読みかけの本、読み終えた本を整理するついでに、今後二度と使うことのなさそうな、かなり気恥ずかしくかっこよさげな言葉たちについての覚え書き。
アイデンティティ
- 作者: 岸政彦
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2013/02/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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アメリカから日本へ返還されたのちに希望を抱いて本土へ渡り、沖縄へ戻っていった人たちへの聞き取りを通して、そうした人たち(そして取材者であり書き手である「私」)のアイデンティティを真摯に内省する文章だと思うのですが、肝心のところで、アイデンティティという言葉がうまく転がっていかないもどかしさを感じた。
素人の的はずれな感想を承知で言うと、この名詞を使ってしまうことで、この名詞に相当する事実もしくは観念が実在するはずなのに、どうにも正体が掴めない、容易に正体をつかまないことが誠実な態度なのだ、という風になってしまっているようなのだけれど、一度 identify という動詞へ「湯戻し」してはいけないのだろうか。A identify B as C とか、A identify B with C というように、3つの項を関係づける動詞としての働きは identity という名詞にして考えるときにも変わらないはずで、「○○の identity」と言うときに、「私が私を私とみなすこと」みたいに3項がすべて同一である状態をいきなり考えるから身動きがとれなくなるんじゃないだろうか。「日本/沖縄のアイデンティティ」というような言い方が出てくるときに、誰が誰をそうみなしている話なのか、読んでいて混乱した。
オートポイエーシスと複雑系
集合知とは何か - ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)
- 作者: 西垣通
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/02/22
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閉じて自立してカプセル化された中身の見えない個体(のクオリア)を想定しない複雑系なんてだめだ、個体と個体の二人称関係から集団が自生するのだ、というストーリーを後半から読み取っていいのだと思うのですが、すでに自立した個体が存在している状態で、個体どうしがどのように関係を作っていくか、というのと、そのような個体がどのように発生したのか、というのは、やっぱり別の話だと思うし、どのように発生したか、については、具体的な経緯について、決定的な説が出てきてはいないのかもしれないけれど、大筋としては複雑系的な説明、シロウト的な理解としては「偶然」ということになるんじゃないだろうか。
生まれてきたのが「偶然」だからといって、自暴自棄になる必要はなく、せっかく生まれてきたんだから、個体と個体の二人称関係から集団を自生させていけばいいわけで……。
あと、とりあえずクオリアという名前をつけている、外側から知り得ないし、他の個体のそれと同一かどうかを判別しようがない感覚の質みたいなものは、あるかどうかわからないのだから、あるかどうかわからない、ということで話を進めないとしかたがないのだろうと思った。かつて、どうして光が真空を伝わるのか、光は波なのか粒子なのか、上手い説明ができなかった時代に、とりあえず「エーテル」を仮設したようなものなのだろうと。
メディアの中立とジャーナリズムの不偏不党
- 作者: 水越伸
- 出版社/メーカー: 同文舘出版
- 発売日: 1993/03
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- 作者: 竹山昭子
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 2002/07
- メディア: 単行本
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最後に、ラジオの成り立ち関係で、忘れないようにしておこう、と思ったのは、いわゆる「報道」が、アメリカでも日本でも、放送で確立したのは遅いということ。競合することになる新聞からの圧力が強かったようで、独自の取材力がなく、新聞の記事を配信してもらう形が(特に日本では)長く続いたみたい。
で、そうなると、それにもかかわらず放送の「中立」というのはかなり早くから意識されていたはずなので、これは、報道機関が言う「不偏不党」とは出自が違う観念(もしくは態度)である可能性が高そうですね。
アナウンサーがなぜ、あのように独自のやり方で「品行方正」なのか?
遠隔通信・放送の出現による「場所感の喪失」という、佐藤卓己先生がお気に入りであるらしいメディア論的な説明のほうが、やっぱり有力な説明なのでしょうか。つまり、電波にのって地上へ降り注ぐ情報のニュートラルな感じは、どこでもない場所の無重力感を謳歌しているのであって、いわゆる「言論の自由(権力の介入からの)」みたいな闘い方をしているわけではない、と。(どちらが良い悪い、の話ではなく。)
- 作者: ジョシュアメイロウィッツ,Joshua Meyrowitz,安川一,上谷香陽,高山啓子
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2003/09
- メディア: 単行本
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おまけ:音楽は「どこでもない場所」に鳴り響くのか?
最後の話は一つ前のエントリーともつながっていて、音楽ホールが(オーディオ機材を楽しむ自室と同様に)日常から切り離された「どこでもない場所」であって、だからこそ、純器楽には最適・理想的なのだ、という考え方はたぶんそろそろ限界が近づいていて、
リサイタルも室内楽もオーケストラも、それぞれ、特定の場所で育ってきたものだということを一生懸命思い出そうとするのが古楽やピリオドアプローチなのでしょうし、
だから最近は、「オーセンティシティ(正統性、作者からの一子相伝を思わせる)」というあまり政治的に正しくなさそうなスローガンを「HIP (Historical Informed Performance=歴史的情報にもとづく演奏)」と言い換えることになっているらしい。開かれた英国王室は、権威を押しつけません、ということですね。(この本は英国王立音楽学校協会謹製です!服部幸三先生や角倉一朗先生のご著書を参照せよとの有難い訳注満載なので、芸大一門は有難く拝読するように。)
- 作者: アントニー・バートン,角倉一朗
- 出版社/メーカー: 音楽之友社
- 発売日: 2011/07/02
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そういう特定の演奏モードに帰依しない人であっても、敏感な人たちは「なんか違うよね」ということに気付いて、それぞれに、どうにかしようとしているような気がします。概して、面白い演奏というのは、どこかしらにそういうところがあると思う。
で、そのような模索を応援しない(できない)、感知しない興行の発想というのは、なんか無性に腹が立つわけです。なにをわざわざ、つまらなくしてんだよ、ということです。
そういう興行師が、「どこでもない場所」で音楽と戯れたいタイプの音楽ライターを起用してものを書かせるということになると、なるほど話の平仄は合っているわけですが……。
でも、これだけ「どこでもない場所」が遍在する不可思議な世の中になってくると、逆に、音楽を聴くことこそが、「ここはどこ、私は誰」をまざまざと思い知る機会になっていくんじゃないか、と思う。たとえば劇場ってそういう場所だし。
加藤浩子さんがカーセンは面白い、とヴェルディ本に書いていたので観てみた(2005年の来日公演は観ていなくてこれがわたくしにとっては初見)。ヴェルディ:歌劇《椿姫》フェニーチェ歌劇場2004年 [DVD]
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2011/01/19
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大胆といえば大胆だけれども、丁寧に作る方向性としてはとてもテレビ的な気がしました。そしてこのDVDは、劇場中継の撮影演出が機敏で素晴らしいと思いました。
でも、観ているうちに思い知らされるのは、こういう舞台を再建後のこけら落としでやったヴェネツィアのフェニーチェ劇場は凄いな、ということ。他のプロダクションを考えても、カーセンは、「場所感」が希薄な演出をするのだけれども、そういうニュートラルな表現をいつどこ(の劇場)に投入するか、ということについては戦略的なんじゃないか、という気がします。(前に日本でもやったキャンディードとかも、やりたいことはわかる。好きにはなれない舞台だったけれど。)