身も蓋もなく、謎もない(メシアン/ブーレーズ/ブリテン)

今日はびわ湖ホールで15周年記念のオペラ・ガラへ行きましたが、これも芸術祭参加公演なのでコメントはできません。

生誕200年のヴェルディとワーグナーが色々あったわけですが、昨日の続きで、2013年は、この2人「だけ」じゃなくて、その百年後に英国でブリテンが生まれて今年が生誕100年なのをセットで考えるのがいいのかな、と思っております。

[バカみたいな勘違いがあったので一段落分削除。でも、ドゥダメル&スカラ座がアイーダとラダメスの二重唱をNHK教育でやっているのを観ながら、ピーターとエレンが歌い交わした末にア・カペラのユニゾンで歌うのは、メロディーがもうちょっと(かなり)モダンだけれども、舞台上の効果としてはこれと一緒だと思ってしまったのです。わたくしとしては、脳内の「同じ場所」に格納したい。まあ屁理屈ですけれども、でも、ブリテンは、譜面・実体としてはモダンなのだけれども、極上の古典を聴いときと同じような気持ちにさせる「フェイク」の人ではあると思う。]

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回り道します。

少し前から書こう書こうと思っていたのですが、メシアンと弟子のブーレーズ(ブゥレーズ、と書いた方がいいんですかっ!五月蠅いなあもう)は、美しい音響を製造できればそれで幸せな人たちなのだ、本音のところでは、そこに謎や深みはないし、それでいいんじゃないか、と私は思っております。

随分前に東京でブーレーズ大特集をやったときにも、ものすごいお金と叡知と手間をかけて、結果がとびきり美しかったから、皆さん良い気持ちになったのでございましょう?

メシアンは、美しい、といっても、シンメトリーや単純な反復のような初心者向けのスッキリ明快からはみ出すところがあって、その絶妙の匙加減な不規則こそが「飽きの来ない美しさ」なのだ、というような美意識で、そういうポイントを見つけるのがものすごく上手かった。個人としてそういう嗅覚に秀でていただけでなく、古今東西の音楽(音響)における「美しい不規則」を調べ上げて、これこそが神への道だ、と信じていた人に見える。そして、小鍛冶邦隆さんの「知のメモリア」をもじれば、人類の音楽的叡知としての「美しい不規則のメモリア」のなかへ人格が融解している感じがします。

ブーレーズも、いちいち派手に週刊誌的な話題を振りまいてしまう発言や行動(華麗な経歴)をとりあえず脇に置いて、書いてることを淡々と読むと、ややこしい議論の数々は、師匠譲りの「美しい不規則」を見据えながら、でも、師匠のような職人の手作業は巨人メシアンにしかできない一代限りの技なので発想というか実装を変えて、いかにも戦後っぽい各種メソッドや計算やテクノロジーでエンパワーしたシステムを組んで、あとはそれをメンテナンスしてるだけなんじゃないかという気がするのです。

たぶん、きれいな音がすれば嬉しい人たち、というか、ああいうのが、彼らの求める究極の「きれいさ」なんですよ。それは、気難しいこと言わずに肯定していいんじゃないか。

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で、先日テレビ・オペラ版「ピーター・グライムズ」を観ながら、美意識や実際の音の手触りは随分違うけれども、ブリテンもメシアン/ブーレーズも、「身も蓋もない」感じ、仕掛けはあるけど、謎とか深さを求めて裏側をひっくりかえしてもしょうがなさそうな感じ、やりたいことが過不足なくそこにくっきり焦点を結んでる感じは、よく似ているなあ、同じ時代の音楽だなあ、と思ったのです。

オーケストラの音が内燃機関を装備した生命体のようにうごめくシュトラウスやプッチーニみたいなことはもうやらない/できないし、あれこれ深読み/解釈/詮索をされるのは鬱陶しいので、出せるものは全部表に見せた素通しな感じがある。

当人にはきっと色々出せないものがあったのだろうということを後世の論者が色々暴いていますが、でも、それは「秘密を作中でこっそり打ち明ける」というのとは違ったんじゃないか、と思うのです。誰だって、言えないこと/言わないことはあるけれど、「私だけはあの人の真実を知っている」みたいに他者がウェットに依存・転移する何かが仕掛けてある感じはしない。ここがどうしてこうなっているのか、それは音を聴いたら全部わかるはずだし、わたしゃ意味がわかるように作曲・演奏しているはずです、という風に聞こえる。

(で、ブリテンはそんな風に「裏取引」できなさそうな人だったものだから、皇紀二六〇〇年で曲を委嘱した戦中の大日本帝国とも、来日時にNHKで彼と懇談した戦後民主主義で一旗揚げるプロジェクト絶賛推進中の作曲家たち(柴田南雄を筆頭に)とも、話が噛み合わなかったようですね。作品は注目されたけれど、「人間ブリテン」は同時代の日本とほとんど関係なかった。)

ざっくばらんに言ってしまえば、これが、ヒトラーを崇拝するような精神性とか、ムッソリーニに熱狂してしまうエモーションはまっぴらだ、という連合国の戦後の感じなのかなあ、という気がします。

イタリアのヴェルディとドイツのワーグナーだけだと、なんだかやっぱり19世紀がオペラの黄金時代であった、今はもう落日、それがオペラの運命、という感じになるけれど、その100年後に、そーいうのはまっぴらだと思っていたに違いない英国のブリテンがいたことを思い出すと、オペラには、さらにその「続き」がある、という気になってくる。

実際、20世紀を超えてオペラは現在まで持ちこたえているわけですし、中継点としての20世紀英国のブリテンは大事かもしれない気がします。

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少なくとも、日本の昭和のオペラは放送なしにはあり得なかったような形でずっと続いて、劇場が稼働したのは20世紀末、平成になってからなのですから、劇場でこそ映えるヴェルディやワーグナーだけでなく、ブリテン(やメノッティ)をテレビ時代のオペラという視点で一度真剣に考えておいたほうがいいんじゃないかなあ、と思うのです。

オペラには、身も蓋もなく謎のない作品(製品?)が「冷たいメディア」(マクルーハン)と手を組んで生き延びた時代があった、20世紀後半というのはそういう時代だったということで、別にいいんじゃないかと思うんですよね。