究」としてオカルトとニューサイエンスを掛け合わせた先で現代文化論を語る人がいらっしゃるわけじゃないですか。

大阪は、京都や東京のいいカモ、猟場になっていると言わざるを得ないと思う。

1986年の「AKIRA」、近未来のネオ東京でオカルトとニューサイエンスのバックにガムランが鳴るのは、ここで何かの狼煙が上がったんだと思う。1986年のガムランは、サブカルチャーが旨味のある鉱脈を見つけたシグナルだ。

(ニューサイエンス系学者の方々は、いかにも南国の楽園、アマン・リゾートでのんびり昼寝、とか、そういうのが好きそうだし……。)

[で、1992年にマザコン・エリートサラリーマン冬彦さんのバックでガムランが鳴るのは、80年代AKIRA的なサブカルの時代が終わったあとのパロディなんですかね。

ゼロ年代以後、今では、「上層部のエリート集団」は端的に腐敗していると思われているようだけれど、「オカルティックなパワー」がどこかにある、という信仰がなくなったわけではなくて、だからゼロ年代にネットワーク回線につないだ先を人がさまよい続けたのだろう。この中毒が治まっても、どこかで何かを探し続けるのだろうか。]