二枚舌はよくない

[一部改稿、追記あり]

まだ春先だったと思いますが、あるピアノの演奏会へ行くと、主催のホールの担当さんが「彼女は本当に偉いんですよ」と力説した。

その人の説明によると、この企画は彼女が自分で今どうしてもやりたいから、と言ってやっていることで、でも、身の程知らずと言われてもしかたのない企画だから、無理に盛りあげたり、宣伝したりせずに、自分の挑戦としてやりたいのだと、先日も、さる著名な先生がいい企画だから自分のもってる媒体に紹介記事を入れようか、と提案してくださったのに、彼女のほうから断ったんですよ、等々。

百戦錬磨にセールストーク慣れしている人だったら、また受け取り方が違うかもしれませんが、わたしはそこまでひねくれていない、というか、少なくともこれは本当の話なのだろうという感触があったので、それなら、あまり周囲が騒がずに、企画をやり遂げるまで静かに見守ってあげようじゃないか、と思ったわけです。

で、その後、「今が旬の日本人演奏家」みたいな雑誌の企画があったときにも、まっさきに考えたのはこの人だったわけですが、その話があったので、今は静かにしておいたほうがいいのだろうと、敢えて別の人のことを書いた。

そうしたらですよ、あなた(笑)。

さっき、そのホールの広報誌が手元に届いて、開いたら、ドーンとそのピアニストの独占インタビューみたいな記事が載ってるじゃないですかいな。(しかもインタビューが行われたのは、担当さんがわたしにそんな話をした数日後であることがはっきりその記事に書いてあるので、だとしたら、わたくしにその感動秘話を話した時点で既に、ホールが彼女を大々的に宣伝するべく段取りが整えられつつあったのは間違いない、という(笑)。)

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つまりどういうことかというと、

内容はすばらしいのだけれども、諸般の事情でメジャー感のある満員御礼イベントになり得ていない、ある種の「マイナー感」というのは、メジャー感のあるイベントとは別のタイプのそれなりに「コア」なお客さんを惹きつけたりするものではあるので、そういう人(私だ)にはそれなりの対応をしておいた上で、

その裏ではちゃっかり「これはやり方によってはもっと利益の出る商売になる」と計算して、自分のところでコントロールの効きそうな人を使ったプロモーション計画を着々と進めていたのであった、

というわけで、プロの興行師の仕事が行われたわけですね。

もちろん、この記事を受注して書いた人(「いい人」なので裏事情とかはきっと何も知るまい)も、アーチストさん(たぶん、どうしても!と頼み込まれてインタビューをOKしてくださったのであろう)も、何の後ろ暗いところのあろうはずはありません。

ホールの人も、やるべき仕事をやったに過ぎない。

たた単に、わたくし白石知雄が、個人のポリシーとして、この人は信用できない、今後一切、大人の社会常識として必要最低限なこと以外は口をきかない、とか、そういう風に決めれば済むだけのことです。

そのような態度によって、「マイナー感のあるイベントをことごとく潰していくのは承服しがたい」「芸事には、周囲の世話焼きがよけいなおせっかいとなる局面がある」というのが私の意見である、ということを明確にさせていただきます。(もちろん、同意を強制するつもりは毛頭ないが。商売だし。)

仕事も人生も、こういうメリハリがあったほうが楽しい。地中海的な「名誉」の概念が(まるで歌舞伎の武士の意地みたいな感じに)貫かれているヴェルディ史劇みたいで悪くない(笑)。ドラマが提示する「問題=プロブレム」というのは、絡まり合って解決できない事柄を、しょうがないので絡まり合いとしてそのまま見せる、それがドラマであり「プロブレム」なわけですから。

シモン・ボッカネグラとイドメネオを一年でどかんとやってしまう実行力には、このくらいの「プロブレム」が伴うほうが似つかわしい、と本心からそう思う。そういう風に清濁あわせ飲んで興行する人が関西に久々に出てきたんだ、とむしろ私は喜んでおります。もっと本気で悪辣なことをやっちゃってください! この程度ではワルモノ度合いが全然たりない。ライターをしごきにしごいて「苦役」で半泣きにして、後世に語り継がれる伝説の名作を絞りださせなければダメです。彼は暇だし、才能があるのにすぐ自己満足しちゃうグウタラなんだから。あれでは読み飛ばされて終わっちゃうじゃないですか。金で鼻面をハタいてライターを育てないと!

ヴェルディ: オペラ変革者の素顔と作品 (平凡社新書)

ヴェルディ: オペラ変革者の素顔と作品 (平凡社新書)

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ということで、わたくしはヴェルディ・オペラの登場人物と同じくらい瞬時に沸騰して、不快なことはその日のうちに決着を付けて翌日には上機嫌になることを信条としておりますので、

当該PR誌は、ただちに破り捨てさせていただきました。(本当に一片が5センチ四方になるくらいに細かく破って捨てた。薄い紙だったので、作業は早い。誰もいない自宅での作業ではありましたが、芝居がかった感じで、ちょっとすっとした(笑)。)

P. S.

このようにして、ひとつのピアノ・リサイタル・シリーズの好ましいマイナー感が、そうかといって一挙にメジャーな世界へ躍進!というほどの晴れやかさのない中途半端なパブ記事でツブされてしまったことを確認した同じ5/24の夜、京都市のコンサートホールでは、井上道義が、ブルックナーを照明演出付きで振って「満員御礼」を叩き出しておりました。

こういう風にケレンに身を包まないと安心して「真剣」になれないというのは一種のビョーキだと思いますし、

日本人指揮者がオーケストラをコントロールする力は、おそらく大友直人/大植英次の世代で歴然とレベル・アップしていて、やっぱりミチヨシさんは、色々いいところはあるのだけれども、指揮者としての耳とスキルという点だけに着目するとしたら、気持ちは若いけれども尾高忠明とかと一緒に「それ以前」の側へカテゴライズせざるを得ないわけですが、

でも、そんな指揮者スキルの限界など何するものぞ、絶世の美女みたいな良いオーケストラ(京響の今の各セクションのバランスの良さはほれぼれする)をちゃっかり「お持ち帰り」してよろしくやっちゃう最強の「ナンパ師」(誉めてます)だなあ、この人は、と改めて思いました。

ホンネのdisばっかりが跋扈するネット言説はうんざりだ、偽善・建て前の端正な佇まいを見直そう、という論調が、内憂外患であちこちから出ている今日この頃ですが、

偽悪・ワルモノをちゃんとやり通す、というのもまた、幼児的なホンネとは別の文化である(「白石をクビにしたのはオレの力だ」と嘘でも豪語する、とかね(笑))、と書いて、「音楽学との闘い」(?)で幕を開けた今週のわたくしの一連のエントリーのまとめとさせていただく次第であります。

それ以上に嫌なのは、この「障碍者」という表記に、見る者を「啓蒙」しようとする気分が含まれている点だ。

「子供」→「子ども」の時にも書いたが、この種の特別な表記を広めようとしている人たちの口吻には、

「私たちのような人権意識の高いリベラルな人間は、『障害者』などという差別的な表記には耐えられないのです」

という特権意識のようなものが露呈している。別の言い方をするなら、

「あなたがた無神経で無教養な人々は何にも知らないだろうから教えてさしあげるけど、『害』の字には、『他者を傷つける』という含意があります。そういう文字を、『しょうがい』をかかえる人間の呼称として使うことの罪深さがお分かりですか?」

といった感じの「ご高説」みたいなものを、私はこの文字の字間から受信するのである。

人権はフルスペックで当たり前 (2ページ目):日経ビジネスオンライン

そういえば、学者の一部で強く推進される、外国の固有名詞は「原語の発音に忠実な表記にしましょう」も、日本の文脈に外来語が混ざっていく現場を直視しない、啓蒙の装いによる「隔離政策」だという気がします。

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

慰安婦と戦場の性 (新潮選書)

例の問題は、事実として何がどこまでわかっているのか、ひとまずこれを読んでから、ということになっているみたいですが、

この話題がどうもピンとこないと思っていたら、朝日新聞が従軍慰安婦問題のキャンペーンを展開したのは1992年1月。私がドイツに留学している間だったらしい。ドイツの日本人留学生の間で、ペルシャ湾への自衛隊掃海艇派遣のことはひとしきり話題になったが、国内でそういう議論が仕掛けられていることは当時ほとんど知らなかった。